コオロギの独白(承前)
それから記憶は途切れがちだった。黒田は出血多量で死ぬのを望んでいたようだが、矢島の双子が息のかかった病院に運んでくれた。飛び出した関節の骨を削り、血管を再建する大手術が行われたらしいが、麻酔で眠っていて知らない。後から聞いた。
長い夢の中で、誓と遊んでいた。段ボール箱が残る和歌山の新居で、キッチンには菊美が立ち、カレーを作っている。たまに紀の川に行って三人で川遊びする。両腕でダンプを駆る。
目が覚めた。よく日の当たる畳の上の布団に寝かされていた。古い柱と太い梁が見えた。竹林に佇む孔雀の見事な彫刻がほどこされた大阪欄間が見えた。ここは天王寺の吉竹組総本部だ。
「熱が下がらんね」
隣で割烹着姿の女性が氷水に浸したタオルを絞っていた。豊原の親分の若い後妻だった。菊美に見える。
「気、ついた?」
「菊美」
「かわいそうに。うなされて」
髪を撫でられた。その細い腕や小さな顔に触れようと左腕に力をこめたが、肘から先がない。泣き叫んだ。
縁側に男が座っていた。大丈夫ですか、と声をかけてくる。標準語のイントネーションの穏やかな声に聞き覚えがある。
矢島勇の声が襖の向こうの、奥の院と呼ばれる部屋から聞こえてきた。
「黒田は瀕死のコオロギを穴に放るように言うたんですが、いくらなんでもあかんですわな。もとはといえばあいつのヘンタイ息子がしでかしたことでしょうに。コオロギがかわいそうです」
「黒田もバカ息子のせいで無理をしよったな。で、例のもんは」
豊原の声がした。彼はまだ五十代だ。西日本最大の任侠組織のトップらしく声が太くてはりがあり、落ち着き払っていた。
「コオロギめ、やるやないか。うまいこと剥がしたな」
豊原は笑っていた。勇が続ける。
「ほならこれにて顔面の皮も処分しまっせ」
健優の遺体をどこにどう遺棄するのか、相談が始まった。
「黒田は了承したんか。息子の葬式はおろか、先祖代々の墓にもいれてやれん」
「そら強姦殺人犯の葬式なぞできんでしょう。警察の目もあります」
「ほな香典も送らんでええな。東日本制覇は道半ばやなのに、大事な十四人衆の一人をあんな目に遭わせよって」
「黒憂会との関係も考え時じゃのう」
広島弁で誰かが言った。瀬戸の港湾荷役を仕切る若頭補佐の一人だ。
「で、コオロギや。どうする」
豊原は自分のことをとても心配してくれているようだった。
「うまいこと顔面を剥いだ。修行させた甲斐があったやろ。これであいつも鬼になった。十四人衆に再合流させたらええ」
「しかし片腕がなあ」
どうやら奥の院で吉竹組の幹部が集まり、今回の騒動の落としどころを探っているようだ。
矢島進の声もする。
「黒田の若い衆から聞きましたけど、見事な殺しっぷりやったそうですよ。女をやられた復讐心でやったにしろ、冷静やった」
矢島勇も意見する。
「腕がないのもそのうち慣れるやろ。うちの古参で親指しか残っとらんのがおりますけど、なんとかなるもんやと言うとります」
「しかし関西においておくのはどうやろな。黒田の目が黒いうちは、トラブルの種になりかねん」
豊原は心配そうだ。縁側にいた男が奥の院に入っていくのが見えた。
「うちで引き取りましょうか」
聞いたことのある声だったが思い出せない。
「僕はもともとコオロギ君とは面識がありましてね。十四人衆として地下で鍛錬を積んでいたときも、何度かうちの常盆に遊びに来てくれました」
曳舟の向島一家総長、向島昭雪だ。「名前はまだない」という夏目漱石の引用から、向島昭雪とは親しくなり、東京にいる間は世話になった。そもそもこの引用をきっかけに、菊美と恋仲になった。先生、先生と彼女の尻を追いかけた日が、あまりに遠い。天満のアパートに行けば、教科書を山積みにし、おいしい手料理を作った先生が自分を待っていてくれている気がする。前髪に大きなカーラーを巻いて、トレンディドラマを熱心に見ていた彼女の背中が、いまも手に届く距離にありそうで、菊美が死んだことの実感がなかった。
誓はどうなったのだろう。
「十四人衆として無理やったとしても、賭場で下働きくらいはできるでしょう。ちなみに黒田さんは曳舟の賭場を出禁になっています」
黒田は上京のたびに向島一家の常盆で負け続け、借金は一億円を超えていた。
「黒田さんがコオロギにちょっかい出そうにも、曳舟には近づけません。コオロギ君をうちで引き取れば、一件落着です」
異論は出なかった。
「赤ん坊はどうした」
豊原の親分が誓の心配をしてくれた。
「無戸籍、未成年、片腕のコオロギでは育てられんでしょう。奴が行方を捜してまたひと悶着あっても困りますさかい、マッポんとこに回しました。大阪府警の桜庭功いうマル暴です」
「なんや、あいつか」
豊原が苦い声で言った。桜庭は豊原を詐欺やら銃刀法違反やら細々とした罪で何度も刑務所送りにしている。そのたびに四代目吉竹組は東京進出への機会をそがれてきた。
「桜庭がコオロギの女房が出産のときに世話をしとったようです。お初天神に赤ん坊はおると桜庭の内線に電話をしたら、五分でパトカーぶっ飛ばして来よりましたよ。誓、誓、言うて抱き上げて泣き崩れておりました。母親の殺人の捜査も桜庭がやっとります。赤ん坊もどこかでひねり殺されとると思ったんでしょう。警察の捜査は難航しとるようです」
「ま、今回もまた警察は迷宮入りでっしゃろ。健優の死体は永久にあがらん」
「どこの基礎工事現場に投げたんや」
「神戸港ですわ。あそこはいま復興工事がさかんやさかい」
一同は解散したようで、豊原が矢島の双子と縁側に出てきた。日本庭園の手入れの話を始める。矢島が庭師や業者を紹介していた。豊原は庭に対してこだわりが強く、矢島の双子に今日も細かく注文をつけている。下部組織のチンピラが起こした殺しなど、日本制覇を目指す吉竹組には、ささいな出来事にすぎない。
左腕の傷が癒えるのに四か月かかった。吉竹組総本部にしばらく身を置いた。元看護婦だという豊原の後妻が、身の回りの世話をしてくれた。
最初、左腕のないアンバランスさに、まっすぐ歩くこともできず、便所の紙をちぎるのにも難儀し、靴下を履くのにも十分かかった。いまでは右手の指ひとつでワイシャツのボタンをとめることもできる。ベルトはもっと簡単だ。ネクタイだけは難しく、練習をしているところだった。
何度か大阪府警が総本部にやってきた。元教師の強姦殺人についての聞き込みだ、と桜庭が大声をあげる。令状があるでもなく、若い衆が門前払いにしていた。その応酬をふすまの奥から聞く。
「コオロギちゅう若い衆は知らんか」
「誰やそれ」
「殺された女性の恋人やった」
「そんな奴がこの世に存在する証拠でもあるんですか」
無戸籍を逆手にとっている。自分の存在すらなかったことにして、事件との関与を否定した。
「せならこれだけ伝えといてくれんか」
「せやから、コオロギなんかおらん」
「誓がハイハイしだした」
いますぐ桜庭と話をしたい衝動に駆られた。こらえすぎて息苦しい。
「うちのリビングを猛スピードでハイハイして元気いっぱいやと伝えておいてくれ。離乳食も始まっとる」
夏の終わり、若い衆にまじって総本部の庭の草取りを手伝っていると、表の門があいて客人がやってきた。
組のしきたり通り、玄関へと続く敷石の脇に一列に立って客人を出迎えた。
向島昭雪だった。自分に気づかずに一度通り過ぎたが、引き返してきた。
「お、見違えたな」
肩に手を置き、しみじみと、筋肉をつけて一回り大きくなった自分の体を見た。そして悲し気に、左のTシャツの先の空白を見る。
「迎えに来た。東京に行くぞ」
スポーツバッグに洗面用具と下着、服をいれて、昭雪が乗り付けてきたジャガーXJのトランクに入れた。誓の思い出の品も、菊美の遺品もなにひとつ手元にない。
「お前、助手席に乗れよ」
昭雪が左ハンドルの運転席に座ってエンジンをかけた。子分も運転手も連れていない。
「向島さんが運転するんですか。東京までえらい距離ですよ」
「ドライブが好きなんだ」
豊原の親分と後妻が門前まで出てきて見送ってくれた。助手席から深く頭を下げる。ジャガーが走り出す。
「ドライブ好きというのは嘘だ。ボディガードはいない。運転手は自分のシノギで忙しい、小さな組でね」
向島一家は吉竹組の三次団体だ。昭雪は幹部ではないのに、なぜ自分のその後を決める奥の院の会議のとき、本家にあがっていたのだろう。尋ねると、昭雪は笑った。
「警備当番で偶然あの日は本家にいただけだ」
「賭場でえらい儲けてらっしゃいますよね」
「都内は摘発続きだよ。やってくるのはツケだらけのヤクザ者ばかりだ」
借金の回収ができず、向島一家のシノギは先細っているらしかった。
「そんなわけで早々に我々は吉竹組の傘下に入って身を固めたというわけだ。豊原の親分は上納金をきつく回収することはないし、十四人衆が奪った歌舞伎町のチャイナマフィアのシノギを分けてくれた。なんとか命拾いしたところだ」
「そうでしたか」
「向島一家はここからスタートなんだ」
ジャガーは大阪城方面に向かっている。大川の向こうには天満があるはずだが、ジャガーはその手前であっけなく右折し、大阪の中心地から離れていく。目を閉じて、迫りくる悲しみを必死にこらえた。
「忘れろよ」
昭雪が言った。
「曾根崎であったことも、天満での生活も忘れろ。お前は今日から生まれ変わるんだ」
阪神高速に入る。ルームミラーにうつる大阪の景色が一瞬で小さくなり、消滅したように見える。制限速度が遅い近畿自動車道や名神高速道路では良心的な運転をしていた昭雪だが、東名高速道路に入った途端、人が変わったようにアクセルを踏み込んだ。スピードメーターがいっきに百六十キロまで跳ね上がり、その後も百三十キロ台を維持して飛ばしている。休憩も全く取らないので、コオロギは助手席で冷や汗をかいた。
牧之原でようやくサービスエリアに立ち寄った。売店に入ると、片腕の自分を休憩の人々がじろじろと見た。腕をなくしてから娑婆に出るのは今日が初めてだった。二人で富士山を眺めながら、そばを食べた。
「お前、東京に行ったらまずなにをしたい」
「刺青を入れたいです」
「背中ので充分じゃないか」
「胸があいてます」
「胸は痛いぞ。皮膚が薄いからな」
「菊の花を入れたいんです」
「そうか。うちの出入りの彫師がいるから、柄を厳選するように言っておく」
二人でジャガーに戻り、エンジンをかけた。プロ野球の実況がラジオから流れていたが、番組が変わっていた。女のパーソナリティの甲高い声が耳障りだった。
「第一話、見ましたか。『愛していると言ってくれ』、豊川悦司が素敵でしたよね」
「常盤貴子ちゃんのかわいいこと」
ドラマの話をしているようだった。菊美はナントカという女脚本家のドラマに熱狂していた。
「さすが北川悦吏子先生ですよね」
ラジオの女パーソナリティが言った。
「そうそう、北川悦吏子ワールド全開の胸キュンドラマになりそうですね」
菊美の大好きな脚本家のドラマが、秋から始まっていたようだ。もう菊美は、見ることができない。
波のように喪失感が押し寄せてきた。彼女の死んだ姿を見てから、その現実から逃れるように日本刀を振り回し、犯人の顔面を剥ぎ、やがて自分の腕を落として死線をさまよった。回復してからも左腕のない人生を受け入れることに集中し、菊美のことは考えないようにしていた。毎日のように誓の心配はしていたが、自分よりよほど桜庭夫婦の方が誓を幸せにできるだろうから、恋しく思いながらも納得していた。
菊美がもうこの世にいない。その凄まじい喪失感に、いま初めて身が引き裂かれる。
右手で昭雪の左腕を掴む。ハンドルがぶれ、クルマが大きく蛇行した。
「戻ってください」
クルマはすでにサービスエリアを出て、追い越し車線を時速百三十キロで走行していた。
「危ないじゃないか」
後続車から激しくクラクションを鳴らされている。
「頼みます、天満に戻ってください。お願いします」
泣いて昭雪にすがった。
「菊美のところに戻らしてください。菊美の部屋に行かなあかんのです。わしの帰りを待っとった。引っ越しするはずやったんです」
「死んだんだよ、彼女はもう」
「菊美に会いたい。あかん。耐えられません。生きておられん」
昭雪は乱暴に自分の手を振り払い、アクセルをべた踏みした。ジャガーがつんのめったのは一瞬だ。すぐさま加速し唸り声をあげて東名高速道路を疾走する。
ヘッドライトのまぶしさに目を開ける。ジャガーはどこかのサービスエリアに到着していた。出発したのは午前中だったが、もう夕暮れ時だった。いつの間に寝てしまったのだろう。身を起こしたとき、後部座席からいびきが聞こえてきた。昭雪がブランケットをかぶり、熟睡していた。ノック音と共に、見知らぬ若い男が運転席に滑り込んできた。
「ちーっす、向島一家の倉敷です。コオロギさんでしょ」
じろじろとTシャツの左袖の先を見た。
「派手にやったねぇ」
倉敷和成は自分より五歳上の向島一家の若い衆だった。昭雪はさすがに運転に疲れたようで、神奈川県に入ったところで、若い衆を呼んだらしい。
「だから新幹線使えって言ったのに、ジャガーで走ってみたいからと、昨日の深夜に出発したんですよ。殆ど休まずに東京大阪をクルマで往復なんて、無理にもほどがあるよ」
倉敷の運転で本線に戻った。彼はいま合力見習いをしているようだが、警察の賭博の取り締まりが日々厳しくなり、将来を考えあぐねているようだ。
「どれだけ張りのパターンを覚えたところで、賭場が消滅したらシノギも消える。この先どうすっかな」
倉敷はちらりとこちらを見た。
「君はクルマの運転はもともとできてたの」
「はい、仕事でこっちにおったとき、運転はしとりました」
十四人衆が仕事をするとき、ドライバーをよく務めた。戸籍も住民票もないので運転免許証は持っていないが、黒田の運転手に教えてもらい、十四歳のときから運転していた。
「来たのか、倉敷」
後部座席の昭雪が目を覚ました。七三に分けた髪が乱れ、大あくびをするさまはどこかの疲れたおやじだった。
「お前が泣き喚いて、ようやく静まったと思ったらぐうぐう寝始めて、こっちまで眠たくなっちゃったんだ」
昭雪はあくびが止まらない様子だった。多摩川を越えるとクルマの量が増え、用賀から首都高に入るころには渋滞にはまった。
「ちょうどいい、次の出口で降りたらコオロギに運転を代われ」
ぎょっとして後ろを見た。
「わし、左腕がありません」
「なんのために左ハンドルの外車を用立てたと思ってんだ。ハンドルも軽めに改造してもらったんだぞ」
凄まれた。
「シフトレバーもパーキングブレーキも右手でできる。このクルマを運転するのに左手は必要ない」
三軒茶屋で首都高を降りた。玉川通りに出たところで倉敷はジャガーを路肩に停めた。
「向島さん、無理です。マッポもたくさんいそうです。警視庁は厳しいんやないですか」
「お前、曳舟に到着したらすぐに盃だぞ」
昭雪は口調が厳しくなっていた。
「親の言うことを聞けないのか。それから関西弁もやめろ。耳障りだ」
大阪で対面したときは常に紳士だったのに、東京に来た途端、昭雪の本性が現れたようだった。
「わかりました」
クルマを降りて、運転席に回った。椅子とルームミラーの位置を調整しているうち、昭雪が助手席に移動した。倉敷は後部座席に座ってシートベルトをし、笑いながら「なんまいだ」と両手を合わせた。
「行け。俺が指示する」
右とか左とか適当な調子で、本当に道をわかっているのか怪しい。
「親分、ここ一方通行ですよ」
「かまわん」
池尻大橋でサイドミラーをこすりそうなほど狭い路地に入り込んだ。一方通行だ。案の定、向かいから走ってきた軽乗用車と行き合ってしまった。バックに入れようとしたら、「するな」と昭雪に厳しく言われる。
「パッシングせい」
軽自動車の運転席の窓が開き、中年の男が「ここは一方通行ですよ」と言った。倉敷が後部座席の窓から身をよじり、怒鳴る。
「お前が下がれ。死にてぇのか、あぁん」
軽自動車の中年男は慌てて窓を閉めてバックをし、道を譲った。
住宅街を抜けてしばらく都道を走り、渋谷に入った。宮益坂をあがり、表参道に出る。二十時を過ぎ、食事やショッピングを楽しむカップルや若者で表参道の通りはにぎわっていた。
明治通りと交わる神宮前の交差点を通過する直前、信号が黄色になった。ジャガーは先頭で停止した。右から左から車列が途切れない。目の前の横断歩道も人であふれている。
「コオロギ。目の前の信号は、青だ」
「いえ、赤ですよ」
「青だ」
彼は般若のような顔をして迫る。
「アクセルを踏んで直進しろ」
「無茶なこと言わんで下さい。通行人が歩いてます。まだこっちは赤です」
「青だ。早くつっこめ」
「無理です。人を轢きとうないです」
「お前、俺と盃を交わすんだろう。親が黒と言えば白も黒となる。そうだろ」
どうしたらいいのか。後部座席の倉敷に助けを求めた。倉敷は後部座席の窓の上の手すりを固く握って震えていた。
「アクセルを踏め!」
頭を殴られた。横断歩道の信号が点滅し始めた。人々が急ぎ足になっている。避けてくれることを願うしかない。歩行者はよけられても、明治通りを通過するクルマとは接触するだろう。やけっぱちになり、ブレーキからアクセルに踏みかえた。途端に昭雪がサイドブレーキを引き上げ、ギアをパーキングに入れて足を運転席に突っ込ませてブレーキを踏んだ。ジャガーは苦し気につんのめって止まる。
「バカヤロウ。人を殺したいのかッ」
耳元で怒鳴られた。
「一体なんなんすかッ」
怒鳴り返した。倉敷に後ろから髪をわし掴みにされた。
「お前、親父にどんな口きいてんだ、コラ」
横断歩道の信号が赤になった。明治通りには右折車が流れ込んでくる。
「忘れるな、コオロギ。お前はあの時、黒田親子を殺すべきだった」
昭雪の真剣なまなざしに、息が詰まる。
「あの時というのがいつなのか、お前ならわかるな。お前の女房は何年も黒田の息子の下着ドロに悩まされていたんだろ」
心拍が速くなっていく。
「お前に助けてほしいと言わなかったのか」
ハンドルを握る右手が汗で湿っていく。
「なんとかしてくれと言わなかったのか」
目の前の信号が赤から青に変わった。
「だがお前はなんにもしなかったんだろうよ。親には逆らえない。子分のお前は思考停止していた」
後続車からクラクションが鳴らされた。
「親が白と言ったら、目の前の犯罪も、女房がされたことも、全部、無罪か」
また殴られた。
「早くクルマを出せ。親に横からなにを言われようが思考停止するな」
慌ててアクセルを踏んで発進した。神宮橋の交差点でまた赤信号に引っかかった。停止する。
「青だぞ、春刀」
「いま発進したら通行人を轢き殺します」
毅然と返した。昭雪は頷いた。
「親が黒を白と言った。その命令に従ったらカタギに死人が出る。そう判断したら、迷わず親を殺せ」
昭雪の凄味にコオロギは見とれる。
「それが真の任侠道だろうが」
曳舟の事務所で親子盃の準備がされていた。昭雪からの盃を飲み干し、大切に和紙に包んで懐にしまった。
胸に刻んだ大輪の菊の花に色を入れ始めたころ、裁判所から戸籍が与えられ、昭雪と養子縁組した。
墨田区役所に行って手続きし、記念に住民票を取った。
「向島さん。向島春刀さん」
役場の市民課のおばさんが名前を呼んだ。
「こちらで間違いないですね」
冬が終わり、春が始まろうとしていた。菊美が死んでもうすぐ一年が経つ。誓は今年、二歳だ。とっくに歩けるようになっただろう。オムツは取れたか。おしゃべりはしているのか。桜庭夫妻をパパママと呼び、大切に育てられているに違いなかった。
向島春刀となった自分は二十歳になる。