第四章 報復(承前)
*
強い西日で顔を焼かれ、向島春刀は目を覚ました。小金井公園の第一駐車場に停めたシボレーのカマロの後部座席でうとうとしていた。左腕に寄り添うにように愛犬が寝息を立てていた。ドーベルマンだがメスの彼女はいま生理中でオムツをしている。ヒート中だから公園を散歩しているオス犬がたまにカマロまでおびき寄せられてくる。彼女の獰猛な姿を見て逃げていく。名前をマムという。
「お待たせしました」
運転席に向島一家の若頭補佐だった倉敷和成が乗り込んできた。
「マッポは」
「第二駐車場に置いたGRヤリスに張り付いているみたいです。余裕っすね」
広大な小金井公園は駐車場が東西にあり、距離も二キロ以上離れている。第二駐車場の脇にあるテニスコートで、倉敷の一人息子の練習試合があった。内偵の警察官は中学生だらけのテニスコート内には入らず、駐車場で戻りを待っているのだろう。まさか二キロ先の駐車場で別の車に乗り換えたとは思わないようで、マッポの姿はない。
「どうだった、試合は」
「ぼろ負けですよ。相手が早稲田の中等部だから更にむかつきます」
倉敷は中学受験に失敗した息子を気にかけていて、今日もただの練習試合だというのに応援に来ていた。息子からいつも煙たがられている。
「さて行きますか。あちらの将軍は待ちくたびれていますかね」
マムは倉敷には吠えない。向島の顔をしつこく舐めたあと、太腿の上で甘える。しばらく離れていたから再会後は片時も離れない。倉敷はナビを設定している。
「小田原から国道一号ルートでいいですか」
「いや、箱根ターンパイクに入ってくれるか。芦ノ湖口で待ち人を拾う」
カマロのハンドルを握っているからか、いつもより倉敷は口数が多かった。事務所では殆どしゃべらない。彼の口が動くのはタイヤが回っているときだけと言われている。箱根の険しい山中にある芦ノ湖まで二時間ほどで到着予定だった。倉敷は、気持ちよさそうにカマロのエンジンの重低音に身を委ねている。クルマに乗りなれているはずのマムが酔い、吐いてしまった。
到着した芦ノ湖畔でしばしマムを遊ばせる。彼女は張り切ったように体をぶるぶるとふり、ステップを踏んで、清々しい空気の中ではしゃぐ。休日で人出があるが、真冬のいまはコートを着込んでいるので向島の途切れた左腕も目立たない。自分に目を留める人はおらず警察の姿もなかった。
待ち合わせの男は湖畔で釣りをしていた。向島は無言でその隣に座った。マムも尻尾を振りながらついてくるが、釣りの男を見るなり吠えようとした。向島はマズルをつかんで叱った。
「彼は仲間だ」
マムは歯の隙間から薄い舌を出した。ごめんなさいの合図だ。
「相変わらず生理中か、その犬」
「その節はすみません。部屋が汚れたかと」
向島が関西にいる間は千住に面倒を見てもらっていたが、マンションの管理人から苦情を言われたらしい。向島一家の構成員はマンション住まいが多く、イヌの飼育は可能でも中型犬までというところばかりだった。さいたま市の一軒家に住むこの男が引き取ってくれていた。
「かまわんよ。おかげで泉組長と楽しい会話ができた」
関東吉竹組の若頭、本多義之はテグスを湖面から引きあげた。何も釣れねぇじゃねぇかとレンタル釣り道具屋をどやし、カマロの後部座席に乗り込む。
「なんだよ。アメ車なのに狭いな」
「すみません、スピード仕様なんで」
倉敷はギアを入れ替えた。
「将軍は待ちくたびれているでしょう、飛ばしますよ」
「気をつけろ、箱根ターンパイクはたまにサツが立ってるからよ」
「私道なのに点数稼ぎに熱心なことですよ」
「みなし公道、だったっけか。警察はなんでもこじつけて取り締まるからな」
「心配無用ですよ。今日は立ちません」
向島は言った。この界隈で取り締まりをするのは神奈川県警小田原警察署の交通課だが、その警察官たちが住む公務員専用官舎には定期的にヤクザが見回りを行っている。出勤者数を把握することで、交通取り締まりがあるかどうか判断できるのだ。もともとは密漁を取り締まる海上保安官の動向を知るための見回りだった。海の近くにある公務員官舎には、たいていヤクザがうろついている。
向島はマムがまた吐かないよう、体をさすって寝かしつけをした。だんだん自分も眠くなる。去年の秋からまともに眠れた日はない。本家吉竹組で矢島の双子に仕組まれ、関東吉竹組系八王子双竜会の若頭補佐、海竜将を殺害してしまった。
その直後、向島は矢島の双子と親子盃を交わし、若頭となった。
「疲れてるな、お前。白いのが増えたんじゃないか」
気遣っているのか揶揄しているのか、本多が苦笑いで言った。
「当然か。こんな状況じゃな」
「倉敷の方が緊張感はあるはずです。マッポが特定抗争指定した二つの組織の若頭を、いまクルマに乗せて走っているんですから」
倉敷は運転に集中している。しなくていいのに、たまにカーブをドリフトして本多を怒らせた。
「お前、いくつになったんだっけ」
「四十六。本多さんはそろそろ古希でしょう」
「バカにするな、まだ六十九歳、ピチピチの高齢者だ」
笑ってしまった。
「お前、あんときまだ十代だったろ」
「十八です」
「あれから三十年か」
娘の誓ももう三十路が近い。離婚し仕事に邁進しているようだが、やたらメッセージを送ってくる。父親を煽って尻尾を出させ、捜査に役立てたいのか。単なるかまってちゃんか。日常生活から男遊びまでいちいち知らせてくる。いま向島はなにもしてやれない。口出しするつもりはないが、父親らしいことをしてやれなかった分、彼女を想わない日はないし、大人になっても娘の一挙手一投足が愛おしい。
「狭いし、あっちぃなぁ、このクルマ」
本多がダウンジャケットを脱ぎ、セーターの袖を捲り上げた。手の甲から肘にかけて深い傷跡があらわになる。わざと向島に見せたのだ。本多は笑っていた。
「本多さんが関東側でよかった」
思わず、向島は口にした。
「天の思し召しさ。豊原親分が地獄から見守ってるんだ。伝統ある吉竹組の分裂に激怒しているはずだからな」
熱海湾を一望できる高台のリゾートマンションに入った。築四十年と古く、格安物件として中古で出回っているが、温泉を引いている関係で管理費が高い。最上階の七階は6LDKある。二十畳のリビングダイニングからは熱海湾が、西側にあるガラス張りのヒノキ風呂からは富士山の大パノラマが拝める。泉がバブルのころに購入したリゾートマンションだ。
半地下の駐車場にカマロを停めた。本多が電話を入れる。
「親父、向島が到着しました。向島一家の若頭補佐、倉敷も一緒です」
向島が本家と盃を交わすことを強要されてから半年経ち、ようやく関東吉竹組の泉との対面が叶おうとしている。昔からの顔なじみだった本多の根回しのおかげだが、当初、本多と連絡を取ることすら危うかった。本多と接触前に関東吉竹組の直参にヤッパや銃口を向けられたこともある。
泉は向島を信用していない。半径五メートル以内に近づいただけで顔面を剥がされると思っている。三か月間、陳情を重ねて、ようやく今日対面だ。
向島はカマロを降りた。マムもついてくる。本多はリゾートマンションのエントランスに入ろうとしていたのに、引き返してきた。電話口で泉ともめているようだ。
「クルマで待ってろ。すぐ戻る」
本多は通話したまま向島に言い、ひとりでマンションの中に入った。倉敷はカマロのフロントグリルにへばりついた虫を拭う。
「怖気づいてるんですかね」
「そこまで臆病な男ではない。警戒してろ」
倉敷は車内に体をつっこみ、グローブボックスからトカレフを出して腰ベルトに挟む。
二十分も待たされた。熱海海岸に夕日が落ちる。熱海城が後光を放っているように見えた。誓からメッセージが届く。
『お父さんの影武者が殺された』
一瞬、目がくらんだ。
『その場にいたのに守れなかった』
向島はスマホのニュースサイトを確認した。日東医科大学附属病院で銃乱射事件か、という速報が出ていた。詳細は不明だ。
本多が戻ってきた。難しい顔をしている。背後に、泉のボディガードを三人も連れていた。三人は向島を見るなりヤッパを抜く。
「おいッ」
倉敷もすぐさま懐から飛び道具を出した。
向島は右手を上げて掌を見せた。
「忠虎の件だろう。殺害したのはそっちか」
ボディガードたちは目を血走らせた。本多が言い訳する。
「信じてほしい。断じて、関東吉竹組が仕掛けた事件ではない。親父はお前との会談に前向きだった。今日ここで対面できるのを楽しみにしていた。熱海一のシェフを呼んで、宴の準備をさせているんだ。そんな状況下で、お前がかわいがっていた影武者を殺害させるはずがないだろう。これはなにかの手違いか、この会談をつぶしたい何者かの罠だ」
「そう願う。会談はどうする」
「ヤッパと銃口を背中に背負ったままでいいなら、歓迎するそうだ」
泉のボディガードたちが向島の背後に回る。ひとりが右腕を取り、銃口をこめかみにつける。もう一人は左肩をつかみ、ヤッパを首に当て、三人目は背後に回ってヤッパの先で向島の背中をつついた。
「いくらなんでも失礼だろう。いまや向島親分は本家吉竹組の若頭なんだぞ」
倉敷がしゃしゃり出たが、向島は下がらせた。
「カマロで待っていろ。山城に連絡して忠虎の詳細を探れ」
激しく吠えたてていたマムに、車内に入るよう合図する。マムは吠えるのをやめたが、その場を行ったり来たりして落ち着かない。
エレベーターで最上階へ上がる。玄関の中に入ると即座に背後の扉が閉められた。上がり框に大型モニターがあった。中に入るのを阻止しているかのようだ。
向島はたたきの上に座らされた。モニターの電源がつく。画面の中に泉がいた。いつもはアルマーニのスーツを着ているが、今日は代紋の入った黒袴姿だった。
「泉組長。リモート盃でもするつもりだったんですか」
「マッポの警備がきつくてね」
泉は半笑いで答えた。
「私と倉敷はまいてきましたよ」
突如、泉が激昂する。
「こっちもまいて来ているに決まってんだろ、誰に口を利いてるんだ、お前」
癪に障ったようだ。向島は謝罪した。箱根の温泉宿でまいたと本多から聞いている。いま、警視庁の内偵担当刑事は、泉がのんびり温泉につかっていると思っているだろう。
「誰かがお前の影武者を殺害したようだが」
泉が切り出した。
「私もたったいまニュースサイトで知りました」
誓から聞いたとは言わない。忠虎がやられたのなら、向島一家の誰かから幹部の倉敷に一報が入るはずだが、倉敷も知らない様子だった。これは妙なことだった。
「断じて私が命令したことではない」
泉が言った。向島は無表情を貫いた。千住を殺害されたときも、向島はこの戦争を終わらせるためと怒りを呑み下し、決して泉を責めなかった。決死十四人衆時代なら、日本刀をつかんで関東吉竹組に乗り込んでいたところだ。いまは立場が違う。向島の一挙手一投足が子分たちの生死を分ける。短絡的な激情を抑え長期的視野に立って物事を判断するのがヤクザ幹部のあるべき姿だ。
だがいま忠虎までやられた。向島は腸が煮え返るのを必死に抑えた。
「彼の殺害は関東吉竹組の仕業ではない」
泉の言葉を一旦、引き受ける形で、向島は繰り返した。懐に手をやった。ボディガードたちの緊張感が高まる。
「本家の盃だ」
去年の秋、本家吉竹組で矢島の双子と交わした盃を見せた。海竜の血が滲んでいたが、洗い清めてある。
向島は盃をその場に叩きつけた。割れて砕け散る。本来なら親子の縁を切る場合は親に盃を返すものだが、それをしたら全ての計画が台無しになる。矢島の双子には、向島は子分であると勘違いしてもらい続けなくてはならない。
モニターから泉の姿が消えた。廊下の先の扉が開き、黒袴姿の本人が姿を現した。ようやく信用してくれたようだ。
「向島。影武者の名前は」
「忠実な虎と書いて、チュンフーです」
「忠虎のこと、そして千住のこと、謹んでお悔やみ申し上げる」
泉はぴんと伸びた背筋を恭しく曲げて、向島に頭を下げた。これが合図だったのか、ボディガードたちはヤッパを仕舞い、銃口も下ろした。泉が提案する。
「盃の後の祝杯は、お前がかわいがっていた忠虎に捧げようじゃないか」
向島は丁重に礼を言った。誰が忠虎を殺したのか。少なくとも泉は知らなかったように見える。本多が先に玄関を上がり、小さな床の間がある和室へ案内した。
「ここがお前の控室だ」
向島が今日羽織る吉竹組の代紋入りの黒袴が準備してあった。上下でそれなりの値がするが、泉が仕立ててくれた。初代向島から受け継がれていた向島一家の『向』の字が入った代紋つきの黒袴は、千住が着用した際に蜂の巣にされ、使い物にならなくなった。
本多が隣の和室の襖を開けた。十畳の和室には神棚が据えられ、座布団が並んでいた。
『親 泉勝』
『子 向島春刀』
神棚の上に垂れ幕がかかげられていた。
泉はリビングルームのダイニングキッチンで紅茶を飲んでいた。妻がティラミスを切り分けている。
向島のスマホがバイブする。倉敷だった。何度もかかってくる。
「出ていいぞ」
泉が言って、向かいの椅子をすすめた。通話に出た途端、別の番号から割り込むように電話がかかってきた。
矢島勇だ。
向島はディスプレイを泉に見せた。泉はにたりと微笑み、迎え舌でティラミスを口に運んだ。金はあるが品がない泉を、伝統と格式を重んじていた三代目の豊原は嫌っていた。泉が血走った目で言う。
「出ろよ」
向島は通話ボタンを押した。スピーカーにする。
「向島、どうなっとる。病院でやられたのは忠虎やろ」
「現在、情報収集中です」
「いまどこにおる」
向島は泉の顔を見た。泉は何も言わない。
「熱海です。泉のリゾートマンションの駐車場に来ています」
「ひっとらえるところか」
「倉敷と共にクルマで拉致するところです。あと十五分ほどで泉はチワワの散歩に出てくるはず」
妻はティラミスを切り分けながら絶句している。泉が無言で妻を廊下に出した。
「稲峰にカチコミしよっただけやのに忠虎をリンチ、とどめを刺しにICU襲撃やら、関東吉竹組はやりすぎや。はよう拉致して本家へ連れてこんか。いよいよ、泉の顔面剥ぎを拝められるんやのう。進もワクワクしとるで」
電話は途中で進に変わったが、大した話はしていなかった。向島は電話を切った。
泉はティラミスを平らげにたりと笑った。
「で、向島春刀よ」
「はい」
「いつ関東吉竹組事務所に、双子を拉致して連れてきてくれるんだね」
ボディガードたちが肩を揺らして笑った。本多は意味ありげに向島を見据えている。
「私はまだお前の必殺技を堪能していない」
泉は顔を紅潮させ、天を仰いだ。
「近々、矢島の双子の顔面剥ぎを拝められるのか。ワクワクするなあ」