菊の独白 六
三十一歳で初めて出産した私の体はダンプカーに轢かれたかのようにボロボロだった。しかも私は無職で未成年ヤクザの子を産んだ。両親には勘当された。相手の男が東京で殺し屋をやっているとまで話していたら警察に通報されていたかもしれない。産気づいた私を病院に運び、産後の差し入れをしてくれたのは、大阪府警の桜庭功だった。
「女の子はかわいいのう、小さいのう」
桜庭は目を細め、いつまでも新生児室から離れない。退院を前日に控えた今日も、桜庭は見舞いにやってきた。桜庭には、音信不通になってしまったコオロギを捜してもらってもいた。
「彼、見つかりましたか」
「マニラにおるという情報はつかんだ。そこに逃げた某組長を追っているようや」
赤ん坊が泣きだしたので、私は桜庭に背を向けて、ヤクザの血を引く我が子に乳を吸わせた。桜庭も壁に向かって話す。
「いまはそいつがターゲットなんやろな。コオロギは豊原の命令で東日本を開拓しとるんやろ?」
桜庭は私と赤ん坊に親身だが、ところどころで情報を取ろうとする。コオロギの情報から吉竹組の動向を見極めたいのだ。
「名前、決めたんか。出生届出さなあかんで」
「ギリギリまで待たせてください。あの人と一緒に考えたいんです」
娘は乳首を吸ったまま寝始めた。私は小指を口元に入れて乳首から引き離し、縦に抱っこしてげっぷを出させる。ゲエェと盛大な音を出したので、桜庭は大笑いした。
「肝の据わった娘になりそうやな」
退院の日、桜庭は夫婦でやってきた。桜庭の妻は今年四十になると聞いていたが、若々しく見えた。娘を抱っこすると目尻が下がり、かわいいと連呼した。ヤクザの血が入っても娘を差別しない桜庭の妻を私は好きになった。
こうなってくると、私の立場は辛い。桜庭にコオロギのことを教えなくてはならないような気持ちになる。勝手に恩を着せられているだけと突き放せない。
コオロギが匕首を持っていたことや、行方不明のヤクザの写真や血塗られた名刺を持っていたことは言わず、吉竹組のなんらかの十四人に選ばれ、無惨絵の刺青を強引にいれさせられていた、という話はした。
私は出産まで天満のアパートに戻っていたが、退院後は八尾市にある桜庭の自宅に床上げまではお世話になることにした。娘は手のかかる子で、一時間おきにおっぱいだオムツだ抱っこだと泣き喚く。私は疲れ果てていたが、桜庭の妻が三食を作り、掃除や洗濯もしてくれた上、昼は代わりに子守りまでしてくれた。娘の小さな尻をポンポンと叩き寝かしつけている桜庭の妻は、私より母親然としていて、とても幸せそうだった。
桜庭は帰宅するといの一番に赤ん坊の様子を覗きに来た。私が抱っこしているときは手を出さないが、桜庭の妻が抱いているときはすり寄って、誓のほっぺをこしょこしょした。
私は赤ん坊に『誓』という名前をつけた。桜庭が代理で役場に届けようとしてくれたが、断った。ちゃんと父親の名前を記したいのだ。出生届を出すのは、コオロギが戸籍を取得してからでいいと思っていた。
出産後から二週間で年が明けて平成七年になった。年末年始も桜庭夫妻の自宅でにぎやかに過ごし、まるで私たちは誓を中心に繋がる家族のようになっていた。
床上げが過ぎても私は桜庭家に世話になっていたが、ある夜明けに大きな揺れが襲った。阪神・淡路大震災だった。八尾市は震度4とされたが、箪笥がいまにも倒れそうで、私は誓をおなかの下に置いて四つん這いになって守った。伊丹空港や神戸空港が使えなくなり、八尾空港に全国各地から支援物資が届くようになった。昼夜のべつもなしに飛行機の騒音がして誓が寝付けない。四六時中不機嫌でぐずるようになった。
仕方なく、私は天満のアパートに戻ることにした。桜庭の職場からもそう遠くはないし、週に何度かは桜庭の妻が家事育児を手伝いに来てくれた。
二月の寒い夜、誓を寝かしつけ、急いで夕食を食べているときだった。こんばんは、と桜庭がアパートを訪ねて来た。その後ろにコオロギがいる。
私は心臓が止まりそうになった。
最後に会ったとき彼は髪を立てていたが、いまは優し気に前髪が垂れていた。上下ともアディダスのジャージ姿で、首に純金の太いネックレスを下げていた。
「子供産んだって、ほんまか」
私は責任感を込めて、大きく頷いた。
コオロギは靴を脱いでいた桜庭を突き飛ばし、どかどかと部屋に上がった。
「どこや」
「落ち着いて。赤ちゃんがびっくりするやろ」
桜庭は笑ってその肩を叩く。
「かわいいぞ。覚悟しておけ」
コオロギは息を殺して、ベビー布団をのぞきこむ。誓はよく寝ていた。
「バンザイしとる」
「そうやね」
「うれしいんかな。お父さんに会えて」
「赤ちゃんはバンザイして寝るものやで」
「そうなんや」
コオロギはぱっと顔を赤らめた。
「起こしてええか」
「ダメよ。いずれおっぱいかオムツで起きるから、その時まで待って」
「待てへん。関西の地震を知って慌てて帰国して、捜したんやで」
彼は千里の実家の周辺をうろついていたところを、桜庭に見つかったらしかった。
「逮捕されるんかと構えとったら、いきなり赤ん坊がどうのと言われたんや」
家族三人水入らずを邪魔したくないと思ったのか、桜庭はキッチン台に寄りかかり、遠目に私たちを見ている。
「抱っこしたい。耐えられん」
「まだ首がすわっとらんのよ。赤ちゃん触ったことある?」
「ない、ない。こんなちっこい人間、初めて見たで」
「まだ四キロしかないんやで」
「犬より小さいやないか。ちゃんとおっぱい出とるのか。ミルクを足さんでええのか」
「ちょっと落ち着きや」
私は大笑いしてしまった。コオロギはベビー布団につきっきりだ。寝ている誓をいつまでも眺め、見飽きないようだった。やがて誓がぐずつき始めた。
「お、お、動いたで」
「そろそろわーんと泣くで」
誓がしかめっ面になり、唸り始める。
「うわあ、起きるで。どないしよ。緊張する。汗でべったりや」
やがて誓が絶叫するように泣き出した。病気ではないかとコオロギが焦るのを、落ち着けやと桜庭が笑う。私は誓を抱き上げて、乳を与えた。コオロギは押し黙り、誓の様子を見ている。
「おっぱいの吸い方、教えたんか」
「教えなくてもわかるのよ。生まれた直後に乳首を口に近づけたら吸い付いてきたで」
「食いしん坊な子なんやな。誰に似た」
コオロギは目尻を下げて笑う。その目尻に涙が浮かんでいた。授乳を終えてげっぷさせ、いよいよ抱っこの仕方を教える。コオロギは正座し、かなり緊迫した様子だ。布団に転がされて泣きわめく誓の小さな頭を長い指で持ち上げ、左腕を入れた。
「こうか」
「そうそう」
右手で尻を持ち上げ、震えながら抱き寄せる。かなりぎこちない手つきだったが、父親の腕におさまると誓はすっと泣き止んだ。それが父親であると気が付いているのだろうか。
「目、見えとるんやろか」
「まだよく見えてないんとちゃうかな」
「静かやな」
「ほんまや」
「なんや、なんでやろ。自分と血が繋がっとると、抱いた瞬間にすぐわかる」
「この世にひとりしかおらんから、かもね」
私の言葉に、どうしてか、コオロギはとても嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう」
標準語で言われた礼はとてつもなく重たく感じた。コオロギは誓を優しく揺する。
「笑うてくれ。パパやで」
桜庭はすねたように酒を飲み始め、ダイニングで泥酔してしまった。これまで誓の父親代わりを自負していたのだから、ちょっと悲しいのかもしれない。
誓は、コオロギが突き出した人差し指を握ったり、離したりしていた。父親と娘は一瞬で打ち解けたようだ。
いつの間にか寝てしまった私は、胸の張りで目が覚めた。そろそろ授乳の時間だが、誓はまだよく寝ていた。
ダイニングの小さな明かりの下で、桜庭とコオロギが二人で酒を飲んでいた。やはり二人は、刑事とヤクザだった。
「いいかげん足を洗わんか。まだ十八やろ。間に合うで」
「無理な話ですわ。わしは物心ついたときから極道の世界におったんです。極道に食わしてもろて、ここまでになりました。裏切ることはできません」
「お前は菊美さんの覚悟がわからんのか。ヤクザの子をたった一人で産んだんやで。家族に縁を切られ、仕事もない中で、細々とやりくりしながら、たった一人で赤ん坊を守りぬいてきた。お前、その間なにしとったんや」
「堪忍してください、妊娠を知らんかったんです」
「射精したのはお前やろ。無責任やの」
桜庭がコオロギの頭をはたいた。
「赤ん坊の名前がなんで誓になったか知っとるか。菊美さんはな、あの子に誓ったんや。どれだけ自分の人生が滅茶苦茶になろうと、あの子を守り抜く」
桜庭が迫る。
「お前は赤ん坊に誓えんのか」
天満でコオロギと三人の生活が始まった。桜庭の妻はヤクザが住む家には来なくなったが、堅気になることを迫る桜庭が毎日のように押し掛けてきた。誓と離れがたかったのだろうが、コオロギは嫌気がさしたようだ。
誓が生後二か月になるころ、コオロギは不動産屋のチラシを持って帰ってきた。
「引っ越すで」
この部屋で赤ちゃんと暮らすのは手狭だったから私は引っ越しに大賛成だったが、チラシの住所を見て驚いた。
「どういうこと和歌山って。土地勘ないわ」
「この界隈は落ち着かん。オヤジがおるし」
黒田との盃は維持しているようだが、健優の件が引っかかっているのだろう。あの親子は、私が妊娠六か月のとき、桜庭が逮捕した。黒田一令は拉致監禁罪、健優は窃盗容疑だ。いまどうしているのかは知らない。
「親父は証拠不十分で釈放されとる。健優も未成年やったからとっくに娑婆に出た。執行猶予つきや」
「そんなに刑が軽いんか」
「警察も裁判所もどアホや。くその役にも立たんのがわかるやろ」
コオロギは身を乗り出した。
「ガキが小さいうちは、東京に行かんでもええと豊原の親分は言うてくれてる。できるだけ一緒にいるさかい、和歌山に住まんか」
「けど、どうやって生活していくんや」
「和歌山に矢島さんいう人がおる。ダンプ出しとる土木業者や。そこで働かしてもらう」
「堅気、それともヤクザ?」
コオロギは具合悪そうにあぐらをかいた。座布団の上でごろごろしている誓の頭を撫でている。
「ヤクザなんやね。シノギがダンプ出しっちゅうことなん。どっかの直系? 独立系か」
「姐さんみたいな口調や。先生もヤクザの女らしくなったやんか」
「もう私、あんたの先生ちゃうで」
「菊美」
初めて呼び捨てにされて、照れくさい。
「ごまかさんと、教えてよ」
「矢島さんは吉竹組の直系や。矢島総業」
「桜庭さんにあれだけ説得されても、足を洗わんのやね。誓の将来を考えて。女の子やで。父親がヤクザで幸せになれるんか。まともな男の所へ嫁に行けるんか」
コオロギは、まとも、と口にして自嘲した。
「俺はまともやないからな」
いつもなら同情するところだが、今日の私は腹の虫が治まらなかった。
「そらそうや、そんな気色悪い刺青を背中にしょっとる。私の父親は、夏は毎週末、市民プールで泳ぎを教えてくれたで。冬は温泉に連れて行ってくれた。あんた、そんな体でプールも温泉も入れんやんか」
「だから言うたやろ。ほんまは菊の刺青をいれたかったって」
コオロギは立ち上がり、煙草と財布を持って出て行った。深夜二時を過ぎてもコオロギは帰ってこず、私は情緒不安定になって涙があふれてきた。
誓に乳をあげながら、不動産屋のチラシを改めて手に取る。家具の配置を思い描くうちに、どうして仕事があるのに和歌山行きを渋ってコオロギを責めてしまったのかと反省する。
コオロギは戸籍がないから、私の名義でないと部屋を契約できないだろう。どうやって戸籍を得るのか私は具体的な方法をまだ調べていない。コオロギの苗字や名前は誰が決めるのだろう。勝手に考えていいのだろうか。
私は仏壇を連想させる名前だから、コオロギには春のように明るい名前でいてほしかった。それでいて彼の強さを表現するような、剛健な名前がいい。
遠慮がちに鍵が開く音がして、コオロギが帰宅した。
「起きとったんか」
「待ってたんよ。昼はごめんな。引っ越ししよ、この物件に」
コオロギはベビー布団で眠る誓の脇にしゃがみこんで、低くて小さな鼻をくすぐった。誓は目一杯しかめっ面になる。
「いっちょ前に迷惑そうな顔しとる」
私は間取り図を見せた。
「ここに誓のベビーベッド置くんや」
「この漢字はなんや。春とか剛とか強とか」
コオロギの名前を考えていたときに思い浮かんだ漢字を、余白に書き連ねていた。
「あんたの名前を考えとったの。誓のお父さんやで。コオロギなんて名前はあかんやろ」
私は物件のチラシを裏返し、鉛筆で丁寧に『春刀』と書いた。
「これはどう。かっこええやろ。しゅんとうって読まそか」
「足を洗えと散々言うといて、こんなヤクザど真ん中の名前があるかいな」
コオロギはぐずり始めた誓を抱っこし、あやしながら言い聞かせる。
「誓、パパの名前は春刀やで。覚えとき」
コオロギがベビーカーを買ってきた。誓の初めてのお出かけはちょっと遠出の和歌山市だ。コオロギは喜んでベビーカーを押す。誓は寝ていたが、日なたに出るとまぶしがって眉間にしわを寄せる。日陰に入ると表情が緩んだ。その様子がおもしろいのか、コオロギはアパート前の日陰と日なたを行ったり来たりして、はしゃいでいた。
「なにしとん。電車、遅れるで」
天下茶屋から南海本線に乗り換え、和歌山市駅で下車した。
駅前の不動産屋で契約をする。私は無職だし、コオロギは無戸籍でなんの証明書もないが、コオロギは矢島という人が準備した書類をそのまま不動産屋に渡していた。
彼には矢島総業に就職して五年目という就労証明書が出ていた。氏名は全く知らない人で二十五歳になっている。和歌山市の市章が入った住民票に、私と誓の偽物の氏名や生年月日も記されていた。矢島という人がどこかで名義を買ったらしく、住民票ではコオロギより私の方が年下になっていたし、誓は、書類上はもう一歳になりかけている。見る人が見れば偽者とわかるだろうに、不動産屋の若い男性は生後三か月と一歳の違いにピンとこないらしかった。
無事に契約を終えて、私とコオロギは矢島総業へ挨拶に行くことになった。
「えらい嘘まみれの書類やったな」
「矢島さんらはすごい人なんや。一卵性双生児で組を仕切っとる」
矢島総業は和歌山市を流れる紀の川の中州に広大な土地を持っていた。砂埃が舞う中、駐車場には巨大なダンプカーやトラック、ミキサー車などが待機していた。日本の狭い道を走るには不便そうな、巨大なハマーまであった。
「かっこいいやろ、あのハマー。いつか誓を乗せて白浜をぶっ飛ばしてみたいのう」
コオロギが駐車場の脇にあるプレハブ小屋の引き戸を開けた。
「こんにちは。曾根崎のもんですけど」
「おう、コオロギかいな」
よく日に焼けた男が笑顔で立ち上がる。菊美を見て目を見張った。
「女房子連れかよ、十八のガキが」
大笑いしている。
「矢島のオジキらはいますか。部屋の手配で世話になったんで、挨拶さしてほしいんです」
「親分らは今日、葬式が入っとる」
矢島の双子は土建業をやりつつ、地元で神主もしているらしかった。
「ほな、神社に回りますわ」
「また東京でな、コオロギ」
日に焼けた男が言った。コオロギがちらりと私の顔色を窺った。あの男も東京でコオロギと働いているのだろう。つまり暗殺集団の十四人のうちのひとりだ。
「ヤクザの神主って珍しいやろ。八百万の神様もびっくりやで」
コオロギはなにも訊かれたくないのか、必死にしゃべっている。私たちはタクシーで市の中心部に移動した。和歌山城の城壁沿いの三年坂通りに入る。城の目と鼻の先の高台に虎伏神社はあった。コオロギがベビーカーごと誓を軽々と持ち上げ、石でできた古い階段をあがった。
神社は開けた場所にあり、明るい日差しが降り注いでいた。朱色の鳥居は派手で大きく、白と赤の社殿も金がかかっていそうだ。「よおおぉ」と低くくぐもった雄たけびが聞こえてきた。
「いまのなに」
「魂抜きやろ。神道式の葬式や。神主が遺体の口から魂を吸い取るときの掛け声」
「へえ。神道の葬式なんて初めて聞いたわ」
「うちも神棚まつろか。仏壇はいらんわ。菊の花はリビングにかわいく飾ったろ」
私は葬式が行われている建物を覗いた。烏帽子をかぶった神主が大幣を振っている。
「あれが矢島の親分?」
「そうや。勇か進かどっちか」
遠巻きではコオロギも双子の区別がつかないらしい。社務所の引き戸を開け声をかける。
「こんにちは、曾根崎のもんです」
着流し姿の男が現れた。さっきの神主と全く同じ顔だから、これが双子のもう片方だろう。四十代くらいの男で、右目の下に泣きぼくろがあった。
「コオロギか。おりょりょりょ」
誓を見るなり、双子の片割れは目尻を下げた。「よう見せてや」上がり框にしゃがみ込む。
「べっぴんさんや。名前はなんて言うんや」
「誓です」
「せい。しゃれこつな名前やで。お父さんは殺し屋でお母さんは未成年に手ぇだすスケベな女教師やったか。この子も将来、世間をひっかきまわす大物になるで」
私は絶句し、コオロギを見た。コオロギは慌てて双子の片割れを拝んだ。
「勇のオジキたのんます。この人はカタギやさかい、きつい言葉に慣れてへんのです」
なにがや、と矢島勇が厳しい調子でコオロギに返し、私に迫ってきた。
「夫が殺し専門のヤクザやとわかった上でこの子を産んだんやろ、え」
私がたじろいでいると、矢島勇は無邪気に私の腕を叩いた。
「びびることないで。あんた自分がどれだけ大それたことをしたかわかっとらんのや」
帰りの電車で珍しく誓がぐずった。ベビーカーを揺らしても収まらないので、コオロギが抱っこしてあやす。ようやく寝てくれた。南海線は海沿いを走っている。埋め立てが進む大阪湾を眺めた。海辺から一本の線が沖に延びていた。関西国際空港が去年、開港している。コオロギはたくさんお金を稼いでくるから、いつか家族三人でハワイでもグアムでも行けるだろう。だが幸せな気持ちにはならなかった。コオロギは誓を抱いたまま、危なっかしく、船を漕いでいる。私は隣に座って、誓を引き取った。
「ねえ」
コオロギが半目を開けた。私はその耳元に囁く。
「あんた殺し屋なん」
「そうや」
矢島勇に直球で言われ、開き直っている様子だった。
「これまで何人殺したん」
コオロギは沈黙のあと、指を二本立てた。
「警察の捜査は大丈夫なんか」
「遺体が見つからんと、警察は動かん」
顎で来た方向をさした。
「矢島の双子がうまいこと処理してくれとる。関西各地の大手ゼネコンからマンションやらビルやらの土地改良工事を請け負っとる。ようは、基礎工事や。杭を打ち込んで土を固めたあと、ミキサー車を何台も呼んで、何百トンの生コン入れる。死体も投げ込むんや」
私は誓を抱く力が抜けてしまいそうだ。
「誰かが裏切って証言したとしても警察は見つけられん。建物を壊さな、基礎にコンクリ詰めにされた死体を掘り起こせんからや。マンション住民やビルのテナントを立ち退かせて建物を解体して基礎をほじくりだす金や力が警察にあると思うか」
「ないやろね」
桜庭に申し訳ない気持ちになった。
「安心せいよ」
頭を撫でられた。私はもやもやしたまま、誓だけを見つめ、その愛に集中する。こうやってヤクザの女は、愛する男がしていることから目を逸らし、ずるずると、極道の世界に沈んでいくのだろう。