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第二章 乱射

 令和五年一月末、渋谷区道玄坂のタワーマンションのロビーで桜庭誓は藪哲子とソファに座っていた。
「誓ちゃん、今年は初詣行った?」
「行ってないです」
「私、昨日行ってきたのよ。凶だった」
「最悪じゃないですか」
「ちなみに向島一家は毎年一家総出で地元の神社で奉納を行っていたけど、二〇一二年を最後にやめた」
「暴排条例のせいですね」
 指定暴力団の組員が団体で参拝したら、受け入れた神社側が条例違反でペナルティを負う。憲法では信教の自由をすべての国民に保障しているのだから、あの条例を憲法違反とする専門家は多い。万が一裁判になったら確実に負けるので、条例どまりで法律にはなれなかった。
「向島春刀、義理事の時にはスーツが殆どだけど、地元の神社に行くときは必ず紋付き袴を着てたなぁ」
 誓は見たことがない。
「初代向島昭雪が愛用していた紋付き袴を受け継いだみたいね」
 初代は誓がマル暴刑事になったときには鬼籍に入っていた。無戸籍だった向島春刀と養子縁組し、一家を継がせた。どのように向島春刀と出会い、養子にするに至ったのだろう。深い信頼関係があったに違いなかった。
「パパと連絡取れてる?」
 外だからか、藪は奇妙な言い回しで尋ねてきた。誓は首を横に振る。
 スーツ姿の三人の男たちがロビーへやってきた。関東吉竹組の下っ端だ。事務所が閉鎖されたいま、交代で三人が組長の泉勝の自宅を警備している。
「どうぞ」
 ぶっきらぼうに言い、下っ端が中へ案内する。ロビーやイングリッシュガーデンにも目を光らせている。彼らはまだ六本木で発見された遺体の一部が海竜将の顔面だったことを知らないはずだが、警戒はしているようだ。
 最上階の三十二階に到着した。最上階だけは一世帯しか入っておらず、部屋は5LDKでリビングダイニングは三十畳ある。地価が安かった十五年前に泉が二億円で購入した。
 リビングダイニングに通される。八人は座れそうなダイニングテーブルの下座に促された。泉はこちらに背を向け、金華山織りの高級ソファでくつろいでいた。ジーンズに紺色のセーターを着ている。泉の膝の上でくつろいでいた二匹のチワワが激しく藪と誓に吠えたてた。
「珍しいなぁ、この子たちは男性にしか吠えないのに」
「ずいぶん失礼な犬ですね」
 藪が言ってストンと腰かけた。広いリビングにはマントルピースがあったが、中で赤い炎をくゆらせているのはLEDライトのようだった。誓は尋ねる。
「せっかくの暖炉、使わないんですか」
「ここはマンションですよ。暖炉なんかお飾りに決まっているでしょう。軽井沢の別荘は暖炉がついてますがね。しかしあれは灰が飛ぶから厄介だ」
 ようやく泉が立ち上がり、ダイニングテーブルにやってきた。子分がティーカップを移動させる。
「あなた方が事務所を閉鎖してしまうから暇でね。自宅にいるときはワインと決めているんですが、娘に止められて紅茶ですよ」
 奥様は、と藪が尋ねる。
「何年か前にこちらにお邪魔したとき、おいしい手作りのティラミスをいただきました」
「僕が和歌山ナンバーのダンプに轢かれてぺっしゃんこになって懸命にリハビリ中のときだね。藪さんが何度か聞き込みに来た」
 泉がニヒルに笑った。
「あの時のダンプの犯人はいつ捕まえてくれるんですか。全く警察は無能だ」
「泉組長がダンプに轢かれたのは軽井沢の別荘地で犬の散歩をなさっているときでした。あちらは長野県警管内での事件になりますので、警視庁は捜査ができません」
 泉がテーブルに拳を振り下ろす。
「かわいそうに、あの子の姉がダンプの下敷きになって死んだんだッ」
 泉が指さした「あの子」はソファの上のチワワだった。一体何匹飼っていたのか。
「それは残念でした」
 泉の怒号は藪には効かない。
「実は今日はもっと悲しいお知らせがあるんです。去年の代理戦争で行方不明になったヤクザが二人いますね」
 泉はこぶしを握ったまま、藪を見据えた。
「八王子双竜会の海竜将と、向島一家の向島春刀です」
「海竜はかわいい孫分、我々も必死に捜しているんです。向島はあなたの方が居場所に詳しかったりして」
 口角を上げ誓を見た。泉もまた向島と誓を恋仲と勘違いしている。別にそれでいいが。
「今日は海竜将の話です。先週末の明け方、六本木の交差点の路上であった騒ぎをご存じですか」
 誓はスマホでネットニュースを見せた。
「我々のシマですから注視していましたよ。人体の一部を発見、でしたっけ」
「実は成人男性の顔面が銅像に貼り付けられていました。DNA鑑定の結果、関東吉竹組系八王子双竜会の若頭補佐、海竜将のものでした」
 はん、と泉が笑った。
「本家が宣戦布告ということね」
 愛犬が巻き添えで死んだ以上の怒りを見せることはなかった。藪が泉に訊く。
「監察医務院によると、顔面は頭蓋骨から力ずくで皮と肉ごと剥がされたようです。高度な医療機関にかかっていない限り、海竜将は生きてはいられないでしょう」
「泉さん、海竜と直接面識はありましたか」
 誓は尋ねた。
「いいえ」
「八王子双竜会の会長、横沢錬三よこざわれんぞう氏とは」
「横沢はうちの顧問です」
「盃を交わしたときや義理事以外で、横沢会長と個人的な付き合いなどは」
「いま我々はゴルフも難しい。軽井沢でテニスをしたことが一度か二度はあったかもしれない。テニスならダブルスで四人。条例違反にはなりませんからね」
 特定抗争指定された暴力団は、五人以上で集まってはいけないという規定を守っていると言いたいのだろう。自宅の警備も三人いるだけだ。これ以上呼ぶと逮捕される。
「横沢会長とテニスをしたのはいつですか」
「覚えてませんよ。毎年夏の暑い時期になると避暑で軽井沢にいきます。その時期は全国の直参も涼を求めて軽井沢に来たがるんですよ。六本木の事務所は狭くて古いし、この自宅も5LDKしかありません。軽井沢の別荘は9LDKです。下っ端も個室で休むことができます」
 金持ち自慢がうざったい。誓は尋ねる。
「海竜将は生きたまま顔面を剥がされて死亡した可能性が高いですが、このような特異な方法で殺害する人物をご存じですか」
「私に訊くまでもないでしょう。向島春刀しかいない」
「すると中立を保っていた向島は」
 泉が誓を追っ払うような手振りをする。
「こう言いたいんでしょう。向島は本家につき関東系の海竜を殺害した。その顔面を私のシマに遺棄した。向島が私に宣戦布告したとも言える」
「向島一家は和解に動いていたと思われていましたが、事件を起こした可能性が高い以上は警察も対応に出ます」
「曳舟の事務所も閉鎖ですか」
「ええ。ただ認定作業には時間がかります。顔面遺棄事件も、向島の仕業であると断定できるに足る物的証拠が一切ありませんから、認定作業に最短でも三か月以上はかかりそうです」
「それまで私の命を狙う向島一家は野放し、ということかい」
「これまで以上に警備を厳重にいたしますが、お宅の一派もくれぐれも曳舟界隈に入らぬよう、お願いします」
 藪が頭を下げた。泉は顎を触りながら、少し笑った。誓は付け加える。
「向島一家に特定抗争指定が出れば、関東吉竹組系列の暴力団員も墨田区曳舟界隈に入れなくなります。境界線を越えた時点で即逮捕となりますので、ご注意を」
「でもそれって三か月後の話ですよね」
 泉はにやけた。
「警察は大変だよ。まどろっこしい手続きを経ないと、全然動けない。かわいそうに」

 六本木の路地裏の駐車場に戻った。覆面パトカーの車内で今仲秀太がダウンジャケットの中に首をすくめ凍えながら待っていた。彼は大阪府警の人間だから、おいそれと関東界隈の暴力団事務所の敷居を跨がせるわけにはいかない。警視庁と大阪府警が緊密に連携していることを暴力団側に知られたくないからだ。今仲の存在は警視庁側のカードでもあるので、どこの段階で今仲の存在を暴力団側に知らしめるのか、タイミングを図っているところでもある。それまで今仲は、捜査に同行するが待ちぼうけだ。
 誓は自動精算機の横にある自動販売機で缶コーヒーを三つ買った。ひとつを今仲に渡す。
「おおきに」
 今仲は赤くなった鼻に缶コーヒーを押し当てている。藪が泉の様子を伝えた。
「やはり知っとったようですな。関東も周到に動いとる」
「暴力団の情報収集能力は警察なみだからね。今仲君が、海竜の顔面を向島が剥いで殺害したと聞いたのも、本家のエスからの情報でしょう」
 今仲はおいしそうにコーヒーを飲んだ。
「まあまあ、お互いにエスの話はやめときましょ。お二人にだってそれなりのタマがいるでしょう」
 藪が乗鞍に電話を入れて警備の増員を頼んだが、無理だったようだ。
 いま警視庁中のマル暴刑事をかき集めて警視庁管内にある吉竹組系列の事務所や関係先、幹部の自宅を警備させている。機動隊の助けも得てかろうじて警備の現場を回している状況だった。
「曳舟にまでとなると、また機動隊に頭を下げることになる。すると法的根拠、つまり特定抗争指定が必要だ」
 誓は冷えた指を温風にかざしながら、今仲に尋ねる。
「こういうとき府警ならどうしますか」
「府警の人員不足は警視庁以上ですわ。上にガンガン言うてストレス発散するしかない。僕が警視総監にひとこと申しましょか」
「是非お願い」
 藪があっさり言うと、今仲はズッコケた。
「誓ちゃんの上司は冗談が通じん」
「私からもお願いしたいですよ。警視総監と大阪府警の本部長、どっちにモノ申しやすいですか」
「なら、警察庁長官にしときましょか」
 みな笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「まずは曳舟に行くか」
 向島一家に注意喚起すべきだろう。

 今仲を向島一家の監視拠点で待機させ、誓は藪と二人で五右衛門ビルの六階に向かった。藪が向島一家の事務所の扉を叩く。背後から配達員に声をかけられた。宅配で昼食を注文したのだろう。誓は「ご苦労さま」と勝手に受け取り、中身をチェックした。
「カレー。八人前あります」
 小柄だが背筋の伸びた男が出てくる。山城拳一、元世界フライ級チャンピオンだ。
「なんだ。警視庁さんか」
 誓はビニール袋を見せた。
「ちょうどランチが届きましたよ」
「そりゃどうも」
 山城は左手の小指がなかった。カレーを若い衆に渡し、誓をバカにしたように笑う。
「何度来ても親分はいないぜ」
 多くのマル暴刑事や暴力団員が誓と向島を男女の関係にあると疑う一方、向島一家の面々は「誓の片思い」ととらえていた。向島春刀が誓を女として見ていないことを子分はわかっている。実の親子であることは知らないようだった。
「大事な話なんです。お昼時で申し訳ないですけど、いまいる人を全員、呼んでもらえますか。カレーを食べながらでもいいですよ」
「カレーがまずくなるだろうが」
 山城はごちゃごちゃ言いつつも、何人か連れて応接室に戻ってきた。先頭は若頭の千住雅夫だ。五十四歳、あばた面の顔の大きい男で迫力がある。今日もチャコールグレイのマオカラースーツを着ていた。貫禄は十分だがチャイニーズマフィアに見える。向島春刀のような鋭さと任侠を感じさせる風格がない。
 千住が中央に座り、右脇のソファに山城が着いた。四人の若い衆が千住の後ろに立ち、刑事に威圧感を与える。
 遅れて入ってきたのは、若頭補佐の筆頭、倉敷和成くらしきかずなりだった。向島と同年代のクルマ好きで、ひとりでよくオフロードを走りに行ってはドリフトやジャンピングをしてタイヤを履きつぶしている。ドライビングテクニックがピカイチなのに向島が専属運転手に指名しなかったのは、道交法違反でしょっちゅう捕まるからだ。
「向島総長は今日もいらっしゃらない」
 藪が確認した。
「総長はベトナム人を巻き込んだ代理戦争を止めるために大変な奔走をいたしました。疲れ果てておられましてね」
 千住が答えた。
「もう四か月も前の話ですが」
「左腕の古傷も冬場は痛むんです。湯治の旅にでも出たんでしょう」
「ということは、あなた方も向島春刀の居場所をご存じない」
 誓はあえてけしかけた。山城が鼻で笑う。
「そう必死になりなさんな。親分が恋しくて下半身が疼きますか」
 こんな言い方をするところからして、山城は曳舟ボクシングジムの佐々岡雷神を誓が手なづけている、と気が付いていないようだ。
 倉敷は目を合わせない。この男は昔から無口でたまに存在を忘れる。
「ところで先日、六本木で人体の一部が遺棄されていた件はご存じですか。関東吉竹組系八王子双竜会、海竜将の顔面でした」
 誰一人言葉を発さず、表情も変わらない。
「そちらの親分は顔面剥ぎが得意ですよね」
 千住が口を開いた。
「やめてくださいよ、警視庁さんまであんな都市伝説じみた話を信じているんですか」
「都市伝説じみた話とは」
 誓は尋ねた。
「旧吉竹組の決死十四人衆ですよ。四代目時代に暗殺拷問集団がいたとかなんとか。そんなのいませんから。大阪府警だって捜査の末、存在しないと認定したんです」
 今度は藪と誓が無言を貫く。
「確かに総長の背中には恐ろしい刺青が入っていますが、だからといって総長が人の顔面を生きたまま剥ぐなんて、そんな残酷な人じゃないって、あなたがよく知っているんじゃないですか」
 千住が誓を見た。
「総長は礼儀正しく優しく、思いやりのある人です。だから桜庭さんは総長に首ったけになっているんでしょう。お父さんを早くに亡くしているから、ファザコンなんだ。事実、うちの総長は腕がないからか女性の同情を引きやすくて、モテるんですよ。本人は硬派だから余計にね」
 藪が間に入った。
「恋愛話はいいよ、つまんない」
「だろうね、オバハンは何年ご無沙汰だよ」
 山城がセクハラ発言で煽った。
「昨日彼氏としてきたばかりだけど」
 彼氏などいないくせに平気で嘘をついて藪は暴力団員をあしらう。
「話を戻すよ。吉竹組の分裂抗争中に関東吉竹組系列のヤクザの顔面が六本木で見つかった。そんなときに向島総長が湯治で温泉巡りなんか誰が信じる。あんたたちが信じたとしても、泉は違うだろうね」
「そんなことはわかっている」
 千住が藪にぴしゃりと言った。
「さっき泉に報告してきたところよ。チワワを轢き殺された恨みも思い出して激昂した」
 彼らは誰ひとり表情を変えなかった。
「関東吉竹組が向島一家へ報復に出ないよう、こちらにも特定抗争指定を東京都公安委員会に出してもらう。だけど最短でも三か月かかる。あんたたちは総長がいない状態で、向島一家を守れるのか」
 こういうときは後ろの若い衆が、舐めんなと口出ししてくるものだが、若手は黙り込み、山城も無言で千住を一瞥する。
 倉敷は相変わらずそ知らぬ顔をしているが、視線は鋭い。やはり次のトップとして千住の器を疑っているのだろう。雷神が話していた通りだ。
「あのねえ、藪さん。我々がマッポの警備を欲していると思っているんですか」
 千住は硬い表情のままだ。
「舐めないでいただきたい。この関東圏に、本家吉竹組系の組がいくつあると思ってる」
「あら」と藪は明るい声に転じた。
「そちらのみなさんだけで警備なさるということですか」
「当たり前だ」
「本家吉竹組と盃を交わしたということですね。そうでなければ本家が独立系の組織に警備を送り込むとは思いませんが」
 千住は口をつぐんだ。語るに落ちた千住を、山城は忌々しそうに見ている。倉敷までも目が咎めている。山城が立ち上がった。
「もういいでしょう。帰った帰った」
 分厚い胸板を張り、山城が誓と藪を玄関に追いやった。
「カレーが冷めちゃったかしら。ごめんなさいね」
 藪が扉を開けながら、とどめを刺す。
「ところでカレーは八人前。ここにいるのは七人。奥にもう一人いるのね。なぜ出てこないの」
「俺が二人分食うんだよ」
 山城が言ったが、慌てていた。
「向島総長がいるんじゃないの。口が滑った若頭をフォローに出てくることもないなんて、悲しいこと」
 外につまみ出される。

 

(つづく)