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菊の独白 三(承前)

「わしが怖いやろ。厄介やろ」
「怖ないって言うとるやろ。なにを背中に彫られようが、なにを命令されようが、あんたはあんたや」
 コオロギは座布団を支点にしてくるりと私に向き直った。
「先生、一緒に東京に来てくれんか」
 覚悟を決めてはいたが、東京行きを唐突に言われて私は面食らう。
「なに、急に」
「わしは東京に行かなあかんねん。吉竹組が東日本制覇に動くんや。豊原の親分が腹を決めよった。ほんまなら東京の極道と抗争やけど、マッポが卑怯な手を使いよった。暴対法いうやつや。先生なら知っとるやろ」
「なんとなくしか、わからんで」
「暴力団を法律でがちがちに縛りよって、なんもできんようにしたんや。警察が、吉竹組の東日本進出を阻止するために作った法律やと豊原の親分は言うとった」
 コオロギは無念そうに迫る。
「せやから十四人選んで地下に潜らせるんや」
 なんとなく話が見えてきた。
「これまでのような表立った抗争はできんから、地下に潜って警察にバレへんように抗争相手を殺してこい、ちゅうことや。わしはその兵隊に選ばれた」
「ダメやそんなん。絶対あかん」
 私は思わずコオロギの腕をつかんだ。
「そもそもあんたは未成年やんか。警察に行こ。な」
「マッポなんかクソやで。育ててくれた親父を裏切られん。吉竹組での親父の立場もある。逃げたら親父はエンコ詰めや」
「そんな」
「先生、一緒に東京に来てや」
 手を握られ、引き寄せられた。
「進学校での仕事、つまらんのやろ。東京に来てのんびりしとったらええねん」
「生活費はどないするん」
「吉竹組から給料が出るんや」
 コオロギが三本の指を示した。
「三十万円も?」
「ちゃうで、月給三百万円や。先生は働かんでええし、東京でうまいもん食うてエステとかファッションとか楽しんだらええねん。わしは仕事があるけどたまに帰ってくる。そんときにおいしいごはん作って待っとるだけでええんやで」
「いやや。人殺しを家で待てと言うんか。人殺しで稼いだ金で遊べるはずないやろ」
 コオロギは悲壮に目を見開き、私の手を離した。私は反動で、じゅうたんの上によろけた。
「無理や。生きてる世界が違いすぎる。私にはとても、背負えんよ。私は普通の女や」
「先生、普通ってなんやねん」
 私は答えられなかった。どうしようもなくて、顔を覆って泣いた。
「泣かんでくれ、先生。先生が泣くと辛い。もう帰るで」
 コオロギがTシャツを着ようとした。私はその手を止めた。
「ちゃうよ。悲しくて泣いてるんとちゃうの。あんたのことが好きすぎて泣いとるの」
 コオロギがTシャツを置いて、再び、私の腕を引いた。コオロギの腕の中にすっぽりと包まれた。コオロギの胸にぺたりと頬をつけて、深く息を吐いた。彼の鼓動はとても静かで、私の乱れた呼吸が呼応するように整っていった。
 顔を上げる。コオロギの顎が目の前にあった。その向こうに切れ長の目があり、じーっと私を見下ろしていた。恐る恐る唇を重ねる。ヨーロッパ通りの花屋で、もうどうなってもいいとかき乱されていたときほどの高鳴りはなく、私もコオロギも、どこか冷静に確かめ合うようなセックスをした。いつかはこうなる、止められないだろう、と私もコオロギも知っていたのだ。
 その日を境にコオロギは毎晩のように私の自宅を訪れ、私物を置いていくようになった。黒田の親分は東京行きを前に好きなだけ一緒におれと言っているそうだ。相手が息子の担任教師であることは知らない。コオロギはアパートにも目立たないように出入りし、セックスもとても静かだった。
 学校で授業を終えて帰宅すると、コオロギがいる。勉強をしていることが多く、彼のシノギなのかこまごまと内職をしていることもあった。使い終わったテレホンカードの裏側に銀色のテープを貼り付け、偽造テレカを作っているのだった。「これ使えば公衆電話かけ放題やで」と無邪気に言われると、犯罪なのに叱る気になれない。
 私の帰宅が遅いと総菜を並べて待っている日もあった。小さなシングルベッドで身を寄せ合って眠るが、背中の筋彫に初めて色が入った夜は痛み止めが効かず、コオロギはちゃぶ台の脇で震えていた。
 やがて盆休みがやってきた。私は気が進まなかったが、姉が「子供たちが菊ちゃんに会いたがっとるんよ」とうるさいので、千里の実家に帰省することにした。
 姉一家が帰省すると、千里の実家は大騒動になる。乳飲み子の赤ん坊が泣き喚き、幼児二人が室内を走り回る。二歳の姪は何度も私の足にぶつかり、四歳の甥は私をおもちゃの拳銃で撃ち、死ぬふりをしないと怒り出すので本当に面倒くさかった。関西電力勤めの姉の夫は如才ない人で、無口な父親に酒を注ぎ、場を盛り立てようとする。
 父親は大阪府教育委員会の外郭団体に天下りしている。府内髄一の進学校の教師をしている末娘が自慢だったようだが、ここ数年は難しい顔で迎えいれる。酒が進むと小言が漏れる。
「菊美、キャリアウーマンもええが、女があまり仕事に没頭するもんやないで。どこかでいい人と結婚して子供を作らなあかん。それが女の仕事やろう」
 義兄がフォローする。
「お義父さん、いまや女性が社会に出て活躍する時代ですよ。しかし菊美ちゃんはおっとりしとってかわいらしいよって、男がほっときません」
 気持ち悪いほど持ち上げてくる。母がそうめんを茹でながら、笑い飛ばす。
「菊美はただの行き遅れやで。そんなふうに言うてくれるなら、関電にええ人おらんの」
 義兄はごまかすように笑っただけだった。四歳の甥っ子がしつこく私を銃撃してくる。姉が肘でつつく。
「菊美、死んでやりいな、ノリ悪いで」
「もう四回も死んだわ」
 私は冷酒のビンを手酌でコップに入れようとした。すかさず父が注意する。
「女が飲むな」
「まあまあ、男女平等ですからね」
 義兄がお酌してくれた。私は一気に飲み干す。
「実は私な、十七歳の子とつきおうとるねん」
 義兄は大笑いし、姉は白けた顔をする。両親は「はいはい」と適当にあしらった。
「その子な、ヤクザやねん」
「トレンディドラマの見過ぎや」
 日々、家事育児に追われる姉は呆れ果てていた。
「十七のヤクザと恋する女高校教師なんて、野島伸司でも書かへんで」
 宝塚歌劇団か、テレビドラマは倉本聰が書いたものしか見ない母も失笑した。


第三章 和解


 令和五年二月、向島一家襲名披露銃乱射事件から三日経った。
 現場検証をしていた鑑識課と捜査幹部が引き上げ、ようやく現場のマル暴刑事にも襲撃現場に足を踏み入れる許可が出た。
 桜庭誓は深呼吸して規制線をまたぎ、五右衛門ビル六階の向島一家事務所に入った。目の前の応接室は手ぬぐいやハンカチが落ちて、血の痕がそこら中に残っていた。警察官や救急隊員が土足で駆けずり回った跡がある。ここで負傷者の応急手当てがされていた。ガーゼの切れ端や血まみれのタオルなども置き去りにされたままだった。
 誓はパンプスにシューカバーをつけて先へ進む。突き当りの総長室は、仕切られていた可動式壁が外され、畳が敷かれて襲名披露の場となっていた。窓ガラスが割れ落ちたため、ベランダごと青いビニールシートで塞がれて、いまは薄暗い。日差しの明るい部屋だったはずだ。去年の夏まではそこに向島春刀がいた。
 ──お父さん。
 心の中で呼びかけて、心が重たくなる。廊下には今仲の血痕も残っていた。流れ弾が耳をかすったのだ。誓は彼に守られてかすり傷ひとつ負わなかった。カリフラワー耳は銃弾で穴があいたようだが、大事には至らず、今仲は右耳にガーゼを当てて現場復帰している。
 大部屋の灯をつけた。三代目千住雅夫総長との親子盃の準備が整っていた。上座に『今上天皇』と書かれた垂れ幕と神棚があり、先代の座布団も置かれていた。向島春刀が座るべきそこに、組織の旗と魂にあたる日本刀が置かれている。縄張りを記した書類は盆の上にあった。
 千住が座っていた座布団はどこかへ飛んでいき、一帯は血の海になっていた。部屋には血と硝煙のにおいが残っている。
 三代目の襲名を前に、千住雅夫は全身に二十六発の銃弾を浴び、即死した。千住の検視解剖は体中に残った銃弾や残滓を取り除くところから始めねばならず、丸二日かかった。
 誓は固まった血だまりの前に佇み、手を合わせた。
「誓ちゃん」
 藪哲子の声が外からした。彼女と一緒に五右衛門ビルに来たが、藪はひとつ上のフロアに向かっていた。襲撃犯の蛇沼将が襲名披露の三日前から潜伏していた部屋を確認に行ったのだ。
 誓はベランダに出てブルーシートを持ち上げた。藪がひとつ上の角部屋からこちらを見下ろしていた。向島一家の部屋から見て斜め上だ。
「手すりと配管につかまれば余裕でそっちに降りられそうだ」
 警察が警備計画を立てる前から、ビルに襲撃犯が潜んでいたようだ。突き止められなかった警視庁の警備ミスをマスコミは書き立てている。
 前日までにマル暴刑事たちが五右衛門ビルの全戸を訪ね、注意を促している。蛇沼が潜伏していた部屋は向島一家のフロント企業に勤務する男が住んでいた。
 蛇沼に二千万円で買収され、潜伏場所を提供していたようだ。いまその二千万円で借金を返済し、自ら留置場に入っている。向島一家の報復を恐れているのだろう。
 蛇沼は襲名披露が始まるのを見計らい、手すりと配管を伝って向島一家の部屋のベランダに降りた。窓に向かって米国製のアサルトライフルM4カービンを乱射しながら、ひび割れたガラスを半長靴の足で蹴破り、千住に連射を続けた。
 蛇沼は弾切れを起こすとM4カービンを捨てて、六階のベランダから配管を伝って逃走を図ったが、足を滑らせて五階から落下した。潜伏から実行までは緻密に計画されていたようだか、逃走経路についてはろくに考えていなかったようだ。犯行後の行き当たりばったりはヤクザらしい。蛇沼は救急搬送されたが、意識不明の重体が続いている。
 階下にやってきた藪が、ベランダに出てきた。誓の横に立つ。
「舎弟の仇を見事に取ったわけだ」
「令和には珍しい血の気の多いヤクザだったんですね。破門にされていたとは思えません」
「あの破門状は嘘っぱちだろうね。親が共同正犯に問われないよう、日付をごまかして破門状を作った」
 蛇沼がメイド喫茶で売春をさせていた事実は確認できなかった。町田双蛇会の会長、稲峰は、カスリを取られたと悔しがっていたが、蛇沼は直前まで稲峰の運転手をしていた、という情報もある。
 町田双蛇会を確実に内偵できていなかったのが襲撃を許した原因だった。暴力犯捜査五係は立川、八王子、町田のヤクザを見ている。広域だが数は少ないので五係は人員も多くないし、町田市の担当はたったの三人だった。最近は八王子双竜会にかかりきりで、小さな町田双蛇会は手付かずだった。稲峰は襲撃計画を知っていたはずだ。破門状の偽装という詐欺行為で立件でき次第、共同正犯で逮捕する予定だ。
「抗争を防ぐために奔走していたのに、千住を死なせてしまいました」
 誓は向島と繋がるスマホを出し、血だまりの画像を撮り送信した。藪に咎められる。
「現場画像を送るのはまずい。捜査情報だ」
「とっくに山城が送っていると思いますよ。現場の混乱の中で、千住の死体の写真を撮っていましたから」
 山城の目は怒りで血走っていた。町田双蛇会からこんな報復を受けたと親分の死体写真を方々にばらまくことは、反旗ののろしを上げることと同じだ。向島春刀が本家吉竹組の若頭になっていたと判明した以上、本家吉竹組系のヤクザが集まってくるだろう。
『お父さん、千住さんが殺されたよ』
 誓はメッセージを送った。
『ごめんなさい。襲撃を止めることができなかった。私は現場にいたのに』
 配信済みの表示にならず、すぐに既読がついた。いま向島がどこかでスマホを開き、誓のメッセージを読んでいる。今日こそ返信があるのではないかと思ったが、待てど暮らせどメッセージは来ない。
『なにか言ってよ』
 既読にはなる。
『そもそもこれはお父さんが引き起こしたことじゃないの。海竜が殺されたら、舎弟が報復にくるとは考えなかったの』
 硝煙のにおいと、千住が流した血の匂いが鼻につく。突如、向島から返信が来た。
『愛しているよ、誓』
 誓は頭に血が上った。通話ボタンを押す。案の定、留守番電話になってしまった。誓は留守電に吹き込む。
「いろいろ考えた末でのメッセージやろけど、愛してるなんて呑気すぎるやろ。アホか」
 藪は壁にずらりと張り出された向島一家の子分たちの名前を見ていた。呆れたように誓を振り返る。
「お父さんが初代から継いだ事務所が襲撃されたんやで。しかも襲名披露の場で、お父さんの片腕だった人が死んだ。いつまで地下に潜って沈黙しとるつもりや。早く出てこんかい、向島ッ」
 最後は娘というよりひとりのマル暴刑事としてどやしてしまった。
「そんなことで向島が表に出てきたら苦労ないわ」
 藪が肩をすくめた。表の扉をノックする音がした。誓は慌ててスマホをしまい、応接室をつっきって扉を開ける。
 今仲だった。今日も右耳にガーゼを当てている。「届きましたで」と張り紙を見せた。
 東京都公安委員会が、向島一家に特定抗争指定暴力団の認定を出した。いよいよ本格的に都内で抗争が始まったと警視庁のトップも慌てふためいたようだ。たったの三日で公安委員会が発行してくれた。
「町田双蛇会にも出ました。いま五係がビラを貼りにいっとると思います」
 今仲の扉に、事務所使用を禁ずる旨が記された張り紙を貼る。
 向島一家の扉は閉ざされ、警察によって施錠された。ドアノブと窓の格子をチェーンで繋いで南京錠がかけられる。

 

(つづく)