菊の独白 一

 授業をしている私の鼻先を紙飛行機が飛んでいく。精一杯声を張り上げた。
「誰ですか。授業中ですよ」
 生徒たちは背筋を伸ばし冷淡な目でこちらを見ている。私は咳払いし、授業を続けた。
「今日は四月二十日、出席番号で二十番の人」
 指名された生徒がため息をつき、机に広げていた赤本を閉じた。
「冒頭から音読してください」
 生徒は周囲に尋ねながら、教科書のページを捲る。隣の生徒は数学の勉強に熱中していて、知らんぷりだ。
「十八ページの『吾輩は猫である』ですよ」
 生徒が該当ページを探す間、教室内を巡回する。私の授業は睡眠時間と決めこんで熟睡している生徒、ノートに英単語を書きなぐっている生徒もいる。
「吾輩は猫である」
 投げやりな大声で生徒が音読を始めた。
「名前は、もうありまっせぇ」
 生徒は自分の姓名を叫び、クラス中の笑いをかっさらった。
「静かにしてください。授業中ですよ」
 また紙飛行機が飛んできた。私の声はこんな薄っぺらな紙切れにすら、かき消される。
 たったの五十分の授業で疲れ切り、朝セットしてきた前髪がしなびた。女子トイレの鏡の前で前髪の根元にスプレーを吹きかけ、くるんと立ち上がらせる。化粧ポーチの中に忍ばせていたポケットベルが目に入る。
 今朝、恋人に連絡を入れたのだが、返事はない。最後の連絡は母からの呼び出しで、姉が出産したという連絡だった。二歳上の姉は関西電力に勤める夫を持つ専業主婦で、三児の母親だ。大阪万博で有名になった吹田にマイホームを買い、新型カローラに乗っている。私は今年三十歳になるというのに、短大卒の姉に、もう追いつけないくらい人生の差をつけられてしまっていた。
 女子トイレに教頭が入ってきた。この私立ひがし天満てんまん高校で女子トイレを使うのは、この教頭と私だけだ。
桃川ももかわ先生、年頃の男子をみとるんですから、トサカ頭で色気を出さんでも」
 流行っているから前髪をあげているだけなのに、戦前生まれのひっつめ髪の女教頭には、いかがわしく見えるらしかった。
 放課後は校長室に呼び出される。新学期が始まって以来、私の授業は統制が取れていないと保護者からクレームがきていた。ドアノブを握り、覚悟の深呼吸をする。
きく先生」
 担任しているクラスの生徒、くろ健優けんゆうだ。彼は親しみを持って、私を下の名前で呼ぶ。意思の強そうな太い眉毛に長いまつげの少年だった。
「黒田君。どないしたん」
「先生こそ。校長に呼ばれたんですか」
「うん、ちょっとな。授業でわからんところでもあった?」
 健優は、私の授業を真面目に聞いてくれる数少ない生徒のひとりだった。彼は顔を赤くしながら、レース使いのハンカチを出した。
「これ菊美先生のちゃいますか。教卓の下に落ちとったんです」
「ああ。私のや。ありがとう」
 姉が誕生日プレゼントにくれたレースのハンカチはブラとショーツのセットについてきたものだ。そのせいかハンカチのくせにどこか淫靡な風合いだった。
「ほな、失礼します」
 健優はぺこりと頭を下げて立ち去った。あんなふうに接してくれる学生だっているのだと私は勇気をもらい、校長室に入った。
 ガラステーブルをはさんで校長とソバージュ頭の保護者が座る。私は一礼し、校長の隣に座った。
「センター試験までもう十か月切っとるんです。二年も高い学費を払い続けて大事な大事な三年目やのに」
 保護者が電卓を叩き始めた。一学期分の授業料と授業のコマ数を割って一授業あたりの料金を割り出す。彼女は大阪ミナミの繊維問屋街でブティックを経営する商売人だ。去年までPTA会長も務めていた。
「一日当たり八千五百円。ところが桃川先生の授業にいたっては授業の声が小さすぎて全く聞こえんいう話じゃないですか」
「申し訳ございません」
「うちの息子は同志社の推薦を狙っとるんです。成績に響くんとちゃいます」
「桃川先生はこの通り女性で迫力がありませんので、男子生徒を落ち着かせるのは難しいところがあるようです」
「それは生徒のせいですか。先生のスキルの問題ちゃいますか」
 保護者の目が私に突き刺さる。
「先生はちなみにどちらの大学ですか」
「関西学院大学の教育学部です」
「関学も落ちたもんやで」
 校長室の窓から校門が見えた。ベンツSクラスが校門につけられ、恭しく後部座席が開かれる。校門の前で待っていた黒田健優が後部座席に乗った。
 彼は曾根崎の黒憂会こくゆうかいという暴力団の親分の一人息子らしい。履歴書に『極秘』のスタンプが押され、親の職業について記された予備書類がついていた。黒憂会は吉竹組よしたけぐみという暴力団の傘下にあるらしいが、健優の両親が学校にクレームを入れてきたことはない。健優自身も、自分はヤクザの息子だと威張り散らしたり、乱暴したりもしない。目の前の商売人よりずっと穏やかで、事なかれ主義の校長よりずっと親身だった。
 週末、私はいつもより色彩の鮮やかな口紅を塗って、恋人と待ち合わせするためアパートを出た。自宅は勤務先の高校とはJR天満駅をはさんで反対側にある。学校から徒歩圏内だが生徒と鉢合わせることも殆どない。大阪キタの中心地である梅田からも近くて便利な場所だ。高架下の占い館には今日も行列ができていた。空前の好景気は終わったと誰もが気がついた平成五年のいま、先行き不安を感じている人は多い。占いはブームになっていた。
 JR大阪環状線を一駅乗り梅田に出る。阪急百貨店内の本屋に寄って、グアム旅行の特集をした雑誌を買った。待ち合わせはナビオホールの喫茶店だ。パイプオルガンが設置されていて、キタの街らしい落ち着いた雰囲気だ。千里ニュータウンで育った私は、若者だらけでうるさいミナミが苦手で、デートも遊びももっぱらキタで済ます。
 恋人は待ち合わせを三十分過ぎても来ず、ポケベルに連絡もない。私は席を立ち、トイレのそばにあった公衆電話で恋人に10105とメッセージを送った。いまどこ、という意味だ。
 大学時代に同じ文学サークルだった彼氏はドイツ文学の研究者の道を志し、大学院に進学した。助手として多忙なうえに研究もあって薄給だ。デート代はいつも私が払っていた。私立東天満高校は、給料だけはいい。私が学校でどれだけ虐げられても我慢しているのは、私が彼との将来を背負っているからだ。
 二杯目のコーヒーを飲み干しても彼はやって来ず、返信もなかった。私は公衆電話で彼の自宅に電話をかけてみた。思いがけず彼は在宅していた。
「菊美か。今日約束しとったっけ」
「しとったよ。ゴールデンウィークにグアム行こ言うたやん。予定決めなあかんでしょ」
「グアムは行かん言うたやろ」
「言うてへんよ。私が金出すさかい心配せんでええよ。研究が忙しいならなんぼでも資料をあっち持って行ったらええやん。海辺でトーマス・マンを読むのもよさそうや」
「ほな、忙しいよって」
 電話は切れてしまった。
「ほな、って。なにがやねん」
 私は受話器を叩き置き、阪急百貨店一階に入る好物のイカ焼きをやけ食いした。宝塚歌劇団専門ショップの前には人だかりができていた。私の母も宝塚のファンだ。母の立つ台所のラジカセからは宝塚の舞台コーラスが流れてくる。
 父母とも小学校の教員ですでに定年退職している。母はいまでもたまに産休の教師の代わりなどで教壇に立つこともあるが、父は五十代からずっと大阪府の教育委員会にいて、最後は堺市内の小学校の校長で退職した。教員としてのエリートコースを歩んだ夫ではなくて、男装した女性に夢中になる母が理解できないが、当然母も、三十を過ぎてもまだ嫁にいけない末娘に首を傾げる。私もどうして自分の人生が人並みにうまくいかないのか、わからない。こんなに我慢してこんなに尽くしているのに。
 私はあてもなく上りのエスカレーターに乗った。とにかく上を目指したい。決して下りたくなかっただけだ。最上階は催事場だった。場違いなほど静かで入口が小さい。日本刀特別展示販売会をやっているようだ。入口の店員は恭しい。
「チケットはお持ちですか」
 私は興味もないのに、流れで当日券を買ってしまった。刀剣を扱う資格を持っているか、尋ねられる。そんな資格があるということすら知らず、私は尻込みした。
「では購入目的ではなく見学ということでよろしいでしょうか」
「ええ、はい」
 店員は展示場の入口に促してくれた。ぼちぼちと客の姿はあり、老齢の男性には店員がつきっきりで解説をしていた。日本刀を購入予定の人には担当がつくらしかった。
 細長い展示場は手前から現代刀、新々刀、新刀、そして古刀と、奥に行くにつれて年代が古くなっているようだ。有名な戦国武将が所持していた日本刀は非売品ながら、人だかりができていた。和服の老人は古刀が欲しいと交渉しているが、断られていた。
「なにせ現代では再現不可能な日本刀でございますから、値がつけられないのです」
「そんなことは知っとる」
「釈迦に説法かとは思いますが、ご覧のように刃に出るたおやかな波目模様は現代の技術をもってしても再現することはできません」
 私は現代刀と古刀を見比べてみた。確かに現代刀は波目模様が細かく荒々しい。古刀はまるで凪いだ海のような、なめらかな曲線が出ていた。現代刀には人情味を感じる。古刀の方が冷静で残虐に見えた。
 私は現代では再現ができないというその古刀を、想像の海の中で握り締める。私が三十歳になった途端に冷たくなった恋人をはじめ、授業で騒ぐ生徒たち、事なかれ主義の校長、口うるさい教頭や保護者を、妄想の中、日本刀でぶった斬る。
 そして私はこんなことで自己制御している自分をむなしく思いながら、夜は大好きなトレンディドラマを見て気を紛らわす。

 翌朝、教室に入った途端に黒板消しが頭の上に落ちてきた。古典的ないたずらだが屈辱感が湧き上がる。私はチョークの粉を払い落しながら「ダメやないの、こないいたずら」と小さな声で咎めることしかできない。
「こんなんもうあかんやろ」
 健優が立ち上がってクラスメイトを注意してくれたが、放課後に事件は起きた。私はその時、体育館にいた。部活動の顧問を持っていないのに、体育教員の学年主任から「体育館の仕切りネットを補修しといてください」と押しつけられていた。こういう手仕事は女のやることだと思い込んでいる。
「桃川先生」
 バレー部の男子生徒が声をかけてきた。
「ついさっき、黒田君がプールの方へ引きずられていきましたよ」
 私は慌てて体育館を飛び出した。健優は四月のプールで制服姿のまま、溺れていた。プールの水は藻で緑がかっている。枯れ葉や虫の死体が浮く水面を叩き、助けを求めていた。プールサイドにクラスメイト三人が立ち、健優に竹刀を差し出していた。
「つかまれ」
 助けているように見えるが、健優が手を伸ばすと、竹刀をさっと引っ込めている。
「黒田君」
 私は生徒達を押しのけてプールサイドにしゃがみ、健優に手を差し伸べた。
「あなたたちなにやっとんの。黒田君を突き落としたんか」
 生徒たちは私の口調がいつもより厳しかったせいか、戸惑った様子で答える。
「落ちたから助けとったところですよ」
「こいつがトロいさかい、竹刀を握れんのです」
 スカートが濡れ、じわじわと生臭い水を吸い上げていく。手が届くかというとき、私は誰かに背中を押されてプールに落ちた。目を開けると濁った水と私の鼻や口から出るあぶくが見え、笑い声が水の膜の向こうから聞こえる。
「先生、鈍くさいわ」
「大丈夫でっか」
 生徒たちがしゃがみこみ、次々と私に手を差し出してくる。私は腕をつかまれ引っ張られる。あと一歩で上がれるというところで手を離された。私はまたプールに落ちた。
「先生、ドリフやないんやから」
 大笑いする生徒たちの姿が、水の波間に消えたり現れたりする。
 あの日本刀で殺してやりたい。そう思ったとき、金色に髪を染めた男がどこからともなく現れ、笑っている三人を金属バットで威嚇した。
「わ、なんやお前」
 三人は散り散りに逃げようとしたが、ひとりはみぞおちを正面から突かれ、尻もちをつく。二人目は右足を金属バットで打たれた。三人目は拳を振り上げて反撃に出たが、尻を殴打された。
 金属バットを振るう男は明らかにこの学校の人間ではなかった。ジーンズに白いティシャツ、紺色の麻のジャケットを羽織っているが、腕まくりしている。
 プールサイドにはごつい指輪をつけた別の男がいた。健優を引きあげている。
「ボン、探したんですよ」
 水を飲んでえずく健優の背中をさすってやっている。ワイシャツを捲り上げた腕には手首まで桜吹雪の刺青が入っていた。
「父さんには言わんといて」
 健優は目を真っ赤にしてえずきながら、指輪の男に訴えている。私は自力でプールサイドに上がった。
 健優は指輪の男に付き添われ、早々にプールを引き上げていく。金髪の男はいじめっ子たちに金属バットを向ける。
「お前らよ、何者かは敢えて名乗らんが、学校で勉強をようけしとるんやろうから空気くらい読んでおけよ。チンコロしよったらお前らの親兄弟に関わるで。今日のことは受験勉強のうっぷん晴らしに三人で喧嘩したいうことにせえよ。先生も」
 私はそこで初めて金髪の男に見下ろされる。冷めた目をした男は私と同年代くらいだろうか。紺色のジャケットの襟元についた笹の代紋を見せつけてきた。
 西日本最大の暴力団、吉竹組の代紋だ。
「コオロギ。堅気に見せびらかすな」
 指輪の男が金髪の男を叱った。
「ほな。迷惑かけたわ」
 コオロギと呼ばれた男は金属バットを投げ捨て、おらおらと肩を怒らせて立ち去る。私はずぶ濡れの体を引きずり、追いかけた。
「待って」
 コオロギが振り返る。相手はヤクザだろうが、助けてもらったのだ。名前を尋ねずにはいられなかった。コオロギなんて変な名前が本名なわけがない。
「あの、お名前は」
「名前は、まだない」
 コオロギはまじめな顔で答えた。私は無条件反射で顔をほころばせてしまう。
「夏目漱石ね」
「は、なんやそれ」
 コオロギは笑って立ち去る。笑顔はずいぶんと無防備で無邪気で、少年のようだった。


第一章 宣戦布告


 令和五年の年が明けた。警視庁本部の六階にある組織犯罪対策部暴力団対策課のマル暴刑事たちは正月返上だ。
 二年前、日本最大の暴力団、吉竹組が分裂した。現在は大阪市天王寺区下寺を拠点とする本家吉竹組と、東京都港区六本木を拠点とする関東吉竹組に分かれ、不気味なにらみ合いを続けている。
 暴力団対策課暴力犯捜査一係の警部補である藪哲やぶあきは去年の秋から特別対策本部に詰めて、殆ど自宅に帰れていない。備えつけのテレビでは元旦らしく振り袖姿の女性タレントが笑顔を振りまいていたが、十時ちょうどになり、ニュースが始まった。
「東京都と大阪府の公安委員会が、分裂した二つの吉竹組が抗争状態にあると認定したことを受け、今日午前、大阪市天王寺区の本家吉竹組総本部に大阪府警が立ち入り、事務所の使用を禁ずる処置と家宅捜索を実施しました」
 テレビに寺院の入り口のような門構えが映る。本家吉竹組の総本部だ。寺や神社が密集する地域にある。ガサ入れ風景の中に初詣客の姿が映る。
 大阪府警のマル暴刑事が、大阪府公安委員会が発行した張り紙を貼り付けた。
『この事務所に立ち入り、またはとどまることは禁止』
 マル暴刑事や機動隊員が続々と門の周辺を固める。本家吉竹組の暴力団員たちも集結しているが、実際に手出しはしない。激しいヤジ合戦になっていた。
 騒然とした雰囲気の中で、マル暴刑事たちが家宅捜索令状を見せて、扉を開けさせる。
 藪は民放、NHK、ネットのニュース動画を確認し、現場の様子を分析していた。
「案の定、双子の姿はないね」
 本家吉竹組の組長は異例の二人体制だ。じまいさむと矢島すすむという七十代の一卵性双生児が取り仕切っている。
「警察に踏み込まれるところに組のトップが立ち会ったら暴力団側の負け試合に見える。別宅で双子仲良く対策会議中だろう」
 乗鞍匡のりくらまさが言った。彼は暴力団対策課の管理官で警視だ。藪の上司にあたるが、同じ釜の飯を食った同期の仲間でもある。
 藪のデスクの内線電話が鳴る。ナンバーディスプレイに大阪06から始まる番号が表示される。待ち構えていた電話だった。
「警視庁、暴対の藪です」
 相手は大阪府警の組織犯罪対策本部の管理官だった。特定抗争指定にかかる作業の責任者でもある。
〇八〇〇マルハチマルマル開始の特定抗争指定暴力団への指定における事務所閉鎖手続き、並びに家宅捜索が無事終わりました」
「了解、特異動向は」
「ありません」
「警視庁も着手に入ります」
 藪は受話器を置き、立ち上がる。
「次は警視庁の番だよ」
 乗鞍が、マル暴刑事百人が集う大部屋に声を響き渡らせる。
「六本木に乗り込むぞ」

 

(つづく)