最初から読む

 

菊の独白 二


 放課後の教室で帰宅部の生徒たちが居残り騒いでいた。筆箱をマイク代わりに森田童子を歌う。高校教師と女子高生の暗い恋愛ドラマの主題歌だった。
「個人面談の時間やで」
 私は笑いながら追っ払った。彼らはスポーツも成績もぱっとせず、受験する前からもう浪人するつもりでいる落ちこぼれ三人組だ。受験ストレスのはけ口に教師を困らせたり、いじめに走ったりする生徒たちより、よっぽどかわいい。
「先生、『高校教師』見とった?」
「その時間はニュースステーションや」
 本当は食い入るように見ていたが、真面目ぶった。黒田健優が廊下から中を窺っていた。
「黒田君おいで。君たちは早く帰ってな」
 春の西日が差す教室で健優と二人きりになった。プールでのいじめ事件から二週間、健優とは翌日に話し合いをした。彼は話したがらず、いじめっ子三人組は、学校を休んだ。健優のバックにいるヤクザを恐れてかプールの騒動を誰にも告げ口はしていない。授業中もすっかり大人しくなった。
 コオロギと呼ばれていた健優のボディガードの金髪ヤクザを思い出す。素人相手だから手加減していたのか、いじめっ子たちは体にアザができた程度だった。
 私は健優と向かい合い、進路調査票を開いた。東京の大学しか志望していない。
「大学で上京するのは確定なんやね」
 健優は途端にうなだれる。
「僕はほんまは大阪に残りたいんです。そやけど親父が、なにがなんでも東京へ行けと。地元を離れ、堅気になれと言うんです。僕は親父の組を継ぎたいんですけど」
 私はちょっとのけぞってしまった。
「憧れる気持ちはわからんでもないよ。お父さんの背中を見て育って、かっこいいと思うこともあったやろしね」
 事実、私が持て余していた問題児たちを腕一本で黙らせたコオロギは魅力的だった。佇まいは大人びていたのに、早口のガラガラ声はガキ大将のようで無邪気にも見えた。教師が暴力を肯定してはいけないが、私は暴力に助けられた。
「ヤクザはこれから大変やないかな。暴対法っていうのが施行されたの知っとる?」
「親父は戦いますよ。法律が得意やさかい、吉竹組の暴対法対策委員会のメンバーにも手を上げとるんです」
 健優は誇らしげだ。彼の父が率いる吉竹組の二次団体である黒憂会は、曾根崎一帯が縄張りらしい。右翼系と聞いたが、どうやって食っているのだろう。
「そうは言うても暴力団同士の抗争もあるやろうし、怖くないんか」
「先生、はっきり言うたらどうです。僕には極道は似合わんと思とるのでしょう。プールの一件がそうや」
 健優は歯ぎしりした。
「コオロギが来るまでやられる一方やった。弱いからやないですよ。親父から、堅気には手を出すなときつく言われとるんです」
「お父さんが正しいと思うで。暴力を暴力で返したらあかん」
 自分は暴力で助けられたというのに、きれいごとだった。
「やり返した人より、我慢した黒田君の方がかっこええで」
 健優の目が輝いたが、それも一瞬だ。
「そやけど親父はコオロギに跡目を継がせたいようです」
「彼はお父さんの側近なんか。名前を訊いたら、まだない、って変なこと言うてたけど」
「ほんまにないんですよ。あいつ無戸籍なんです」
「無戸籍って、名前すらあらへんの」
「物心ついたときから、僕の弟分にってことで、うちに居候してました」
「ずいぶん年上に見えたで」
「僕の一つ下、まだ十七ですよ」
「えっ。そうなんや」
 体つきはしっかりしていたし、慣れた様子の暴力に貫禄を見たが、ガラガラ声のガキ大将そのままの年齢のようだ。
「どっかのゴミ捨て場か路地裏に捨てられとったのを、親父が連れ帰ったんです。親もわかりません。かわいそうやし、僕の遊び相手にええんやないかと軽く考えたらしいです。母からはこっぴどく叱られたそうですけど」
「そんなら、コオロギさんとは兄弟みたいなもんやね」
「どうやろ。アイツは学校も行かへんで、親父の事務所の掃除とか雑用をさせられとりました。近所で僕がいじめられるとコオロギが飛んでくるんです」
 黒田の両親はヤクザだから、下手に出てきてしまうと警察沙汰になってしまう。子供のフォローを子供にさせることで地域とうまくつきあっていたのかもしれない。だがそんなふうに都合よく使われて戸籍もなく学校も通わせてもらえなかったコオロギが、私は気の毒に思えてきた。
「コオロギなんて変な名前、誰がつけたん」
「自分で好んで名乗っとるんですよ。所詮自分は爬虫類のエサ程度の身分とへりくだっとるんでしょう。成人して盃を交わすときに、親父と養子縁組を申請するらしいです」
 いずれ名前がつくから、私が名前を尋ねたら『まだない』と答えたのだろう。
「てっきり、夏目漱石のファンかと思たわ」
「まさか。あいつ、読み書きもほとんどできませんよ」

 府内の大学の校内説明会があったので、花金だというのに夜は大学側の接待を押し付けられた。女だからとお酌に回らされ、どこかの大学のスケベな担当者に尻をさわられた。手を振り払うと「しらけるで」と怒られ、黙っていたら「毅然とした態度を取らなあきません」と女教頭に叱られる。もやもやしたまま帰宅途中、彼氏から電話がかかってきた。
「菊美。悪いんやけど、ミナミで飯食うてたら財布を落としてもうて。来てくれんか」
「ミナミのどこ」
「心斎橋。二丁目劇場の裏んとこ。頼むで」
 かなり泥酔している様子だった。仕事でなにか辛いことでもあったのかもしれない。私も愚痴を聞いてほしい。出会ったころはいまどきの若者の生きづらさを二人で語り合った。あの熱い夜を思い出した。
 私は堺筋まで出てタクシーを拾った。心斎橋二丁目劇場周辺は、劇場で出番を終えた若手お笑い芸人の出待ちであふれていた。居酒屋に入る。彼のいる個室に顔を出すと、大学時代のサークル仲間がそろっていた。
「お、ATM来たで」
「こら言うな」
 焦った彼氏を見て男たちがどっと笑った。
「まあ菊ちゃんも飲んでいきや」
 飲み会の場は第一勧銀に就職した先輩と山一證券に入社した同期の、日本経済の話ばかりだった。ひとり、私と同じ教育者の道を選んだ人がいた。昨今の受験戦争やいじめ問題について語る。私も意見しようとしたら、山一證券が口出ししてきた。
「菊ちゃんはこいつと結婚するまでの腰掛けやろ。気楽でうらやましいわ」
「菊ちゃん、お代わり。みんな飲み物ないで」
 私はみなのオーダーを聞いて、店員に伝えた。飲み屋を出ても男たちはいつまでもミナミの路上で騒いでいる。私は男たちにたまに雑用を言い渡されるので帰りそびれた。なんとなく笑ってその場にいる。
 小さな広告代理店にしか就職できなかったひとりが、私に耳打ちしてきた。
「あいつ、ゼミの女子大生と浮気しとるで」
 近くの店の有線が流行りの曲を流しているが、どの曲にも共感ができない。私は大黒摩季のように強くはなれないし、ZARDのようにメジャーなタイプでもない。そして竹内まりやのように愛らしくもなかった。そういえば、日本刀特別展示販売は今週末が最終日だ。

 日曜日、私は阪急百貨店に朝から入り浸った。銀色に光る日本刀をディスプレイ越しに見ていると落ち着く。
 心の中で日本刀を握る。私の周囲にいる人たちをただ無尽蔵に斬り捨てたい。気が付けば、日本刀を振るっているのはコオロギになっていた。私が振ると絶望的なのに、コオロギが斬る姿はワクワクする。
 現代刀の展示ディスプレイの前に、店員と男が四人、日本刀を吟味していた。オールバックの蛇のような顔をした男が現物を見たがっている。老齢の店員が「刀工渾身のひと振ですわ、黒田様ほど似合うお方はおまへん」と力説している。あれは健優の父、黒田いちりようか。目元がそっくりだ。
「すみません、東天満高校の桃川と申します。黒田健優君のお父様ですよね」
 人に強く言えないのにヤクザに話しかける勇気がある自分がおかしかった。
「健優の先生かいな」
 黒田はニコニコしていた。四人の子分がついていたが、コオロギの姿はない。
「健優はうちで先生の話ばっかりやで。どうぞ息子をひとつ、よろしゅう頼みます」
 黒田はヤクザとは思えないほど腰が低かった。コオロギはいないのか訊きたかったのだが、販売員が商談ブースへ黒田を連れていってしまった。
 展示場を出る。催事場フロアの下は本屋だった。私は衝動的に夏目漱石を探す。『吾輩は猫である』を購入した。同じ階に入っているカフェで文庫本を開いた。ボールペンで書き込みをしていく。不思議と嫌なことを忘れて、没頭できた。そして書き込みだらけの文庫本を見て、私はなにをしているのかしら、とばかばかしくなってくる。
 カフェを出てエレベーターに乗った。エレベーターガールが各フロアの案内をしている。私は車で来たわけでもないのに、「地下駐車場」と言ってしまった。
 買い物袋を抱えた人たちに紛れて、私は地下駐車場でベンツSクラスを探した。一時間歩き回り、ようやく見つけた。
 助手席から金髪の男が降りてきた。サングラスをかけているが、コオロギだ。
「お姉さん、なにか用でっか」
 コオロギはどうやら、私のことを覚えていないようだった。
「私、東天満高校の黒田健優君の担任の桃川です。あの、その節は」
 彼が小柄な私をまじまじと見下ろす。
「ああ。あんときの。びしょ濡れの」
 コオロギが噴き出した。右手にはゲームボーイを持っていた。
「日本刀を一緒に見て回らんのですか」
「わしには難しくてようわからんし、クルマ、見とかなあかんし」
 十七歳が「わし」なんて、おかしかった。彼は今日もTシャツにジーンズ、薄手の麻のジャケットを肘までまくっている。血管が浮き出て、壮年の男性のような精悍さがあった。日本刀がこんなに似合う十七歳もいないな、と見惚れてしまう。コオロギは車の中に戻ろうとした。
「待って」
 私はバッグの中に手を入れて文庫本を出そうとした。彼のために買ったもので、彼のために書き込んだものだと、今更ながら実感し、手が止まってしまった。代わりに刀剣展示会のパンフレットを出した。
「日本刀はちょっと怖いけど美術品やろ。絵画も彫刻も、美術品は贋作がよく出回るやろ。けどな日本刀だけは贋作が存在しないと言われとるんやで」
 コオロギはぽかんとしていた。
「それだけ再現が難しいさかい。まさに匠の技、見といたほうがええで」
 やんわりとパンフレットを突き返される。
「わしは字も読めん。ボンとは違う人間やさかい」
 健優の弟分として引き取られたのに、片方に両親は惜しみなく教育を施し、片方は学校にも行かせずに下働きをさせていた。随分と時代錯誤な生き方を押し付けられてきたはずなのに、コオロギは抗う様子もない。
 私は『吾輩は猫である』をバッグから取り出し、コオロギに突き出した。
「読めんて。喧嘩を売っとるのか」
 コオロギが笑いながら言った。
「ひらがなくらいは読めるやろ。ふりがな振っといたから。読んで。ほなッ」



 隔週日曜日の夜、東映会館の横にあるクラブ『キリン』のVIPルームで常盆がある。親分の黒田一令を送るため、コオロギは夕食に食パン三枚を牛乳で流し込み、メルセデスの手入れをして後部座席の扉の前で待った。雨が降ってきた。専属運転手である、ごつい指輪をつけた若中が、ゴルフ場仕様のばかでかい傘を開いて、親分を招き入れる。コオロギはずぶ濡れの状態でドアを開いて親分を招き入れた。親分はコオロギを見向きもしなかったが、若中にどつかれた。
「アホが、傘くらいささんか」
「いや、自分は濡れてもかまわんです」
「クルマが汚れるだろうが、どあほう」
「すんません、着替えてきます」
 コオロギは曾根崎のお初天神近くにある黒田家の百坪はある豪邸に住まわせてもらっている。母屋は石造りの庭の先にあり、その裏手にある使用されなくなった旧茶室が、コオロギにあてがわれた部屋だった。子供のころは天井の低い茶室は秘密基地みたいで、健優もよく遊びにきたが、十四になってぐんと背が伸びると、茶室と待合の間の低い梁に頭をぶつけるようになって、誰も来なくなった。「コオロギはずっと穴倉住まいなんか」と気の毒そうに健優が親分に訊いていたほどだ。
「あいつはいずれ黒田組を継ぐ。ちやほやしたらあかん。若いうちは泥水をすするような経験をさせんと、ええ極道にはならん」
 と親分は言っていた。
 濡れたTシャツとジーンズを脱ぎ、別の服に着替える。軒下の二層式の洗濯機に濡れた衣類を放り込んだ時、ぼこんと鈍い音がした。慌ててジーンズのポケットにねじこんでいた文庫本を引っ張り出した。雨に濡れて水を吸い、ページが波打ってしまっていた。健優の担任教師がボールペンで書き込んだふりがなが滲んでいる。捨てようと思ったのに、あの先生が泣いているように感じた。再びポケットにねじ込み、傘をさして門の外に出た。
 もうメルセデスは出発した後だった。こういう時は路地裏の近道を走って追いかけるしかない。『キリン』までの道中の全ての辻に、警察の手入れを警戒するヤクザが見張りに立っている。新地本通が渋滞していたようで、メルセデスが北新地に到着する前にコオロギは追いついた。全速力で走ったのでぜいぜいと肩で呼吸しながら傘を差しだす。
「走ってきたんかよ、お前」
 息も切れ切れに頷くと、黒田の親分は目尻を下げた。運転手に「あんまりいじめたらあかんで」とひとこと言い、五階のクラブ『キリン』へ入る。コオロギはボディガードとしてついていった。
 コオロギはまだ十七歳、黒田家に引き取られていなかったら暴走族か愚連隊にでもなって悪さをしていただろう。名誉なことに黒田のガードをやっている。
 自宅で飲んでいるときは隣に呼ばれて、愛国とはなんぞや、極道のなんたるかを聞かされて育った。健優は実子であるのに極道の教えは学んでいない。家庭教師をつけられて子供部屋で朝から晩まで勉強させられ、かわいそうだった。
 エレベーターに乗り込もうとして、運転手の若中に襟首をつかまれる。親分は別のガードと上がってしまった。
「お前、親分にあんまりさすなよ」
 言いながら指を四本立ててみせた。ここの常盆で四百万の借金があるようだった。
「お前が適当なところで止めや」
「無理ですわ。先週は止めようとした若頭がぼこぼこに殴られとりましたよ」
「そやから下っ端のお前が止めるんやろ。斬られても止めるのが下っ端の役目や」
 背中をどつかれた。階段を駆け上がって賭場に入る。
 VIPルームのソファセットやガラステーブルは運び出され、畳が敷かれていた。鋲で止めた赤と白の布の前で、ダボシャツの胴師が後ろ手に回した札を四口で割っている。黒田は前のめりになり、神経をとがらせて、胴師の傷──癖を見破ろうとしている。
 姐さんは自分の夫が賭博場でこれだけの借金を背負っているため、質素に暮らしていた。たまに爆発し、フライパンで黒田の親分を殴ったときもあった。夫婦げんかになると姐さんの方が強いが、黒田は毎週末、競馬や競輪場のノミ行為でがっぽり現金を持ち帰ってくることで黙らせていた。
 黒憂会は右翼系暴力団だ。かつては大阪府の偉い議員先生から用心棒代をもらい、もめ事を収めていた。暴対法施行前にあっさり切り捨てられ、親父は酒に溺れた。日本刀を持って府議会に突入しようとしたこともあった。シノギもやる気も失った黒田がのめり込んだのが、賭博だった。最近は競艇のノミ行為でなんとか稼いでいる。
 黒田は女遊びも派手で、長い付き合いの女には曾根崎のパブや北新地のクラブを持たせてやっている。女がヒステリックになったら現ナマを見せるか真珠を仕込んだイチモツでアソコを突けば収まると笑っていた。
 黒田が忙しくて女の相手ができないときはコオロギが代わりになだめに行かねばならないときもあった。親分の体に欲情している若い姐さんたちに調教されながら大人になった。年増の相手に慣れているせいか、十七だというのに同年代の若い子はどうにも苦手だ。おばさんの方が扱いやすくて気楽だ。
 胴師が白布の上に紙下を置く。
「さあ、張った張った」
 張り詰めていた賭場に合力の威勢のいい声が響き、活気があふれる。
 コオロギはジーンズのポケットに入れた文庫本の存在を思い出した。最初の一ページを読んだが、任侠者が猫目線の小説を読むなんて恥ずかしいような気がした。『獰悪』という難しい漢字には先生が意味を書いていた。
『らんぼうであらっぽいせいかく』
 その注釈にさらに矢印が伸びていた。
『あなたのこと』
 その言葉の下に、スマイルマークが描かれていた。
「盆中に読書か。珍しい」
 黒田の隣に座っていた七三分けの男に文庫本を取られた。二人の子分を従えている。
「夏目漱石か」
「はあ。よう知らんのですけど」
「千円札の人だよ」
「へー。あの人、小説家やったんですね」
「知らないで読んでいたのか」
 七三分けの紳士がぱらりと文庫本を捲った途端、変な顔をした。ふりがなや注釈だらけの本はさすがに恥ずかしく、コオロギは本をひったくろうとした。
「おいコラ失礼だろう、喧嘩売ってんのか」
 子分がコオロギに食ってかかってきた。
「お前、この人が誰か知ってンのか。東京曳舟の胴元、向島一家初代の向島昭雪総長だぞ」
 黒田がコオロギに拳骨をお見舞いした。
「ってぇ」
 頭を押さえてうずくまる。
「すんません、物を知らないガキやさかい」
 黒田はコオロギを顎で追っ払った。
「お前、クルマに戻ってろ」
 コオロギは頭を下げて『キリン』を出た。メルセデスの運転席にいた若中と向島一家の話になった。
「うちのオヤジは向島総長に頭があがらんからな」
「なんでです。曳舟ってどこにあるんすか」
「東京の下町やったか。向島の親分はうちと同じ吉竹組の直参や」
 運転手は意味ありげだ。
「オヤジが上京したら絶対に曳舟の盆中に行くんや。向島総長に相当なツケがたまっとる。そやから、向島総長が天王寺の総本部に来たときは遊ぶ金をうちで出すのが決まりになっとる」
 立場は同じでも、もてなさなくてはならない客人だったようだ。
「親父、東京の胴元にも借金があるんすか」
「そやで。一千万、超えとる」
「姐さん聞いたらひっくり返りますよ」
「言うたらあかんで。今度は土鍋で殴られるんちゃうか」
 見張りを代わり、ゲームボーイで暇つぶしをしていると、窓をノックされた。向島昭雪がガードを従えて立っている。コオロギは慌てて車外に出た。昭雪が本を返してくれた。
「お前、名前は」
 コオロギ、と名乗ろうとして、手の中の文庫本を見る。
「まだない……です」
 向島昭雪は肩を揺らして笑った。七三に分けた前髪が額にこぼれるほどだった。
「おもしろいやつだ。次会うときは名前を教えてくれよ」

 

(つづく)