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第一章 宣戦布告(承前)

 誓の実父は、向島春刀だ。
 どういう事情があったのか知らないが、誓は〇歳のときに桜庭功夫妻のもとに養子に出された。戸籍上の両親とも鬼籍に入っている。誓の出生の秘密を知るのはいまのところ向島春刀ただひとりだが、彼は詳細を言いたがらない。北新地のホテルで密会したとき、向島は実父であることを認めたが、母親が誰なのかは教えてくれなかった。
 警視庁でこの事実を知るのは藪だけだ。誓はひた隠しにしていたが、藪が見抜いた。誓と向島は切れ長の目尻がそっくりなのだそうだ。藪は向島一家の担当になって長いから気が付いたようだ。こっそり誓の煙草の吸殻まで押収してDNA鑑定していた藪の周到さに圧倒されたが、それよりも恐ろしかったのは、藪がこの事実を上層部にも報告せず、捜査に利用していることだった。
 誓は代理戦争のとき、向島の銃刀法違反と殺人未遂を見逃したことがある。一般人が抗争に巻き込まれるのを防ぐための犯罪だったので、目をつむった。父親にワッパをかけることに深い躊躇があったのは確かだ。
 誓は警察手帳と手錠を藪に返し、辞意を表明したが、藪が突っぱねた。
 その血で捜査しろという。向島の血が流れているのだから、抗争のキーパーソンである向島の動向を誰よりも誓が先読みできるはずだと誓の服務規程違反をうやむやにした。
 誓が捜査の手のうちにあれば、向島をコントロールしやすいとも思ったのだろう。刑事とはいえ公僕、公務員なのだから、ヤクザと血縁である上に捜査対象を庇った刑事は組織から追い出すべきだった。それが警察官として正しい在り方だが、藪は利用する。全ては抗争から東京都民を守るため、どんな火の粉も浴びる覚悟でいる。
 誓は藪が怖い。だが心から好きだった。ホストクラブのツケがたまり、たいして強くもないのに浴びるほど飲んでしょっちゅうゲロを吐くし、妙なところでムキになる子供っぽいところもあった。美人だが男勝り、華と男気が共存している。
 男が男に惚れて盃を交わすのがヤクザの世界なら、誓は藪の女マル暴刑事としてのあり方に惚れて、辞表を撤回したともいえる。
 結局は酔いつぶれてへべれけになった藪をタクシーに押し込み、誓は帰路についた。
 離婚してから、歌舞伎町の賃貸マンションに引っ越した。警視庁マル暴の一丁目一番地だ。歌舞伎町には大小合わせ様々な暴力団がひしめきあっている。身も心もどっぷりマル暴刑事として生きているいま、他のどの町よりも肌が合う。
 押し売りの黒人や呼び込みの黒服、外国人観光客にナンパされ心地よくなりながら、自宅マンションに到着する。一階ロビーの集合ポスト前で腰をかがめてなにかをチェックしている不審な男がいた。今仲だ。
「あんた、なにしとん」
 酔っていたこともあり関西弁が出た。今仲は慌てていたが、観念して両手を上げる。
「これから相棒になる人の住んどるところを下見しただけや。僕は土地勘がないし、なんかあったときすぐ駆けつけられるようにしといた方がええやろ」
 向島との仲を疑い、誓の周辺を探るつもりだったのだろう。まさか女がこんな深夜まで飲み歩いているとは思わなかったのか。予想以上にしつこいが、慌てているさまはかわいらしい。これはもう食ってしまうしかない。
「茶でも飲んでく」
 今仲は戸惑った様子ながら、共にエレベーターに乗った。箱の中は緊迫していた。
「お邪魔します」
 今仲は律儀に頭を下げる。足ぐらい洗うてくればよかった、とぶつくさ言っている。誓はキッチンから缶ビールを一つだした。
「つまみ、なんもないわ」
「ええで、すぐ帰るさかい。おかまいなく」
「ほな本当にかまわんからね」
 誓は流し目でジャケットを脱ぎ、シャワーを浴びに脱衣所に入った。敢えてスマホのロックを解除した状態でダイニングテーブルの上に放置してきた。
 シャワーを出しっぱなしにしながら、脱衣所の扉の隙間からダイニングを覗く。
 今仲は誓が出した缶ビールを傾けながら、しっかり誓のスマホをチェックしていた。
 誓は部屋着の間に隠し持ってきた二台目のスマホを取り出す。向島の番号はこちらに入っている。彼とやり取りするために購入した二台目だが、返信がきたことは一度もない。だが『既読済み』のマークはつく。読んでくれてはいるのだろう。
 朝昼晩、誓はメッセージを入れ続けている。全く返事をくれないので『おはよう』『いまランチ』『おやすみ』くらいしか最近は入れていなかった。
『お父さん、ただいま。今日は酔ってる』
 反応が欲しい。煽ってみる。
『お父さん、海竜を殺した?』
 既読済みのマークが出た。ダイニングにいる今仲の存在などどうでもよくなっていた。
『悲しくて府警の刑事と寝ちゃうかも』
 踏み込んだメッセージを入れたつもりだが、やはり返信はなかった。お父さんなのだから、自分の体を大切にしろとか、ふしだらな真似はするなとか、怒ってほしかった。
『お父さんなんか大嫌い』
 誓はスマホの電源を切り、シャワーを浴びた。部屋着に着替えて勢いよくバスルームを出る。今仲が慌てて誓のスマホを置いた。
「なにチェックしてたん」
「なにも見てへんよ」
「許さへんで」
 誓は今仲の傍らにピタリと立ち、彼を見下ろす。両頬をつねってねじりあげた。
「いたたたたッ」
 今仲は誓の手を外そうとしたが、そのまま両手は誓の体の線をなぞった。誓が拒否しないとみるや尻に手を伸ばす。キスをした。お姫様抱っこされてベッドに寝かされる。いい雰囲気なのに、今仲は誓の部屋着を脱がしながら笑いをこらえていた。
「なににやけとんの」
「だって誓ちゃん、やっぱ関西の女やな」
 ヒョウ柄のスウェットシャツを天に放りながら今仲はこらえきれず大笑いした。
「しかもピンクのスウェットパンツってなんやねん。東京の女はこんな格好せんやろ」
「あかんの。部屋着くらい派手なの着たいわ。毎日つまらん地味なスーツやで」
 誓は今仲のカリフラワー耳を甘噛みした。何がツボだったのか今仲は裏声で喘ぎひっくり返った。カリフラワー耳をしつこく舐め回し、そうっと彼のペニスに体を沈め、腰を上下に動かした。今仲は途端に体を硬直させて誓の腰の動きを止めようとした。
「あかん。ちょっと待って。ほんまちょっと待って」
 今度は誓が大笑いする番だった。今仲の手首をベッドに押さえつけて腰をくねらせたら、今仲は秒で射精してしまった。
「情けない。警視庁に秒で食われた」
 今仲は府警のプライドがどうのと言って、明け方に二度目を求めた。今度は一時間くらいかけてわりと真面目にセックスをした。今仲のまなざしは真剣だったし、丁寧にじっくりと体を揺すられると幸せな気持ちになった。彼はとてもいい男だが、正直、恋愛とか彼氏とか、どうでもいい。今仲も割り切っているのか、始発の時間を確認し「ほな」と誓の自宅を出た。その四時間後の午前八時には「おはようございます」と真面目な顔で暴力団対策課に入ってくる。誓と目を合わせても動揺する様子はない。手馴れていて可愛げがない。
 誓と向島の仲を疑う刑事は警視庁内にも多いが、今仲と寝たことを疑う刑事は誰一人いなかった。藪だけが唯一、女子トイレで化粧直しをしているときに茶化す。
「で、いつ食うの。大阪府警」
「とっくですよ、あんなの。耳が性感帯」
 藪は愉快そうに悲鳴を上げた。

 週末、今仲から夕食の誘いのメールが来ていたが、無視した。
 朝から赤マルを指に挟み、缶ビール片手に、本家と関東双方の吉竹組のチャートや過去資料をあさった。今仲には入らせなかったが、リビングルームの横に四畳半の部屋がある。部屋の中央には向島一家のチャートが貼ってある。向島の写真や情報が方々に書き込まれたボードを貼り散らかしていた。
 向島に女の影はないが、惚れられた男が本当に多い。よほどたくさんのヤクザに慕われ、片腕のない生活を支えてもらっていたに違いない。
 どうにも違和感のある画像がいくつかあった。向島には外出の時に二、三人のボディーガードや子分がつくが、向島とつかず離れずの距離を保つときもあれば、まるで押しくらまんじゅうのように距離を詰めて移動しているときもある。
 どうしてガードの仕方が日によって違うのだろう。なにか理由があるのか、おしくらまんじゅうの日の行動パターンを分析するべく、向島が立ち寄った場所や時間、購入したものなどを詳細に書き出していく。
 向島が移動に使っているのは国産ショーファーカーのセンチュリーだった。最近はヤクザも高齢化して足腰が悪い親分が多い。乗り降りに負担がかかる車高の低い高級外車やスポーツカーよりも、アル・ヴェルなどの高級ミニバンに乗っている者が多い。そんな中で向島は流行りのミニバンやSUVに行かず、御料車にもなっているセンチュリーセダンを愛用している。任侠道原理主義者を名乗る向島らしく、愛国心も見えた。
 この日、向島を乗せたセンチュリーは歌舞伎町の喫茶店に立ち寄ったあと、誰かと待ち合わせする様子もなく、もしくは待ちぼうけでもくらったのか、一時間ほどで喫茶店を出た。神楽坂に向かい、老舗の豚まんを買って、三時間ほどで曳舟に戻っていた。
 誓はその二週間前にあったおしくらまんじゅう警備の日の行動を見た。
「この日は帰りがけのコンビニで豚まんを買っている」
 更にその一週間前にあったおしくらまんじゅう警備の日は、わざわざ横浜の中華街に立ち寄って豚まんを買っていた。
 誓は二台目のスマホを出し、電源を入れた。府警と寝たとお父さんを煽ったのに、向島からは相変わらず返信がない。
『お父さんは豚まんが好き?』
 向島は関西育ちかもしれない。連続してメッセージを入れてみた。
『551とか』
 関西で豚まんといえば551蓬莱だ。育ての父の桜庭功もよく買ってきてくれた。誓は向島の趣味嗜好を記録した別の大学ノートを引っ張りだした。
 煙草は吸うが本数は少なめ、酒も付き合い程度だ。外食の記録を見ると、和食やそば、うどんが多い。つきあいでイタリアンやフレンチに行くこともあるようだが、中華料理は記録がない。油っこいものは苦手なのかもしれない。
 その向島が押しくらまんじゅう警備のときにだけ必ず豚まんを買う理由はなんだろう。
 メッセージに『既読』がついた。この向こうで「唐突になにを言い出すんだうちの娘は」と眉をひそめる向島の様子を想像する。
 もう一台のスマホに着信がある。佐々ささ岡雷神おからいじん という男からだった。通話に出ながら壁かけ時計を見る。もう十七時半だった。
「誓さん、着いた? 探してるんだけど」
「ごめん、バタバタしててまだ家なの」
 ノーメイクだが急いで洗面台に立ち、下地を塗りながら言い訳する。
「僕は三試合目だからね。すっぴんでいいよ。その方が頑張れちゃうから」
 雷神の好みは無視し、誓は濃いめにメイクをして、胸元が大きくあいたトップスにスリムジーンズを穿く。いつもは後ろにひとつで束ねている髪をおろし、JR新宿駅から総武線に乗って水道橋駅で降りた。
 一月最初の週末、東京ドームではアイドルのコンサートをやっていたようだ。観覧帰りの客でごった返す中、誓は隣接する後楽園ホールに入った。すでに一試合目が始まっている。中から歓声が聞こえてきた。VIP用の関係者席に座る。選手が出場してくる花道をのぞきこんだ。関係者たちがうろついている中、金髪坊主の佐々岡雷神がウォーミングアップしていた。
 誓は去年の秋からボクシングジムに通っている。雷神とはそのジムで知り合った。彼はフライ級の選手で、国内ランキングで十二位と無名の選手だ。
 まだ二十三歳で伸びしろは十分かと思っていたが、雷神は今日の試合が背水の陣と思っているようだ。まずランキングをあげないと、国内タイトルマッチにすらチャレンジはできない。
 二試合目のミニマム級の試合は10ラウンドまでもつれ込み、判定の結果が微妙だったことから強烈なブーイングが巻き起こった。
 会場が騒然としたまま、三試合目が始まった。雷神が東の花道から登場する。テーマ曲はひと昔前に流行ったファンキー・モンキー・ベイビーズだった。
 雷神は結婚と離婚を繰り返す母親に連れ回されながら育った。気弱で人に強く言えないところがあり、雷神なんて変な名前をつけられ、転校を繰り返していた上、いじめられた。母親が雷神を置き去りにして恋人と旅行に行ってしまった日などはこども食堂に入り浸り、そのうちに店主に下町のボクシングジムを紹介された。孤独な少年は感情のままにサンドバッグを殴り続け、めきめきと上達し、いまリングに立っている。
 試合のゴングが鳴った。雷神は直近の五試合で一勝四敗と負け越している。今日は勝たないとランキングから陥落してタイトルどころではなくなる。誓は応援したが、1ラウンドで右フックをもろに浴び、3ラウンドで足がもつれ、5ラウンドで連打を浴びる。いいところがないまま、最終ラウンドに入った。
 10ラウンドで一発KOでも取らないと判定負けする状況のなか、雷神はまたも連打を浴びて棒立ちになった。セコンドがタオルを投げ、雷神はTKO負けした。
 
 誓はVIPカードを警備員に見せ、関係者通路に入った。雷神の控室をノックした。
 蚊の鳴くような声で返事があった。控室の中で、弱小の彼に付き添うセコンドはいないようだ。彼は一人きり、グローブをつけたままでボケッと座っていた。これでは水を飲むことも血を拭うこともできないだろう。
「ごめん誓さん。負けちゃった」
「いいのよ。大丈夫?」
 誓は隣に座り、グローブを外してバンテージを切ってやった。両方の拳とも細かく震えている。
「すっげーパンチの重い奴だった」
「10ラウンドまでよく粘ったよ。すごい勇気」
 震えが止まらない雷神のこぶしを両手で優しく包み込み、祈るように額につけた。雷神の震えは止まったが、今度は両目から涙があふれてきた。引退を口にする。
「だめよ。雷神はまだできる」
 誓は拳を強く両手で握った。
「勝ってベルトを掲げているところを見せて」
「無理だよ。このレベルじゃ」
「自分で限界作ってどうするの」
 話している間もダメージでみるみる雷神の顔面が膨れ上がっていく。元はかわいげのある甘い顔つきをしている。デビューした四年前は女性ファンがついたようだが、成績が伸びないので、熱心なファンは下心がある誓だけになった。誓は冷蔵庫から氷嚢を取った。
「体は痛いところある?」
「ない。あいつボディは下手なんだ。顔だけ痛い」
 誓は投げ出したように椅子に座る雷神の太ももの上に、馬乗りになった。雷神が少し身を起こした。目に嬉しそうな光が宿ったが、顔が腫れているので笑顔は引きつっている。
「誰か来るかしら」
「来ないよ」
 血のにじんだ唇に優しくキスをする。雷神が舌を絡ませようとしてきたが、「痛むでしょ」と顎に手を添えて止めた。氷嚢を目元に押しあてて、冷やしてやる。
「ああ、気持ちいい」
 風船から空気が抜けていくように、雷神はしぼんでいった。だが、誓の腰を抱く手には力がこもっていく。
「余力が残っているじゃない」
「あれと同じ。デザートは別腹、だっけ」
「その力を使わないから勝てないの。才能あるのに」
「そんなこと言うの、誓さんだけだよ」
 誓は氷嚢で雷神を目隠ししたまま、その耳元に囁いた。
「勝って。勝たないと」
 この先はない、とまでは言わない。誓の下腹部の下で、雷神の陰茎が固くなっていくのがわかる。寸止めの関係を始めてもう四か月が経っていた。今仲とはあっさり寝たが、それは今仲が誓の好みの男だからだ。
 誓は年下の男が苦手だった。純情で不器用なタイプには吐き気すらする。
 雷神が誓の胸の谷間に顔を沈める。年上の女の中に入って思い切り甘えたいだろう。母親に甘えられなかっただろうから、雷神が誓に夢中になるのになんのテクニックも必要なかった。
「おっぱいさわりたい?」
「うん」
「なら、なにか教えてよ」
 雷神が上目遣いに誓をにらんだが、口元は卑猥に笑っていた。彼は、誓がマル暴刑事であること、向島一家の情報を得るために雷神に近づいたことを、もう知っている。全てを暴露したときには誓から逃れられないくらいにのめり込んでいた。
山城やましろさんは今日会場に来てなかったわね」
「俺みたいな下っ端の試合は来ないよ。あの人は偉大だから」
 山城拳一けんいちは昭和に一斉を風靡した有名プロボクサーだ。WBA世界フライ級チャンピオンで、引退後はタレントとして活躍した。だが博打打ちでヤクザに借金があることを週刊誌に暴露され芸能界を追放された。
 彼が入り浸っていたのが向島一家の初代が開いていた賭博場だった。山城は初代向島の援助で曳舟にボクシングジムを開き、盃を交わして正式に向島一家の構成員になった。弟子のひとりが世界チャンピオンになり、曳舟ボクシングジムは入会者が殺到して興隆を極めた。山城はジムのオーナー兼有力選手のセコンドとしても名を馳せたが、暴力団排除条例の施行に伴い、自分が立ち上げたジムから追い出されてしまった。
 オーナーではなくなったとはいえ、山城の影響力は曳舟ボクシングジムに残っている。ふらりとジムを訪れては若手の指導をしていた。山城と面識があり、手っ取り早く落とせそうだったのが、佐々岡雷神だった。
「山城さんはこないだ珍しくジムに来てた」
「えっ。本当。もっと詳しく教えて」
 誓は雷神の大きな手を服の下に導いた。乳房を撫でまわす雷神の手は熱っぽい。
「警察の監視が厳しくなって、愚痴をこぼす場所すらないって電話でぼやいてた。代替わりしそうだとも話していたよ」
 二代目から三代目に総長が代わるということか。
「向島春刀は引退するの」
「らしいよ。理由はわからない」
 抗争の最中に引退なんてありえるか。向島らしくない。無責任にすら見える。
「他にはなにかなかった?」
 顔中にキスをしてやりながら、誓は情報をねだった。
「若頭の千住さんが三代目を襲名するしかないけど、あいつはその器じゃないとか、ついてけねぇとか。山城さんのぼやきは止まらなかったよ」
 誓は心から雷神に感謝する。
「ありがとう。そろそろ行くわ」
 強く腰を引かれて阻止されたが、抵抗するとあっさり雷神は手を離した。
「ひどいよ、情報を吸うだけ吸い取って」
「挿れたいなら勝ちなさい」
 誓は居丈高に言ったが、雷神は目が喜んでいる。ドMなのだ。
「次は絶対に勝つ」
 ついさっきまで引退がどうのと弱音を吐いていたのに、立ち直りが早い。

 明け方、スマホの着信で目が覚めた。誓は身を乗り出し、ベッドサイドに置いたスマホを取った。電話は藪からだった。
 時刻は四時二分。まだ外は暗い。暖房を切った部屋の中は凍えるように寒かった。
「六本木の交差点で人体の一部と思しきものが見つかった」
 外苑東通りと六本木通りが交わる六本木交差点だ。地下鉄六本木駅の真上でもあり、頭上には首都高速が走る。交差点のすぐ脇に麻布警察署の交番もある。
「交番の目の前で死体の部分遺棄があったということですか」
「来ればわかる」
 誓は急いで着替え出動した。日曜日の早朝に差し掛かった歌舞伎町は、夜通し飲み歩いた人たちが路上にしゃがみこんでいる。外国人グループがコンビニの総菜を食い散らかし、放尿している。靖国通りでタクシーを拾い、六本木の交差点の手前で降車する。周辺はパトカーの車列の他、救急車が一台、消防車が二台来ていた。昼間は交通量の多い五差路だが、明け方だからやじ馬は少ないし交通量もなかった。
 交差点の北東側、交番の目と鼻の先に、銅像がある。その前に組織犯罪対策部の腕章をつけた藪や乗鞍が集結し、台座の上の銅像を見上げていた。鑑識係がしきりに写真を撮っている。
「ご苦労さん」
 今仲が声をかけてきた。
「遺体の一部って、どこですか」
 今仲は顎で銅像を指した。頭部になにかが貼りつけられている。
「あれはなんですか」
 干からびたそれは穴がいくつかあいたぼろ雑巾のようだ。毛が生えている。二つの丸い穴の上に眉毛のような毛が生え、下の大きな穴の周りにも短い毛が生えていた。あれは口ひげか。ゴムのお面のように見えた。
「人の顔面のようだ」
 藪が誓に言う。
「眉毛の部分、金色にカラーリングされているでしょう」
 髪の色に合わせて、眉毛も金色にカラーリングした無精ひげの男の顔面か。
「海竜将ですね」
 関東吉竹組系八王子双竜会の若頭補佐だ。
 誓は東側を振り返る。路地を入った先に、関東吉竹組の事務所がある。
 これは本家吉竹組の宣戦布告だった。

 

(つづく)