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第六章 自白(承前)

 

 調書を仕上げるため残業した。二十二時ごろには腹が減り、誓はカロリーメイトをかじった。藪は出前のラーメンをすすっている。いつ何を食べても太らない体質はうらやましい。

「明日にも落ちそうじゃないですか、大野」

「傷心はしているだろうがね」

 休憩スペースで仮眠を取っていた乗鞍が、肌着の上にワイシャツを着ながら戻ってきた。

「くそ、またひと騒動だ。町田署から緊急の一報が入った。稲峰が女と出奔した」

「はあ?」

 向島一家からの報復を受ける可能性があるため、稲峰は町田市の邸宅に軟禁状態が続いていた。町田署の警備がついていたし、外出するときも追尾をしていたはずだ。

「抗争指定から半年近い。町田署も気が緩んできているんだろう。なじみの飲み屋に行くことを許可するのはいいとして、店の裏口から警察の目をかいくぐって逃げたことに、二時間も気が付かなかった」

「稲峰本人が向島一家の誰かを襲撃するため地下に潜ったのでしょうか」

 誓は焦ったが、藪には緊張感がなかった。

「町田双蛇会はそもそも小所帯の穏健派だ。蛇沼は海竜と舎弟関係にあったから暴走しただけだろうし、いまや特定抗争指定がついて、町田双蛇会は銃器を手に入れることすら難しい。丸腰で超武闘派の向島一家にカチコミする度胸なんか、稲峰にはない」

 乗鞍も同意した。

「そもそも、最近は向島一家の内紛がひどくなる一方だった。勝手に壊れていく組織に、稲峰が警察の目をかいくぐってまで報復に出ようと思うか。やつは自宅の庭に銃弾を四発撃ち込まれただけだ」

「それじゃ稲峰はどこへ行ったんでしょう」

「お気に入りの女と近所のラブホテルにしけこんでるだけだろ。朝になれば出てくる」

 乗鞍が町田署から届いたファックスを誓のデスクに投げる。稲峰が消えたのは町田市の繁華街にある韓国パブだった。彼がいつも指名していたジョアンというホステスと一緒にいなくなった。

「稲峰はタイ人女性が大好物なんだとさ。タイへ豪遊しに行ったときに遊んだノーハンドレストランが忘れられないらしい」

 豪華な料理を女性が客にあーんと食べさせて性的なサービスをする風俗店で、客は一切手を使うことなく、酒池肉林の乱交パーティを楽しめるらしい。

「韓国パブなのにタイ人のホステスがいるんですか」

 誓はなにかが引っかかった。

「別に珍しくもない。ママが韓国系ってだけで、雇ってる女の子が多国籍っていうパブは結構ある」

「けれど稲峰と消えたんですよ。そのジョアンってホステス、調べなくて大丈夫ですか」

「町田署がやってるだろ。あいつは山中に別荘を持っているから、そこらへんにシケこんでいるんじゃないか。こっちはもうすぐ大野を落とせそうなんだ。集中しろ」

 藪に背中を叩かれた。

 

 翌朝、大野は体調不良を訴え、聴取は中止になった。誓は山田巡査と共に大野を中野区にある警察病院へ連れて行った。移送のパトカーの中でも大野はずっと腹をさすっている。昨夜から食事が喉を通らず、腹痛が収まらないらしかった。下痢や嘔吐の症状はなく、発熱もしていない。

 医師が念のため、エコーでの検査もしたが、異常はなかった。

「心因的なものでしょう」

 大野は痛み止めをもらい、その場で服用した。少し落ち着いた様子だ。

 帰りのパトカーの中で、誓は確認する。

「今日はどうしますか。一日、休みますか」

「うん、ええと、検事さんのところは行かなくていいのか」

 大野は落ち着きがなかった。

「薬物売買についての検事の取り調べはもう終わりましたよ。いまは第一回公判待ちです」

「ああ、そうだったね」

 大野の口調はやわらかいが、緊迫した様子は続いている。

「桜庭さん。戻ったら、聴取していいよ」

「わかりました。昼食のあとにしましょうか」

「いや、すぐやって。なにか食べて腹が痛くなったらいやだし」

「大丈夫ですか」

「大丈夫。あのさ、藪さんも呼んでよ」

 誓はハッとした。

「わかりました」

 大野は今日、自白するつもりだ。

 

 駒込署に戻り聴取の準備が整ったときには、もう十一時を過ぎていた。昼食は十二時からと決まっている。藪と誓は早足で取調室に向かった。

「誓さんッ」

 捜査本部から大声で呼ばれる。丸田が贅肉を震わせて走ってきた。

「先日頼まれた、マニラのブローカーの件です」

 雷神にガルシアとのドリームマッチを大金でふっかけてきたヤマガタのことだ。

「なにかわかったんですか」

「それが長い話です」

 藪に腕を引かれた。

「後だ。大野の気が変わったらまずい。急げ」

 藪に押され、誓は取調室に入った。大野はすでに座っている。背中を丸めて動かない。緊張からか指先が細かく震えていた。丸田はなおも騒いでいる。自白の覚悟を決めた大野の気持ちを乱したくない。誓は扉をきっちり閉めた。書記席に座る。藪は大野の正面に腰を下ろした。

「腹痛はおさまったの」

「え、ええ。薬が効いてる。ちょ、ちょっと楽になった」

 こんなにどもっている大野を初めて見た。

「私になにか言いたいことがあるとか」

 藪が切り出した。誓はパソコンを開いたが、パチパチという耳触りな音で、大野の心をかき乱したくなかった。

「うん……」

 大野は生唾を飲み込んだ。言うか、と思ったところで、もう一度、飲み込む。唾を飲み込む些細な音すらも誓の耳に届くほど、取調室内は静まり返っていた。

「俺が、忠虎を、殺しました」

 とうとう完落ちした。誓は達成感よりも、人殺しになってしまった大野の人生を思い、悲しくなった。藪も目が真っ赤になっていた。

「わかった。話してくれてありがとう」

 大野は涙をぬぐい、何度も頷いた。

「昼食まであと四十分しかないが、時系列順で、できるところまで聞かせてくれるか」

「はい」

「まず、忠虎を殺そうと思ったきっかけはなんだ」

「山城さんが」

 そこではたと大野は顔色を変えた。なにか思い出した様子だ。

「そうだ。その前に、言わなきゃいけないことがある。アニキは第二、第三の矢を準備してた」

 稲峰を襲撃する矢ということか。

「第一は忠虎。第二はあんただね」

 藪が確認した。

「第三って誰だ。向島一家の若い衆か」

「そいつらはいま動けない。特定抗争指定でマッポがついている」

「確かにそうだ」

「考えてみてくださいよ。忠虎も俺も、向島一家の人間じゃない」

「マッポの監視がついていない関係者が第三の矢ってことか」

「名前は忘れたけど、曳舟ボクシングジムのボクサーだ」

 誓は手を止めた。

「神様みたいな変な名前の若い子だよ。腕っぷしは強いんだろうけど、真面目な子だからヤクザへのカチコミなんて絶対しないはずだって俺は言ったんだけど、アニキは秘策がある様子だった。金で釣られるようにうまく追い込むから、とにかく俺には忠虎を口封じしろと命令したんだ」

 誓は聴取室を飛び出した。丸田が廊下で右往左往している。

「誓さん。マニラのブローカーの件、急いだほうがいいです」

「いますぐ教えて」

山形やまがた甲子男きねお、六十八歳。四代目豊原体制だったころの吉竹組の組員でした」

 誓は頭をかきむしる。まさか自分の情報提供者が抗争のど真ん中に放り込まれていたとは、思いもよらなかった。

「山形は平成十二年に秋田県を根城にしていた男鹿おがしんかいの三代目会長を殺害した疑いで指名手配され、海外逃亡したきりです。現在は東南アジアを転々としながら、人身売買の斡旋をしているようです」

「山城一派と繋がりは」

「確認中ですが、この案件、ものすごく興味深いんです。山形甲子男を殺人容疑で指名手配したのが大阪府警、担当刑事は桜庭功となっています」

 誓は背筋が粟立った。今度は父の名前が出てきた。なにがどうなっているのか。

「どうして秋田県内の事件を大阪府警の父が手配したの」

「決死十四人衆だったんでしょう」

 その名前を聞き、カッと体が熱くなる。

「桜庭元警視は決死十四人衆を追っていたんですよね」

 山形は決死十四人衆のひとりだった。向島春刀とは舎弟関係にあったはずだ。

「向島の子分の山城と面識があってもおかしくはないわね」

 山城が第三の矢として目をつけたのが、ボクサーとして崖っぷちに立たされた雷神だった。次の試合相手が決まらず、引退危機にあった彼に、大きな興行を持ちかけて目をくらませた。早急に大金が必要になるようにマニラ在住の山形を使って仕向け、興行の金を吊り上げて雷神を追い詰め、金の支払いのリミットの直前に甘い言葉をかけたのではないか。

“一晩で大金を稼げる仕事がある”

 あきらめないと断言した雷神の言葉の裏には、稲峰を襲撃するという決意があったか。

 藪が厳しい表情で取調室から出てきた。

「すぐ山中湖に飛ぶよ。稲峰が女と出奔したのも裏があった。山城が手引きし、大野が協力している」

「町田ではなくて山中湖ですか」

「稲峰を誘い込んだ別荘に手榴弾を投げて爆殺させる計画だそうだ」

 

 誓は雷神に電話をかけ続けたが、繋がらない。メッセージも既読がつかなかった。

 乗鞍が山中湖へ向かう捜査員をそろえ、拳銃帯同許可を出した。誓はジャケットの下に防弾ベストを着用したが、支給されているシグザウエルP230を前に躊躇した。

「最後に射撃練習したのいつだっけな」

 隣では藪がぼやきながらも、迷いのない手つきでホルスターにシグザウエルを押し込んだ。相手は暴力団員ではないが、現役の格闘技選手だ。藪も乗鞍も目が血走っている。

 アップダウンとカーブを繰り返す中央道下り線を、サイレンを鳴らし、時速百二十キロで走行する。山中湖インターチェンジで降りた。湖畔沿いの国道を通過する。観光客たちは警視庁の車列に圧倒されていた。

 照会センターから助手席の藪に電話がかかってきた。稲峰のお気に入りだったジョアンという自称タイ人は、日本人だった。本名は村明むらあき、薬物の前科があった。

「大野の客だったようだ」

「警察の目が届かない場所へ稲村をおびき出し襲撃するため、稲峰好みの女性を送り込んで山中湖へ誘いだしたんですね。それが、大野が薬物で手なずけた木村明奈だった」

 国道を逸れて急坂を上がった。別荘管理地のゲートにぶつかる。ゲート脇の管理棟にはすでに山梨県警の警察官が集結していた。藪が別荘の図面を手に入れてくる。

「稲峰の別荘は築四十五年の二階建てコテージだ。隣接する建物は民泊利用されている。昨夜から都内の大学テニスサークル十八人が宿泊しているそうだ」

 手榴弾は拳銃以上に広範囲に被害が及ぶ。

「急ぎましょう」

 誓は藪が助手席のドアを閉めきらないうちからアクセルを踏み、ゲートを抜けた。鬱蒼とした狭隘のカーブ道をひた登る。やがて視界が開けて山中湖が見おろせる高台に到着した。規制線の前に捜査車両や機動隊車両が停車している。犬を連れた住人が心配そうに規制線の向こうを見ている。警察官に避難誘導された老夫婦が規制線の外に出てきた。

 稲峰の二階建ての別荘は丸太のコテージだった。防弾ヘルメットや大盾で武装した山梨県警の機動隊員が取り囲んでいる。特殊捜査係が稲峰の別荘の玄関扉を破壊した。

「山梨県警だ!」

 大盾を突き出した機動隊に続き、拳銃を構えた特殊捜査係の刑事たちが突入する。三番手で誓と藪も室内に侵入した。

 リビングに機動隊員らがなだれ込む中、藪と誓は二階へ続く階段を上がった。二つある扉のうち、階段手前の部屋を藪がけ破った。

「警視庁!」

 稲峰は全裸でキングサイズのベッドにいた。大きく突き出ただらしない腹を揺らし、のろのろとトランクスを穿く。

「なんだよ大袈裟な。ちょっと気晴らしに来ただけなのに」

「ジョアンっていうホステスは」

「夕飯の買い出しに行ったよ」

 遅いな、と稲峰は掛け時計を見上げた。

「あんた、ジョアンに嵌められてる。手榴弾を持った刺客が別荘で待ち構えていたはずだ」

「ええっ」

 稲峰は震えあがり、パンツ一丁のまま階段をかけ下りていった。丸田と山田が稲峰を保護し、警視庁の捜査車両に押し込む。誓は藪と隣の部屋にも突入したが、雷神はいなかった。

 一階に下りる。リビングでは乗鞍が暖炉に身を乗り出し、煙突を見上げている。仕立てのいいスーツが煤だらけになっていた。屋根の上に登った刑事とともに煙突の中を確認しているようだ。

「煙突から手榴弾を投げ入れるかと考えたが、ここも空振りだ」

 浴室を確認してきた藪も肩をすくめる。

「いないね。まだ東京で、山城と策を練っているのかもしれないよ」

「早まったか。この騒ぎが報道されたら山城も佐々岡も地下に潜るぞ」

 誓は掃き出し窓を開けて、広いウッドデッキに出た。進むたびに床板のきしむ音がする。ウッドデッキは全体的に黒ずんでいて、あちこちに穴が空いていた。誓は雷神のスマホを鳴らしたが、留守番電話に転送されてしまう。

「雷神。どこにいるの。ものすごく心配しているよ。お願いだから連絡ちょうだい」

 かすかにすすり泣きが聞こえてきた。雷神が鼻をすする音と似ている。

「雷神、どこにいるの!」

 コツ、となにかが触れたような音を足元に感じる。誓はその場に這いつくばり、ウッドデッキの隙間から下をのぞいた。ウッドデッキは急斜面に突き立てられた太い柱に支えられている。下の空間には乾燥した薪が積み上げられていた。

「誓、ウッドデッキには出ないほうがいい。床面が腐っているそうだ」

 窓辺に立つ藪が言った。その足先のウッドデッキの隙間から、芋虫のようなものが三本、突き出ていた。誓は四つん這いになってそれを握った。テーピングが巻かれた、雷神の指だった。積みあがった薪の後ろに隠れていたのだ。

 誓は藪を見上げ、目と手で、ウッドデッキの下に雷神がいることを示した。他の刑事たちも気が付き、ウッドデッキの下に回ろうとしたが、誓は雷神の手を握ったまま、身振り手振りで、行かないように訴えた。

「大丈夫、うちのが説得できます」

 藪がいきりたつ男たちに、代弁してくれた。

「雷神」

 姿は見えないが、誓はウッドデッキの隙間から、呼びかけた。雷神は腐ったウッドデッキの割れ目を広げるように拳を突き上げ、テーピングの巻かれた右の拳を床上にあらわにし、誓の手にすがる。なぜテーピングしているのか。ここへ来るギリギリの時間まで、雷神が迷っていたことがわかる。

 ガルシアとの試合のために手榴弾を投げるか。人を殺すことをあきらめて、再び先の見えない練習とバイトだけの日々に戻るか。

 洟をすすっていた雷神から嗚咽が聞こえる。

「雷神、これから警察がそこへ降りていくけど、私の手を離さないでね」

 しゃくりあげながら「わかった」と約束する声がした。

「手榴弾を山城から渡されたでしょう。いま持っている?」

「手元の紙袋に入ってる。二十個」

「これからそっちに行く警察官に渡してくれる?」

 パニックを起こさせぬよう、言い聞かせる。

「私の手を離さないで。絶対に」

 雷神の握力がますます強くなる。誓も負けじと握り返した。誓の指先は血の気を失って黄色くなっていた。

「えらいよ、雷神。殺さなかった。ここまで来たのに、思いとどまった」

 誓は泣きじゃくる雷神に言い聞かせる。

「ものすごく強くなったね、雷神」

 誓は雷神の嗚咽を聞きながら、藪に、逮捕のゴーサインを出した。

 

 

(つづく)