第三章 和解(承前)
新大阪駅で府警の刑事たちに説得され、矢島の一行は一旦、東京行きをあきらめたようだ。だが上京の意思は固いようで、新大阪駅のホテルで警視庁の許可を待つと応えた。夜には三組に分かれて別々のホテルを取った。
矢島の双子の目的は本当に手打ちなのか。マル暴刑事たちの見解は真っ二つに分かれていた。ここまで大きな抗争になるとトップ会談が行われることは珍しくない。それぞれの親分が抗争終結宣言を出さないと、下は報復を止めないからだ。双子がひと肌脱ぐことにしたのではないかと甘い見通しをしているマル暴刑事もいる中で、誓は反対意見を訴えた。
「この抗争は双子がけしかけて始まったものです。当人たちは東京が血の海になるのを楽しんで見ているはず。これで手打ちにするなんて絶対にありえない。上京には別の目的がある。来させてはいけません」
下っ端マル暴刑事の意見は通らなかった。
「ここで双子と泉が手打ちとなれば、分裂した組織が再合流に向けて動き出すかもしれない。その大事なきっかけを警察組織が潰していいとは思えない」
乗鞍の意見だ。
「矢島の双子はそんな甘ったるい連中じゃありません。東京に来て一体なにをしでかすか。それこそ、泉と相対した途端に射殺しかねませんよ」
「手打ちの場の警備と身体検査を万全にすればいいだけだろう」
乗鞍は強い口調で誓と藪を責める。
「だいたい、現場のお前たちが抗争を止められずにいる現状を重く受け止めろ。襲名披露の場での銃乱射事件は防げたはずだ。これ以上、首都の治安が悪くなるのは本望ではないと双子は話していたそうだぞ」
誓も藪も、ぐうの音も出なかった。乗鞍は一同に言う。
「大阪府警と連携し、手打ちの場を警視庁管内に設けることにした。まずは上京するまでの警備計画を立て、人員配置の目途がついたら矢島の双子を上京させる」
乗鞍が藪と誓を見た。
「お前らは泉のところへ行って、手打ちの場に来るように説得しろ。必ず、だ」
泉に電話で自宅訪問の約束を取り付けようとしたが、断られた。犬が藪や誓に吠えるからというバカげた理由だった。手打ちの話を持ちかけるとあっさり受け入れた。
「東京に双子が来るんですね。場所は警視庁で斡旋してください。我々ヤクザに会場を貸してくれるところはありませんから。金はうちが持ちましょう」
「希望する日時や場所はありますか」
「全くありません。どうぞご自由に」
泉は最初から最後まで悠然とした口調で、双子の上京にも驚いた様子はない。
現在、移動や手打ちの場の警備を担当できる機動隊は、特定抗争指定がいくつもの暴力団に出ているせいで手が一杯だ。都内での移動を極力少なくするため、乗鞍は駅と直結しているグランドホテル品川の小規模ホール『たちばな』を手打ちの会場に選び、支配人になんとか話を通した。週末は小規模な披露宴、平日は政治家の支持者向け懇談会などで使用される小ホールだ。
警備計画を二日で整え、大阪府警に上京のゴーサインを出した。最も新幹線区間が長い静岡県警の警備計画が遅れたので更に一日、矢島の双子を足止めさせた。
二月末日、いよいよ矢島の双子が上京することになった。
今仲と藪は前日のうちに新大阪へ飛び、新幹線内の道中、矢島の双子に目を光らせる。誓は泉の送迎担当だ。
この手打ちは極秘に進められ、マスコミにも一切、公表していない。ヤクザ系実話雑誌の記者が感づいたが、事情を話し、手打ちが終わるまでは絶対に報道しないように釘をさした。
双子が上京するとなれば、東京にいる関東吉竹組系の暴力団を大いに刺激する。町田双蛇会より武功をあげようと、本家の双子になにを仕掛けてくるかわからない。
手打ちが行われる朝、誓は渋谷区のタワーマンションのロビーで泉の移動開始時刻が来るのを待っていた。無線では、双子が新大阪駅から新幹線に乗ったと報告が来ている。
赤ん坊を抱っこした若い母親がロビーに出てきた。物々しい警備を見て、不安げに近づいてくる。
「なにか事件ですか」
「ご迷惑をおかけしておりますが、事件ではありませんので、ご安心ください」
「一体なにがあったんですか」
母親はしつこくて勝気だった。無線が入る。本部の連絡係、丸田だ。
「一〇〇四、のぞみ216号名古屋駅現着。特異動向なし」
あと二駅で到着する。東海道新幹線のぞみは名古屋から新横浜までが長い。一時間二十分かかる。新横浜から品川まではたったの十分だ。
なにがあったのか知りたがる母親と、誓が思い描く実母像が重なった。彼女もこんなふうに誓を守っていたのだろうか。なにがあって大阪府警のマル暴刑事へ養子に出してしまったのだろう。目の前の赤ちゃんはママの顔をじーっと見上げている。
養子に出されず、ヤクザを愛した母と向島春刀という父の間で育てられていたら、自分の人生はどうなっていただろう。
母親はあきらめて赤ん坊のお尻をぽんぽんと叩きながら、立ち去った。藪からメールが届く。
『双子、駅弁なう』
新幹線の中は緊張感がないのだろうか。和服姿の双子が仲良く神戸牛の弁当を食べていた。普通指定席を取っているようだ。八号車まるまる一両、双子が座席を買い取った。逃げ場のない新幹線の中で万全を期すため、席を買い占めたようだ。
本来このようなシートの買い占めをJRは容認しないが、今回は他の乗客の安全を考慮したのだろう。
がらんどうの八号車は双子の他に、藪と今仲、府警のマル暴刑事五人が同乗しているらしい。
『なんで警視庁からはあんたが来るんやとがっかりされた。誓ちゃんがよかったみたい』
藪があきれた顔の絵文字を添えて、メールを送ってきた。藪のメールは絵文字が多い。
『私になにか言いたいことがあるならどうぞ、と伝えてください』
藪から返信は来なかった。
丸田から無線が入る。
『のぞみ216号、熱海駅通過』
誓は立ち上がった。あと三十分で新横浜駅に到着する。エレベーターに乗った。乗鞍が先に泉の自宅に入っていた。泉は若頭の本多義之と茶を飲んでいる。警視庁からは幹部の代表として、乗鞍が泉の移動に付き添う。通常、幹部は現場に出ないが、肩書ある警察官がヤクザの親分に張り付いていると、面目を保てるので、下に無茶をさせない。肩書は抑止力にもなるのだ。
玄関扉は開け放たれ、マル暴刑事や関東吉竹組の幹部が忙しく行き来していた。誓が入ってきたのを見て、泉の膝の上にいたチワワが激しく誓に吠えたてた。
「泉さん、そろそろ出発です」
「着替えてくるか」
隣の和室に移動する。子分らが着替えを手伝った。泉の指先は緊張からかかすかにふるえていた。
誓は乗鞍に耳打ちする。
「様子はどうでした」
「犬の話ばかりしていた。本多の愛犬がヒート中で部屋中血まみれだとか、なんとか」
雌犬の生理の話らしい。くだらない、と乗鞍が小声で吐き捨てる。
乗鞍は着替えの様子を間近でチェックした。念のため、全身を軽く叩いた。誓は本多に雑談を振った。
「本多さんはどんな犬を飼っているんですか」
「あんたに教える筋も道理もない」
必要以上に誓を警戒している。二十代の女性刑事を鼻であしらえないほど、本多も余裕がないのだろうか。
泉の準備が整った。誓は駐車場に控えている追跡部隊に一報を入れた。
「出発準備完了。のぞみの新横浜到着の連絡が入り次第、駐車場に降りる」
十一時二十六分、定刻通りに新幹線が新横浜駅に到着したと一報が入った。
「では参りましょう」
泉は無言でうなずき、乗鞍のすぐ後ろを歩いて自宅を出た。チワワを抱いた三番目の娘が心配そうに見送る。
「お父さん、何時に帰るの」
「早いと思うよ。心配しないで、勉強していなさい」
三女はまだ高校生だ。長女はヤクザの父親を嫌っていて、結婚してからは没交渉だ。音大に進んだ次女はウィーンへ音楽留学し、ヤクザの父親がシノギで得た金で贅沢を謳歌している。
「一一三〇、マルタイ、エレベーター搭乗」
追跡部隊に無線で告げる。
「いちいち報告、うるさいねぇ」
泉が嫌味を言った。
「一般道に出たらもっと頻繁にやり取りします。お宅のロールスロイスが角を曲がるたびに報告するんですよ。要人警備のときと同じ要領です」
「僕ってそんなに偉かったのか」
泉は肩を揺らして笑ったが、目は血走っている。
エレベーターが一階に到着した。第三機動隊が花道を作っていた。警察に守られながらエントランスを出るのはヤクザにとっては情けないことだろう。警備くらい自前でやると当初は訴えていたが、特定抗争指定が出ているから、五人以上で集まることができない。車両内はともかく、徒歩で移動中にたったの三人のザル警備では危険なので、警察の警備で我慢してもらうしかない。
エントランスに真っ白なロールスロイスファントムがつけている。泉の運転手が恭しく後部座席の扉を開けた。本多が先に乗り込み、泉が続く。もう一人のボディガードが泉をはさんで座った。覆面パトカーがファントムの前で待機している。誓は乗鞍と覆面パトカーに乗り込み、ファントムを先導する。
「一一三五、マルタイ、自宅出発」
誓は、グランドホテル品川の地下駐車場の警備部隊に無線を入れた。交通量の多い通りに出たが、一般車両はファントムと距離を置いて走っている。ヤクザが乗っているとはわからないはずだが、鏡面磨きされて光り輝くボディは見るからに最高級車だ。万が一のことがあったら大変なので、運転手が無意識に避けているのだろう。
助手席の刑事がナビを見る。
「首都高がたったいま、事故渋滞し始めたようですね。下道から行きましょう」
誓はルート変更を本部の丸田に連絡した。
「本部了解、各所轄署に通達を入れます」
乗鞍がファントムの運転手と泉にもルート変更を指示した。
「別に遅れたってかまやしないでしょう。双子を待たせておけばいい」
スピーカーモードにしたスマホから泉のふてぶてしい声が聞こえてくる。
「下道を管轄する所轄署や交番も、泉組長の通行時の安全を確保するために動いているんです。時間厳守でお願いします」
乗鞍が恩を着せる。
「方々に警察官の姿が見えるでしょう。警視庁側の大警備を実感してください。要人なみの警備実施をし、本家と関東が和解する場を設けました。これは全て、都民の血税でまかなわれています」
泉は返事をしない。乗鞍が電話越しに迫った。
「男を見せていただきたい。ここはひとつ、双子に詫びて抗争を終結してもらえませんか」
「電波が悪くてよく聞こえない」
通話は切れてしまった。
目黒川を渡り、JR五反田駅が見えてきたころ、丸田から一報が入る。
「東海道線のぞみ216号、品川駅現着」
乗鞍が腕時計を見た。
「定刻だな」
双子は新幹線を降りて、駅直結のホテルに向かっているそうだ。名古屋から同乗し警備していた静岡県警や神奈川県警はほっとしているだろうが、警視庁はこれからだ。
渋滞に巻き込まれることなく、正午前にグランドホテル品川の地下駐車場に到着した。こちらにも機動隊の警備が入っていて、物々しい。ファントムが到着するや機動隊が取り囲む。降りてきた泉に本多らがぴたりと張りついて目を光らせる。機動隊の花道を通り、ホテル側が他の客と遭遇しないようにあけた従業員専用のエレベーターに乗り込んだ。
「フロアにはたちばなの他に三つの小ホールがありますが、全てを矢島の双子が押さえました。他の客はおろか、ホテルの従業員はひとりも立ち入ることはできません。いるのは府警、警視庁のマル暴刑事と矢島の双子だけです。アリ一匹入れませんから、ご安心を」
乗鞍が言ったが、泉の逆鱗に触れた。
「てめえさっきから、口に気をつけろ。まるで俺が怖がっているかのような口の利き方をしやがって」
手は出さないが、胸と顎を突き出し、チンピラのようにオラオラと迫る。
「それは失礼しました」
泉は黙ったが、エレベーターの中は緊張で張り詰めた。従業員専用のエレベーターは遅く、余計に緊張感が高まった。
藪から直接、無線が入る。
『本家、たちばな現着』
大阪と東京に離れていた藪の無線が直接入るほど、双方が近づいたということだ。
いよいよ、本家吉竹組と関東吉竹組のトップが相対する。
誓は口から心臓が出そうだった。乗鞍も顔がこわばっている。泉は腹をくくったか、自宅にいるときよりも落ち着いている。本多は鬼の形相で周囲に目を光らせていた。
エレベーターが開いた。大阪府警のマル暴刑事たちが出迎える。警視庁のマル暴刑事たちにもスキンヘッドや色付き眼鏡はいるが、大阪府警のマル暴はもっと派手だ。ダブルのスーツや口ひげ、若手はツーブロックで黒シャツを着用している。腕章をつけていないと区別がつかない。
大阪のマル暴刑事たちは東京の泉にあいさつすらしない。じっと彼が行き過ぎるのを見つめている。誓が先回りし、いよいよ、たちばなの扉の前に立つ。
「マルタイ現着。扉前です」
無線を入れた。藪からゴーサインが出た。誓は深呼吸し、扉を開けようとした。その腕を掴んだのは、乗鞍だった。
「待て」
乗鞍は、彼にしか入らない上層部のみの無線チャンネルでなんらかの報告を受けたらしい。耳に入れたイヤホンを押さえながら聞いている。数秒して、今度は泉に言う。
「しばしお待ちを。態勢を整えます」
「なんの態勢だ」
乗鞍は応えず、スマホを出しながら廊下の先へ走っていってしまった。
「なにがあったんだ」
泉が誓に聞くが、わからない。誓は扉の向こうの藪に無線を入れた。
「乗鞍管理官が待ったをかけました。扉の前でしばし待機します」
ホテルに詰めた全ての警備拠点に藪が報告を求めたが、「特異動向なし」の報告しか上がらなかった。
息の詰まるような長い沈黙があった。扉の向こうから、矢島の双子の声が聞こえてくる。
「なんで泉は入ってこんのや」
「扉の前でびびっておるんか」
本多がカッと目を見開き、一歩前に出てドアノブを掴もうとした。誓が慌てて止める。
「抑えてください」
なおも双子が泉を揶揄し始めたので、誓は扉の向こうを一喝した。
「警察の都合や、黙っとれ。煽るな」
大阪府警の刑事たちは仰天して誓を見た。泉と本多は揃って変な顔をする。扉のむこうでは双子の笑い声が聞こえてきた。
「桜庭誓やな」
「今日も元気やのう」
今仲が双子をたしなめる声もする。
「ここは待ちましょ。煽る方がかっこ悪いですよ」
「せやな」
「だまっとこ」
再び深い沈黙がおりる。乗鞍がようやく戻ってきた。泉を急かす。
「失礼。さ、入りましょう」
「待てよ。なにがあった」
「なんでもありません」
乗鞍は完全に目が泳いでいた。
「貴様。正直に言え。なにかあったんだろう」
本多が凄んだ。
「ですからご心配なく。手打ちを始めましょう」
誰かのスマホがバイブしている。場が静まり返った。本多が両手を上げて丸腰をアピールする。
「私のスマホが鳴っている。出るぞ」
「後にしてくださいますか」
乗鞍は焦った様子だった。本多は無視してスマホを出し、通話ボタンを押してしまった。乗鞍が本多にとびかかってスマホを奪おうとする。こんな無茶をしている乗鞍を初めて見た。誓は本多ではなく、乗鞍を止めた。
「管理官、いったいなにがあったんですか」
「桜庭、止めろ。通話させるな」
「逮捕したわけでもないに、そんな権限はありません」
本多は乗鞍を振り払い、電話に出た。
「本多だ」
通話相手が一方的にまくしたてている声が漏れ聞こえてくる。本多は相槌ひとつ打たなかった。やがて言う。
「報告ありがとう。この通り警察に囲まれて見舞いにもいけないが、お大事にしてくれ」
本多は通話を切り、ぎろりと乗鞍をにらみつけた。泉に小声で報告する。泉の表情がみるみる険しくなった。乗鞍に迫る。
「つい五分前、町田双蛇会の会長、稲峰の自宅にカチコミがあったそうじゃないか」
誓は絶句し、乗鞍を見た。手打ちを優先させるため、襲撃の一報を黙殺したのだろう。乗鞍はなおも手打ちをあきらめない。
「とにかく早く手打ちだ。男を見せてくれ。警視庁がここまでの厳戒態勢を取るのにどれだけ苦労したかわかるだろう」
本多が遮る。
「稲峰本人からいま電話があったんだぞ。庭で植木の手入れをしていたら、忍び込んだ男に拳銃を発砲されたそうだ」
稲峰は破門状を偽装した詐欺罪で逮捕されていたが、一か月前の話だ。銃乱射事件の共同正犯の証拠がそろわず、詐欺罪の方は微罪で起訴猶予となった。現在は釈放され自宅にいる。
「町田署がヒットマンを追い、稲峰は救急車の中から報告の電話をくれた」
暴力団トップや警察の思惑をよそに、本家吉竹組系列のヤクザが報復に動いてしまったようだ。
「ヒットマンは片腕だったそうだ」
泉が言った。誓は時が止まる。
「向島春刀がいよいよ動き出したようだな。そりゃそうだ。腹心だった千住を殺られたんだ。襲名のその日に蜂の巣だからな。向島の逆鱗に触れて当然だ」
泉は高らかに笑った。
「ようやく出てきたか、向島春刀め」
蛇沼が掟破りの派手な襲撃に出たのは、地下に潜った向島を表に出させるためか。
「こんな状況で手打ちなどできるか」
泉は扉の向こうへ歌うように話しかける。
「双子さんよ、わざわざ上京されたのに残念でした。ほなさいなら」
泉は踵を返し、本多ら子分を伴ってエレベーターに乗ってしまった。乗鞍が慌てて追う。誓はたちばなの扉を開けた。
本家の双子の両隣に、藪と今仲がいる。全ての会話が聞こえていただろう、腰を浮かせて驚いている。双子は顔を見合わせて愉快そうに笑っていた。
「あれまあ」
「向島め。暴走しよったか」
「兄貴、今日の手打ちはお流れやな」
「ほなディズニーランド行こか」