第二章 乱射(承前)
翌日の昼過ぎ、検死解剖が終了したと監察医務院から連絡が入った。藪と誓、今仲の三人は横浜の市松組への聴取を終えて、日本大通り沿いのファミレスでランチを取っていた。藪はチゲ定食をたいらげ、席を立つ。
「ここからだと高速を使っても一時間かかる、急いで」
「今仲さんが戻ってきていませんよ」
彼はステーキランチが来た途端、スマホに着信があり外に出てしまった。大阪府警からの電話だろう。警視庁の耳がある中では府警と会話をしたくないらしい。彼のステーキは脂が白く固まってしまっていた。
「置いていこう。メールを入れといて」
今仲に払わせるつもりか、伝票を放置して藪は店を出てしまった。今仲は首都圏の地理に疎いはずだから、監察医務院まで迷わないか心配だ。誓が支払いは済ませておいた。
高速の入口を目指す間、助手席の藪のスマホが鳴る。本部の連絡係、丸田からだった。会話を聞かせてくれる。
「八王子双竜会の内偵担当者から一報が入りました。会長の横沢が遺体の引き取りを申し出ているそうで、都心に向けて出発したということです」
都内に入っても今仲から連絡がなかった。
「今仲さん、大丈夫かしら」
「電話してやったら」
「いやですよ、置いていったって怒られる」
「別に怒られたっていいじゃん。夜になだめてあげれば」
「都合よく使わないでください」
「正式に付き合うことにしたの? 毎晩のように乳繰り合ってんでしょ」
「たまにですよ。仕事優先ですから」
「そうだけどさ、セックスしてる相手と毎日職場で顔を突き合わせて、気まずい様子もなく仲良く捜査って、恋人同士じゃん」
「違いますね。そんな話をしたことがないし」
監察医務院に到着した。豊島区大塚の閑静な住宅街にある。無機質な建物の中には二十三区内で発見された事件性のある死体が運ばれる。
品川や練馬ナンバーのクルマが多い駐車場に、八王子ナンバーのアルファードが停まっていた。後部座席のスライドドアが開く。八王子双竜会の会長、横沢錬三が杖を片手に降りてきた。二十七歳まで角界にいて、膝を悪くして幕下止まりで引退した。巡業で知り合った先代会長の寵愛を受け、盃を交わした。
横沢はチンピラがそのまま年を取ったふうの町田双蛇会の稲峰より、二十歳年上の七十七歳だ。着流し姿に貫禄があった。誓に頭を下げる。子分が誓にしたことを警視庁から厳しく問い詰められていた。
「このたびは死んでもなお警視庁さんにはご迷惑をかけっぱなしで、申し訳ない」
藪が答える。
「会いますか。遺体はひどい状態ですが」
「奴が八王子でバイクを転がしてたときから知っています。なにをやらかそうが、どういう最期だろうが、ようやく見つかったんだ。拝ませてくれ」
横沢は目に涙をいっぱいにためていた。彼を待合室に待たせ、藪と誓は担当解剖医から海竜将の検死解剖の結果を聞いた。新たに判明したことは特になく、死因や推定される凶器など『不明』のオンパレードだった。
冷たい銀色の解剖台にかかる白布を取り、横沢を呼んだ。横沢は解剖台に近寄り、肩を震わせた。彼の手が遺体に伸びる。全ての検死解剖が終わり、後は遺体を引き渡すだけとはいえ、誓は横沢の手をつかんだ。
「ここではご遠慮ください。規則ですから」
横沢は手を引っ込めた。指先が海竜の左腕に届きかけていた。黒ずんだ皮膚に皺の寄った深い傷跡があった。
解剖所見を見たが、海竜の左腕の傷は十年以上前の古傷とみられ、死亡との因果関係はないということだった。
藪と誓は麻布署に戻り、海竜将の前歴を確認した。暴行傷害事件は三件あるが、どれも海竜が加害者側で傷を負うことはない圧勝の喧嘩ばかりだった。海竜の身上書を読む。
彼は父親が酒乱で虐待されて育ち、中卒でピンサロの掃除係をやっていたところ、八王子双竜会の幹部と親しくなった。成人と同時に横沢と盃を交わしてからは闇金の取り立てなどをしていたが、八王子の繁華街で暴れ回ることは収まらず、傷害や暴行で三度も逮捕されていた。
三度目の傷害罪は執行猶予がつかず、また暴力団員ということで、府中刑務所に放り込まれた。府中刑務所は再犯率の高い凶悪犯や暴力団関係者が服役する刑務所だ。刑期は一年半のションベン刑であり、海竜は震えながら凶悪犯の中で服役していたようだ。
「府中刑務所で話を訊いてみませんか。もしかしたらあの傷は刑務所で負ったものかもしれませんよ」
刑務所内で起こった暴力事件を警察が捜査することは殆どないので、警察の記録には残らないことが多い。
「ずいぶんとあの傷にこだわるね。かわいがっていた子分の体の傷に、親分が思わず触れる。普通のことじゃん」
「あの死体には抗争の真実が詰まっています。古傷だろうがなんだろうが、どうしてできた傷なのか、そこに誰が関わっていたのか。捜査するべきです」
誓は受話器を上げ、府中刑務所に電話をかけた。事情を話す。相手の事務官が電話を保留にしている間、藪のスマホが鳴った。
「乗鞍からだ」
藪が電話に出る。ほぼ同時に誓のスマホも鳴った。今仲からだった。誓は右耳で保留音を聞きながら、左耳でスマホに出た。
「今仲さん、いまどちらですか」
「いま府警本部に戻ったところや」
いつの間に帰ったのか。新幹線で大阪まで三時間かからないとはいえ、早すぎる。
「一体どうしたんですか」
「本家吉竹組が動き出した」
すぐ隣で藪が受話器を叩き置いた。同じ報告が大阪府警から入ったらしい。
誓は藪と桜田門の警視庁本部に戻った。暴力団対策課は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。走り回る丸田を藪が捕まえる。
「詳細を教えて。本家はいまどうしてる」
「本家の若頭で仙台牛島組組長の牛島が、東京行きの新幹線に乗ったそうです」
「宮城県警のマル暴には、向島一家の義理事に参加するためと話したそうだけど、その通りなんですか」
電話で今仲から聞いた情報を、誓は丸田にぶつける。
「はい。この件で府警も、矢島の双子のいる和歌山の神社へ行って事情説明を求めたそうです」
矢島の双子の拠点は和歌山市の虎伏神社だ。二人ともシノギは矢島総業という土建屋だが、双子の兄の勇は神主でもある。
双子も向島一家の義理事があることを認めたそうだ。
「ちょっと待って。向島一家の義理事ってなんですか。誰も死んでいないし、出所もしてない」
暴力団の義理事は襲名披露や葬式、新年祝いなどを指す。現在、暴力団は大人数で集まれる会場を借りることが難しいので、こぢんまりと内輪だけで行うことが多い。
「襲名披露だろうね」
藪が低い声で言った。
「近々、特定抗争指定すると私は向島一家に言った」
「そうか。指定されたら事務所も使えないし、五人以上で集まれませんね」
「だから次期総長の襲名披露を早めることにしたんだ」
次の総長は千住か山城か。それとも影の薄い倉敷か。
「本家吉竹組の若頭が見届け人だということは、襲名披露と同時に本家吉竹組入りの名乗りをあげるつもりかもしれない」
三代目向島一家総長の襲名披露を行うことを向島一家は認めた。三代目は若頭の千住雅夫だった。順当な判断で特に驚きもない。
日時や場所、参加者なども、警察にせっつかれればヤクザは報告する。格上の参列者は本家吉竹組の牛島だが、牛のようにのろまでお飾り若頭と罵られることが多い、もっさりした男だ。双子の言いなりとも言われる。千住が提出した参列者一覧表を見たが、牛島の肩書が『本家吉竹組 若頭補佐』に格下げされていた。
大阪府警が現在、本家吉竹組の中で組織改編があったのか内偵を進めているそうだが、無能な牛島が格下げされたのは確かなようだ。ではいま誰が若頭をつとめているのか、大急ぎで調べている、ということだった。
他、荒川の箕面組、テキヤ系の深川組、大宮の玉波組の各組長も見届け人として襲名披露に駆けつける。
それ以上の組長クラスは本家吉竹組の直参にあたり、特定抗争指定のルール上、襲名披露の場に牛島を含めて四人しか参列できない。残りの参列者は二次団体の若頭クラスだった。
襲名披露は向島一家の事務所内で行われる。本来なら八十人の子分たちと新総長の千住がいっきに盃を交わすので、もっと大きな会場が必要だろうが、借りることができなかったのだろう。四十人ずつ二回に分けて盃を回すということだった。最初の四十人が盃を交わしている間、別の四十人は各自待機し、指定された時間に入れ替わる。
前日、暴力団対策課のフロアで警備の打ち合わせをした。藪がホワイトボードに貼り出された見取り図にマグネットを置きながら確認する。
「当日の前線本部は隣のビルの屋上にある監視拠点。ここでは参列者の撮影と分析を行う。警備拠点は三か所。五右衛門ビル裏手の駐車場に三名。エレベーター前は六名で、ここで金属探知機を使った身体検査を実施。向島一家の玄関脇に警備を五名配置」
誓は今仲と共に玄関脇、最前線の警備に配置された。大阪府警の今仲のお披露目だ。府警のマル暴刑事も警備にまざっているとなれば、暴力団側をけん制できるはずだ。
久々の警視庁管内での義理事、しかも抗争のさなかということで、マル暴刑事たちはアドレナリンが出っぱなしだ。乗鞍などは目が血走っていて、「今日の夜は眠れそうにない」と遠足前の子供のようなことを言っていた。
藪は十七時十五分の就業の鐘が鳴るのと同時にとっとと退勤していた。あのタイプはぐうぐう眠れるのだろう。
誓は今仲と新橋のイタリアンで夕食を取った。不安が残っている。
「向島春刀は襲名披露にやってくるかしら」
通常は先代も同席して、跡目を譲る口上をあげるものだ。
「本家吉竹組の若頭が空席になっているのも気になるし、蛇沼の居場所がまだつかめていないし」
「義理事の場で襲撃なんか起こらんよ。それはタブーだというのがヤクザの掟や」
「矢島の双子は掟破りばかりしてる」
フォークにパスタを絡めていた今仲が手を止めた。
「跡目争いで遺書をでっち上げたり、跡目候補を次々と消したり。しまいには一卵性双生児だからという理由で二人を親として盃を押し付ける掟破りまでしてる」
今仲は神妙な表情で反論した。
「跡目を指名した遺書がでっち上げというのは、関東吉竹組側の主張やろ」
「府警は遺書が本物と認定しているの?」
「現物がないさかい認定はしとらんが、豊原が書いとるところを目撃したエスはおる。矢島に総本部の建て替えや庭の手入れについても細かく相談しよったいう話や」
吉竹組総本部はもともと常春寺という寺だった。建物の総面積は二百坪、かつて鐘つき堂もあった庭だけでも、百坪あった。総本部の豪華な日本庭園は吉竹組の伝統と格式の象徴であり、暴排条例により新たに土地を購入することができなくなった暴力団にとって、なにがなんでも守りぬかなければならない土地建物だという認識らしかった。
「そんな話は知らなかった」
「豊原は庭園をなにより大事にし、土建屋の矢島総業に手入れさせていたっちゅうわけや。そやから土地転がしで儲けとる当時の若頭の泉と豊原が、気が合うはずがない」
警視庁には入っていない情報だった。
「今仲さんの本家吉竹組のエスは誰なの」
「そっちのエスは向島一家の誰や」
今仲は、誓と向島を男女の関係と思い込み、嫉妬しているように見える。
「男よ。だけど向島春刀じゃない。山城の周辺にいる男」
「僕のエスは本家吉竹組の料理人や」
かつて千日前のてっちり老舗店で修業した料理人らしい。借金して道頓堀で独り立ちしたが、店は流行らず二年で閉店となった。矢島勇はてっちり老舗店の常連だった。独立を促したのも資金提供したのも勇だ。
「最初から本家吉竹組の専属にするつもりだったんじゃないの」
「そうやろな。うまいことからめとられたんや。愚直な料理人やったのに、盃を交わす羽目になった。そして海竜が向島に顔面を剥がされとるときの断末魔の悲鳴を聞いて、心を病んだ」
今度は誓がフォークの手を止めた。
「PTSDやろがなんやろが休職などさせてくれんのが暴力団や。僕のエスは毎日泣きながら矢島の双子のために料理を作っとる」
今仲が厳しい表情で誓を見据える。
「正直、僕のエスの証言ひとつで向島を海竜殺害の容疑で逮捕できる自信はある」
「そうね」
「せやけど抗争中やし、エスには本家の情報を流し続けてもらわなあかん。タイミングを見計らっとるところや」
ベッドの中では甘ったれた顔をしているくせに、向島の話になると今仲は容赦ない。
「あんたが慕うとる男は悪の華なんかやない。ただの悪人、ただの殺人犯やで」
誓は反論しなかった。今仲は拍子抜けしたのか、頭をかいて自省を始める。
「でもな、ホンマの悪人は自分やと思う時もある。僕もエスに無理をさせとるさかい」
料理人が逃げだしたら、今仲はエスを失うのだ。
「辛いやろけど、吐いてでも双子のために料理を作り続けてくれ、と言うてしまう」
食後に濃いめのエスプレッソを飲み、ロビーで別れた。今日は今仲も誓も、どちらもベッドには誘わなかった。
午前九時、向島一家の三代目総長、千住雅夫と盃を交わす最初の四十人が、続々と五右衛門ビルに集まり始めた。警察の誘導に逆らうことなく、彼らは粛々とエレベーターの前に列を作る。藪が中心になり、金属探知機をかざし、銃器や刃物を持っていないか確認した。
十時には見届け人の牛島をはじめ、二次団体の幹部、独立系暴力団の親分たちが立会人として集まった。
誓は今仲と共に六階玄関先の受付の脇の警備拠点に立つ。組織犯罪対策部用の赤と黒の防弾ベストを着用している。受付に出される祝儀袋の名前もチェックした。
若頭補佐に格下げされた牛島の肩書を見て、誓は知らなかったふりで尋ねてみる。
「牛島組長、祝儀の肩書が若頭補佐になっていますが、どうして」
「世代交代。わしはもう八十だ」
「では新しい若頭はどなたですか」
牛島は応えず、懐から二つの祝儀袋を出した。矢島の双子のものを代理で持参してきたらしいが、連名だった。
「上納金を倍納めさせとんのやから、祝儀もそれぞれ出してやるべきやろが。ケチやのう」
誓はもう一方の祝儀袋の名前を見て背筋が凍り付いた。
『本家吉竹組 若頭 向島春刀』
今仲も目を見張った。筆書きの美しい文字だった。
「筆跡は」
「おそらく本人で間違いないけど、鑑定はすべきかもしれない」
だが押収するには令状が必要だ。一階にいる藪にも連絡をしようとしたら、連絡係の丸田からスマホに着信があった。山下という府中刑務所の元刑務官から、大至急、誓と話がしたいと電話がかかってきたそうだ。
海竜将の腕の傷について問い合わせをしていた。襲名披露が終わったら牛島からも聴取せねばならないと手続きを考えつつ、誓は今仲の後ろに下がり、丸田から聞いた番号にかけ直した。法務省矯正局の番号のようだ。
かつて府中刑務所で海竜将がいた部屋の担当をしていたという職員が電話に出た。
「誰のことかすぐにはピンとこなかったんですが、刑務所内で左腕に傷を負ったかもしれないという話を聞いて、思い出しました。あの縮こまっていた青年だと」
海竜の同部屋の受刑者が連続殺人犯と放火魔、そして金銭トラブルの末に八人殺した岐阜の暴力団組長だったそうだ。
「部屋で縮こまっていた分、作業場ではのびのびしてしまうところがありました。おしゃべりや抗弁もちょこちょこ」
作業場は洗濯場だったようだ。同年代のヤクザがいて、意気投合したらしい。
「同年代のひよっこヤクザ同士、気が合ったんでしょう。作業場にあったブラシの柄を折って二人そろって腕に傷をつけた。互いの血を混ぜ合わせて、兄弟分になったとはしゃいで、懲罰房行きです」
任侠映画の観過ぎだと刑務官たちは呆れていたらしい。
「海竜の兄弟分になった若いヤクザの名前はわかりますか」
「町田のヤクザです。二人が生まれたころはその二つの組はひとつだったというのを、別のヤクザの親分から訊いて、運命を感じたらしいんですよ」
誓は心臓が跳ね上がった。
「もしかして町田双蛇会の蛇沼将ではありませんか。本名は──」
誓の声をかき消すように、室内の奥からガラスが割れる音がした。怒号と発砲音が耳をつんざいた。襲名披露の場に入ろうと応接室で列を作っていた立会人のヤクザたちが、一斉に伏す。
今仲が拳銃を抜き、事務所の中に土足で入っていった。廊下へと続く扉は取り外され、廊下の先にある大広間が丸見えだった。かつてそこは総長室だったはずだが、家具が移動され畳が敷かれていた。
誓は今仲の背中を追いながら拳銃をホルスターから取り、安全装置を解除する。発砲音は鳴りやまない。ガラスを踏みしめる音や罵声、物が壁に当たる大きな音が続く。
襲名披露の会場はすでに血の海になっていた。真新しい緑の畳は血を吸いかねている。あおむけに倒れた紋付き袴姿の千住の体が銃弾に弾かれ、その血肉が宙を舞う。
丸腰のヤクザたちは逃げようと、今仲や誓を押し返す勢いで出てくる。何人かは酒瓶を振りかざしてヒットマンに応戦しようともみ合いになっていた。銃弾が四方八方に飛び、壁にも穴を開け砂埃を立てていた。
黒い野球帽に黒のつなぎ姿のヒットマンは覆面をしていない。蛇沼将だ。