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第五章 情報提供者

 令和五年二月の真昼間に発生した日東医科大学病院銃乱射事件は、警視庁マル暴の威信を傷つける事件だった。白昼堂々、集中治療室の患者が襲撃されるなど、前代未聞だ。
 現場に居合わせた桜庭誓は頭が真っ白になっていた。一報後に駆けつけた藪に抱きしめられたとき、嗚咽が漏れた。藪の腕の中で涙をこらえながら、なかなか、彼女のにおいから離れられない。最近、実の母親のことばかり考えているせいだろうか。
 今仲や乗鞍が駆けつけたとき、まだベッドには向島春刀の影武者の遺体があった。
 いまは監察医務院に運ばれ検死解剖が行われている。体の震えは止まったが、誓はまだ頭がうまく働かない。自分が宙に浮いているような不安定な精神状態だった。恐怖心が収まってくると、今度は目の前で起こった銃撃を止められなかった罪悪感が押し寄せた。
「かばうことも、犯人を止めることも、追いかけることもできませんでした」
 藪は冷静だ。
「医療器具に繋がれたガイシャを咄嗟に移動させることは不可能だ。かばうとしたら覆いかぶさるしかない。あんたが代わりに死ぬことになる」
 今仲は腕を組み、心配そうに誓を見ている。乗鞍は腰に両手をあて、集中治療室の惨状に絶句していた。
 犯行時ベッドは満床だった。生命維持装置に繋がれ死線をさまよう患者を簡単には避難させられない。
 犯人は片腕の男に七発の銃弾を撃ち込むと足早にその場を立ち去った。左手にはハンマー、銃を右手に持っていたが、慌てたそぶりも見えた。一人に対し発砲しすぎている点も含め、プロの仕業ではない。素人に毛が生えた程度だろう。犯人は廊下の左手の突き当りにあるリネン室の窓を割って侵入し、同じ場所から逃走した。
 正面玄関や救急搬送口など、この病院には一階に四か所の入口がある。全てに警察の警備が立っていたが、窓にまで警察官を配置できない。
 これまで、抗争にかかわる殺人は殆ど暴力団関係者のシマで起きてきた。千住の銃乱射事件は向島一家の事務所内で、町田双蛇会の稲峰の銃撃は彼の自宅の庭先で起こった。
 要町の交差点で起こった襲撃事件が転換点だったのかもしれない。深夜で人通りもクルマ通りも少ない、広々とした交差点の脇での事件だったから、誰も巻き添えを食わなかったが、一般人のすぐそばで起こった。
 抗争は場所も手段も選ばず、エスカレートしているのだ。

 誓は所轄署で事情聴取を受けた。冷静になっているつもりではいるが、「では今日はこれで結構です」と所轄署の刑事から解放された瞬間、廊下で立ちすくむ。
 これからどこに行けばいいのか。
 誓は腕時計を見た。四時半を指しているが、朝なのか夕方なのか判然としない。
 ここは駒込署だが、麻布署、向島署、町田署、池袋署に捜査本部が立っている。
 佐々岡雷神からスマホに電話がかかってきた。彼も慌てている。
「ニュースで見たよ。千駄木でまた銃乱射があったみたいだね」
「うん。現場にいたよ」
「えっ。怪我は」
「ない。死なせてしまったけど」
「誰が死んだの」
「片腕の男。あなたは誰だか知っているのよね」
 雷神は黙り込んだ。
「いまどこにいるの」
「バイト終わって、家に帰ってきたところ」
「会わない? どこか人気のないところで」
 雷神の返事は戸惑いがちだった。
 誓はすぐさまタクシーで歌舞伎町に移動した。どうやって、誓の体を欲しがる雷神を説得し、情報を取るか。自宅に呼んでセックスすれば早いだろうが、まだできることはあるはずだ。金か。だが雷神は誓に金を要求したことはない。
 人を目の前で死なせておいてもなお、体を売る覚悟が持てずにもがいている。誓は自分が情けなかった。
 レンタカー会社で日産セレナを借り、雷神に駐車場の場所を伝えた。やがてやってきた雷神は「なんでこんな大きなクルマを借りたの」と無邪気に笑いながら助手席に乗った。誓はなにも考えていなかった。まだ頭が真っ白のままだ。
「いつかスポンサーとかついてくれたら、これくらい大きなクルマが欲しいと思っていたんだ。キャンプとかしたい」
「じゃあ、これからキャンプでも行こうか」
「まじで。道具持ってるの。てか、スーツ着てるじゃん」
 着替えてくることすら忘れた。
「手ぶらでキャンプできるところがあるんじゃない」
「すげー楽しそう」
 雷神がネットで調べ、埼玉県の狭山市にある稲荷山公園のキャンプ場に行くことにした。首都高から関越自動車道に入る。東の空に太陽が昇ってきたころ、誓は強烈な睡魔に襲われた。三芳パーキングエリアに入り、運転を代わってもらった。
「実は徹夜なの。後ろで寝てていい」
「もちろん」
 雷神は運転席に座ったが、すぐに降りた。スライドドアから後部座席に入ってくる。誓は上半身を横たえて寝るところだった。雷神に尻を向けている。
「パーキング、ガラガラだよ」
 雷神が覆いかぶさってきた。優しい手つきでジャケットを脱がされる。誓は抵抗はしなかった。雷神がベルトを外し、スラックスを脱がそうとした。誓は歯を食いしばる。雷神は結局、服を脱がさなかった。
「なんかレイプしているみたいで、やだ」
 誓はゆっくりと身を起こした。雷神を深く傷つけているという自覚が涌く。なにかが誓のブラウスの下から転がり落ちた。雷神が金色に鈍く光る物体を拾った。
 薬莢だった。片腕の男が射殺されたとき集中治療室に散らばっていたが、うち一つは、誓の服の中に入っていたらしい。銃撃中一瞬、背中に焼けるような熱さを感じたのは、この薬莢のせいだったのだ。
「忠虎はこれで殺されたんだね」
「チュンフーって誰のこと」
 雷神が薬莢をぎゅっと手に握り締めた。
「片腕のない男。長らく向島春刀の影武者をやっていた中国人だよ」

 三芳パーキングエリアで知りたいことは全て聞き出せた。誓だけでなく雷神もキャンプに行く気が失せたようだ。東京に戻って早く捜査会議でこの情報をあげなくてはならない。戻っていいか訊くと、雷神は無言でうなずいた。帰り道、雷神はなにもしゃべらなかった。なんの見返りももらえずに情報だけ吸い取られてしまう彼に誓は申し訳ない気持ちが募る。だがその憂いのある横顔は大人びて見えた。あんなに雷神とセックスをするのは嫌だったのに、いまは不思議と惹かれるものがあった。
 歌舞伎町でレンタカーを返した。
「ねえ。本当にいいの」
「なにが」
「ホテル、行く?」
 雷神は少し迷ったあと、両手をポケットに突っ込んで、力なく微笑んだ。
「誓さんが本気で俺のことを好きになってくれるまで、待つよ」
 練習してくる、と雷神は踵を返した。

 駒込署の捜査本部に到着したのは十時頃だった。鑑識課が足跡をもとに犯人の侵入ルートをプロジェクターで説明していた。誓は腰を低くし後ろの扉から入る。今仲と藪が並んで座っていた。誓はその後ろの席に座る。
 侵入経路の説明の後、犯人が映った防犯カメラ映像が示された。覆面姿で人相はわからなかった。身長は百六十五から百七十、骨格から男性だろう。駐車場に逃走車両が乗り付けてあった。白のホンダヴェゼル、横浜ナンバーの盗難車だった。ヴェゼルは埼玉方面に逃走した。捜査支援分析センターが防犯・監視カメラ映像のリレー解析で追っている。
 監察医務院の医師からは、被害者の検死解剖結果の発表があった。
「推定年齢は三十代から四十代、左腕の切断は少年期のものと思われます。死因は心臓を撃ち抜かれたことによる即死です」
 上座に座る管理官の乗鞍が鑑識課の検視官からの報告を求めた。
「ガイシャの指紋、DNAにマエはありません。池袋署での襲撃事件ですでに発表した通り、免許証の取得事実はなく、身元は不明です」
 誓はぴんと手を上げ名乗った。
「ガイシャの身元に関する重大な証言を得ました。氏名はチユンフー
 漢字を説明したが、場がざわついて声がかき消されそうになる。
「出身は中国の広東省、来日は平成二十六年ごろです。四代目吉竹組組長、豊原裕久所有のクルーザーで、沖縄を経由して神戸ハーバーマリーナから密入国したそうです」
 藪が誓を振り返る。今仲はじっと前をにらんだままだ。
「ずいぶん詳しいが、どこからの情報だ」
 乗鞍が言った。
「向島一家周辺の、私のエスです」
「信憑性は高いのか」
「高いと思います。その時期、豊原は所有の豪華クルーザーでたびたび幹部を連れて、マカオまでギャンブルをしに行っています。平成二十六年といえば、向島春刀が吉竹組の若頭補佐に抜擢されたころです。警視庁が向島一家を指定暴力団として内偵を強化したころとも重なります。片腕の彼は目立ちますから、警察の内偵をまくために影武者を用意したのではないでしょうか」
 ギャンブルついでに立ち寄った中国で、左腕のない物乞いに目を付け、密かに連れ帰ったのだろう。
「来日時の忠虎は骨と皮だけの青年だったようですが、親分の影武者として向島一家に迎え入れられ、曳舟の事務所内に個室を与えられた。外には自由に出られなくとも、それなりに優雅な生活を送っていたようです」
 藪が口出しする。
「その影武者の忠虎が、なんで表に出てきてヒットマンになったんだ」
「山城に命令されていたそうです。向島春刀が地下に潜って代替わりすることになり、忠虎の状況が一変したと思われます」
「山城は向島一家で若い衆に襲撃を命令できるほどの立場か」
「向島一家は三代目千住の襲名がなくなりましたし、いまは事務所も閉鎖、組員が五人以上集まることもできない状況です。親もなく命令系統が乱れています。山城が三下を使って暴走しているのではないでしょうか」
「暴走とは」
 乗鞍が具体的に、と身を乗り出す。
「いやがる忠虎に拳銃を持たせて、稲峰を襲撃するよう命令した。忠虎は日陰で生きてきた。銃弾が一発もあたらないわけです」
「そして要町の事件が起こったということか」
「待て。あれは町田双蛇会の報復だ」
 藪が会話に割り込んだ。
「山城一派の仕業のようです」
 誓の断言に、刑事たちがどよめいた。
「山城は再び稲峰を狙うよう、忠虎に迫っていた。忠虎は二度目の襲撃を拒否し、拳銃を山城に返そうとして、もめたんでしょう。忠虎が警察にタレこむと考えて、山城はその場で口封じしようとしたのかもしれません」
「かなり踏み込んだ内情を知っているが」
 藪は怒っているふうですらある。
「山城が電話で方々に相談している声をエスが盗み聞きしています。忠虎は裏切る、口封じした方がいい、と山城は話していたそうです」
 乗鞍はこぶしを震わせていた。
「要町の事件も日東医大病院での襲撃事件も町田双蛇会の仕業ではないのか」
「二つとも向島一家の内紛です」
 捜査会議は紛糾した。内紛で執拗にひとりの男を殺害しようとするだろうか、という意見が出る。要町の路上でも容赦なく発砲している上、集中治療室にいた男を、わざわざ病院に踏み込んで射殺している。
 町田双蛇会の報復の方が筋が通るという意見もあった。
 誓の情報源は、山城とは直接の関係がない、ジムが同じというだけの落ちぶれボクサーだ。誓は情報提供者を正式に登録していなかったから、信憑性を疑う声も多かった。
 乗鞍が、この証言を裏付ける物的証拠を取ってこいと命令した。誓は反論する。
「そんなことしている場合ですか。山城一派は今度は別の人間を使い、町田双蛇会を襲撃するはずです。そちらを止める捜査をすべきです」
 稲峰の周辺警備の強化と、曳舟ボクシングジムへの家宅捜索が早急に必要だ。
「内紛中だというのなら、しばらくは町田双蛇会への襲撃はないんじゃないか」
 どこかの刑事が呑気に意見した。乗鞍は一同に指示する。
「いずれにせよ、まず日東医科大学病院での銃撃事件の犯人にワッパをかけることだ。病院に侵入して銃撃するなど絶対に許してならない。この犯人の身柄を早急に確保しろ」
 誓はもう一度、雷神から情報を得なくてはならなくなった。山城はどのような状況下でどの情報を、誰に向けてしゃべっていたのか。もっと詳細な情報を加味しないと、捜査本部は雷神の情報を真に受けないだろう。
 雷神はいま無報酬で警察に情報を流している。いまの彼に誓がまたがっても拒否されるだろう。誓が真に雷神を愛することはない。好みのタイプの今仲ですら、誓は本気にはなれない。それは雷神や今仲のせいではない。
 実父が向島春刀というヤクザだと知った瞬間から、誓の男性に対する一般的な感情が崩れてしまった。誓は向島に執着している。男女の性愛を求めているのではない。父は自分が誕生したときどんなふうに感じたのか、捨てる決断をしたときどう思ったのか。そして母は誰でなにが起こったのか。全てを聞き出し納得しない限り、誓は永遠に向島春刀という男に執着し続けるだろう。他の男と心の結びつきを得ることはできない。
 忠虎を殺害され、娘が現場にいたというのに、向島からは相変わらずなんの連絡もなかった。
 誓はどこかで、向島と協力し合いながら吉竹組の分裂抗争を防ぐことを夢見ていた。父親なら誓の言葉に耳を傾け、立場の違いに苦しみながらも、娘と同じ目的に向かって邁進してくれると信じていたのだ。
 誓は向島と繋がるスマホを解約した。

 三日後、犯人が逃走に使ったヴェゼルが発見された。東北道の金成パーキングエリアで乗り捨てられていた。宮城県と岩手県の県境に近い場所で、一般道からも進入可能なパーキングエリアだった。新幹線で行った方が速そうだが、藪が犯人の逃走経路を実際に走ってみたいと言うので、捜査車両で向かうことになった。四百キロ近くある。交代を考え、今仲も同行することになった。
 だが出発の朝、今仲は警視庁本部の地下駐車場に現れなかった。
「今仲さん、来ないですね」
 藪が今仲のスマホに電話をかけた。少し通話し、呆れた様子でスマホを切る。
「ったく、来ないなら来ないで連絡しろっつうの。大阪で緊急事態だってさ」
 誓は首を傾げながら、警視庁の地下駐車場を出た。
「府警に呼び戻されたんですかね」
「抗争関連で緊急事態があったのなら、数分遅れてうちにも連絡が入るはずだけどね」
 誓は最初の休憩で入った蓮田サービスエリアで藪と運転を交代し、今仲に電話をかけた。繋がらない。
「あんたたちさ、純愛に発展しちゃったの」
「なんでですか」
「あんた、忠虎の情報をどうやって得たんだ」
 またその話かと誓はため息をついた。
「寝たんでしょ、曳舟ボクシングジムの落ちぶれボクサーと。今仲は傷心してるんだ」
「今仲さんがそんなことで大阪に帰るわけないでしょう。そもそも私はエスと寝てないです。事態を重く見てエス自ら教えてくれたんです」
 藪は信じてくれない。
「これまでのあんたは平気で若い男の体をむさぼって楽しむくらいだったのに、他に貞操を誓いたい男ができたから、ボクサーと寝て傷ついちゃうんだ」
「私は今仲さんをそういう目で見たことがありませんし、そもそもボクサーと寝てないし、傷ついてないです」
「いずれにせよ、あんたに期待してたのにがっかりだよ」
「ひどい。忠虎の情報を得てきたのに」
「ある程度の裏付けががないと、捜査本部は動けない。あれからボクサーに会ってないんだろ。セックスしたくないから」
 誓は口を尖らせた。
「藪さんの発言はいまどきまずいんじゃないですか。情報を取るために体を売れと部下に命令しているようなもんです」
「私は向島の銃刀法違反と殺人未遂をかばったあんたを不問に付した上に、生い立ちを隠蔽してマル暴捜査の最前線に置くことにした。バレたらクビだ。この決断をした時点で、腹を括ってるんだよ」
 藪の迫力に、誓は結局、負けてしまう。
「パワハラだと監察に訴えればいい。怖くない。そんなことより怖いのは抗争を防ぎきれずに一般人に死傷者が出ることだ」
「私もそう考えていますよ」
「日東医大事件で一般人に死者が出なかったのは、運がよかっただけだ。一歩間違えば大惨事だった。あれを目の前で見てあんたも腹を括ってボクサーに足を開いたんだろうが」
「だから、そのつもりでしたけど、結局あちらが辞退したんです」
「エッチしてないのに情報をぺらぺらしゃべったのか。なら余計におかしい」
 藪は険しい顔になった。
「私はね、あんたの情報提供者が都合よく知りすぎていることが変だとずっと思ってた」
「どういう意味ですか」
「山城と親しいわけでもないのに、向島一家の内情に詳しすぎる」
「私は、曳舟ボクシングジム内にアジトがあるんだと睨んでますが」
「そのアジトにボクサーが入れる状況なのか」
 誓はそこまで考えていなかった。
「だとしたら要警戒事項が二つ。ひとつめ。ボクサーも内紛に巻き込まれていて、山城からいつ襲撃を命令されるかしれない立場」
「まさか。彼はヤクザではないですよ」
「ふたつめ。ボクサーはすでに山城の子分で、誓ちゃんに偽情報をつかませている」

(つづく)