菊の独白 六(承前)
和歌山に引っ越す三日前、桜庭が天満にやってきた。玄関先に引っ越し業者が置いていった段ボールの束を見て慌てた様子だったが、私は決して扉を開けなかった。
「先生、お願いやから引っ越し先を教えてくれへんか。誓のことが心配や。どこに行くにしたってあんたの亭主は極道や。どんな危険な目に遭うかわからん。先生や誓になんかあったら、わしが飛んでいくで」
「桜庭さんには感謝しとります。ごめんなさい」
桜庭は一時間粘ったが、近隣住民から文句を言われ、帰っていった。入れ違いにコオロギが帰宅する。桜庭がいたから入れなかったようだ。
「マル暴となにしゃべっとった」
いきなり詰問口調だった。
「引っ越し先を教えろとうるさかったんや。追っ払うのに一時間かかったわ。見とったんならあんたが追っ払ってよ」
「和歌山のこと、話してもうたんちゃうか」
「あんた、私が信じられんの」
コオロギは決まり悪そうに目を逸らしたが、悔しそうに言い返す。
「だいたい、廊下に段ボールを置きっぱなしにするな」
「他にどこに置き場所があるか教えてほしいわ。誓が怪我したらどうするん」
部屋の中は荷造りした段ボールだらけで、足の踏み場もない。
しばらくお互い無言になった。私は台所で食器を梱包材でくるみ、段ボールの中に詰めた。寝返りがうてるようになった誓は、梱包材をいつまでも切り割いて遊んでいる。
コオロギはベランダでたばこを吸い始め、手伝おうとしない。私は堪忍袋の緒が切れた。激しく足音を鳴らしてベランダに向かう。
「なんや、うるさい」
ベランダの手すりに肘をついたまま、コオロギはしかめっ面で私を振り返る。私はまた下着がないことに気づき、怒気をそがれた。ピンチがついた物干しを確認する。
「またドロか」
「そうみたいや」
「せやから言うとるやろ。なんで外に干すんや」
「部屋に干したら洗濯物が臭うなると何度も言うとるやんか。あんたやって、雨の日に洗濯したタオルをくさいと文句言うとったやろ」
「せやけど下着は中に干したらええやろ」
「ほなら洗濯物を干しとるときに私にそう言うたらええやん。私が誓をおんぶしながらベランダに出て洗濯物を干すのを見とったやろ。あんた昼までゴロゴロしよって、家事をどうこう言う資格があるんか」
「ごちゃごちゃとうるさいやっちゃの」
コオロギは二本目の煙草に火をつけた。
「怖いんやけど。また下着が盗まれた。健優やないの」
「知らんで。桜庭が捕まえたんちゃうんかよ」
「もう娑婆におるんやろ」
「知らん」
「知らん知らんて、あんた、女房が下着ドロの被害に繰り返し遭うとんのになんでそんなどうでもよさそうなんや」
「とっ捕まえたとこでヘタレやろがい。俺の出る幕やないわ」
私はベランダの窓を勢いよく閉め、段ボールの海をかき分けて、電話を探した。受話器を上げて桜庭の番号を押す。コオロギが慌てて入ってきて、フックを叩いた。
「どこかけとんねん」
「あんたが頼りにならんのやから桜庭さんに言うしかないやんか」
「あほぬかせ、三日後に引っ越しやぞ。どうせ健優やろ、和歌山までは追ってこられん」
「黒憂会は吉竹の直系やろ。健優は父親に聞けばいくらでもあんたや私の居場所がわかるやろが」
「なら矢島のオジキに言わんように頼んでおく」
「頼むだけなんか。組のための殺人はやるのに妻のためにはなんもせんの」
「どの口が言う。足を洗え、極道やめろと散々わしに詰めよりよったのに、自分が困ったときには都合よく、下着ドロを始末せえと命令するんか」
「そこまで言うてへんよ」
「ならどうしろというんや」
「健優に注意してくれるだけでええの。なんなら黒田の親分にひとこと頼んでよ。妻の下着を盗むなと」
「黒田の親分とは盃を交わしとる」
「関係あらへん。黒田はヘンタイの父親や、ヘンタイをどうにかする責任があるやろ」
「ヤクザの盃の重さを菊美は知らんのや。親が白を黒と言うたら黒やねん。黒田の親分に文句垂れたところで、うちの息子はやってへんと言われたらそれまでや」
「役立たず」
言ってしまった。実はずっと前から心にしまっていた言葉でもあった。私はとても自分勝手な女だ。いつもいつも、コオロギが日本刀を振るうのは私のためでないと許せない。
「いねや、うっとうしい」
コオロギは吐き捨て、アパートを出て行った。どうせ夜になれば戻るだろうと思ったが、コオロギは明け方になっても帰ってこず、次の日もまた次の日の朝も、私は誓と二人だけだった。引っ越しが迫っている。謝らなければ、いやあちらが謝るべきだという出口のない逡巡が辛い。
現実逃避に北川悦吏子のドラマを見たいが、永久保存版にと爪を取ったビデオテープは段ボール箱に梱包してしまった。
いつの間にか寝ていた。四月二十四日、月曜日になっている。引っ越しは明日だ。
第六章 自白
令和六年四月、駒込署に、日東医科大学病院事件のホンボシである大野太が移送されてきた。案の定、暴れていた。
「ふざけんな、なんで俺が駒込署に移送されなきゃなんないんだ。なんの容疑だ、言ってみろ、え」
移送を担当した暴力団対策課の新人、山田巡査は大野の唾を顔面に浴びている。駐車場で待ち構えていた藪と誓を見て、大野は目を血走らせた。
「死ね、この野郎」
手錠と腰縄で拘束されているのに、藪に飛びかかろうとする。右拳を振り上げたが、同時に左手も上がった。
「あれは別件逮捕ってことだろ。違法捜査じゃないのかよ、あん」
飛び散る唾に誓は退いたが、藪は引かない。フェイラーのハンカチで唾を拭うと、低い声で言った。
「泣いても喚いてもお前がやったことの事実は変わらないだろうが」
大野は唇の端を震わせた。
「観念しろ。正直に全て話すしかないんだ」
大野は初日の取り調べで藪を恫喝し、何度も拳を振り上げて威嚇してきた。誓は書記として聴取に同席していたが、なにかあったときに女二人では大野を止められない。穏健な丸田か、肩書きも腕力もある乗鞍に助けを求めるべく、取調室を出ようとした。
「誓。どこへ行く」
藪が厳しく咎めた。誓は大野の罵声を背中で受け止めながら、証言を一字一句パソコンに入力していった。
正面から男の怒号を受け止める藪は顔色一つ変わらない。威嚇が通らないとわかるや、大野は誓に牙を剥く。
「おい。パチパチとうるせぇんだよ、パソコンを閉じろ」
耳がつぶれそうな恫喝だったが、誓は毅然と返す。
「やめません」
「この野郎、ぶっ殺してやるぞ」
「殺せるもんなら殺してみろ。ここは警察署だぞ。わかってんのか」
藪が煽った。
「お前なんか首をひねって一瞬だぞ」
「だいたいあんた、なんでそんなに怒ってるの」
「薬物売買の逮捕は別件だった。お前ら俺を騙したんだ。俺はなにもやっちゃいない」
「そうだろうか。あんたはまだ、私に告白すべき罪があるはずだ」
「ない。俺は薬物を売っただけだ」
初日は怒号が飛び交い、大野は忠虎殺しを認めるそぶりは全くなかった。
翌朝も八時から取り調べが始まった。昨日とは一転、大野は黙秘に転じた。事前に弁護士と接見があったから、入れ知恵されたのだろう。
三日目、弁護士から駒込署に、拘束をしている根拠はなんだと抗議が入った。犯人の逃走車両から大野のDNAが出たことは言わない。警察側のカードはこれしかないのだ。状況証拠しか警察側は持っていないとバレてしまう。なんとしてでも大野の自白を取らないと、再逮捕も起訴もできない。
薬物売買の検察調べと並行しながら、大野と駒込署でにらみあう。本格的に取り調べを初めてから一週間が経ち、検事が渋い顔をし始めた。
にらみ合うだけの聴取を十八時に終えた日は、担当検事が苦言を呈す。
「藪さん、互いにしゃべらないのはどうなんですか。雑談くらいはして信頼関係を築かないと、大野はゲロしませんよ」
藪は肩をすくめただけだった。捜査本部に戻ると「検事のくそやろうが、黙っとけ」と悪態をついた。
「私も同じこと考えていました。ずっと鞭を振るい続けてきましたから、ここらで丸田さんと代わって飴を与えた方が効率がいいかもしれません」
「丸田にはやらせない。私が落とす」
「なにを意地になってるんですか」
「意地を張ってるんじゃない。私には大きなカードがある」
藪は近くに人の気配がないか確認し、トートバッグの中から書類袋を取り出した。
「『雨音』に行こう。そこで話す」
「この書類、なんですか」
「袋から出すな。表紙を覗くだけならいい」
誓は袋の口を広げて、中を覗き込んだ。大阪府警の事件調書だった。父、桜庭功の署名が入っている。『大阪市天満元教師強姦殺人事件』というタイトルが見えた。手探りで一枚目をちらりと捲ったとき、被害者の名前が見えた。
「桃川菊美?」
「あんたの母親だよ」
藪は、矢島の双子が手打ちのためにと上京したときに、すでに誓の母親の事件を詳しく聞かされていたそうだ。
誓に情報を小出にしていたのは、この抗争のどこかで誓の出自や母への想いを利用できる局面が来たときのカードとするためだった。
なにもかもを捜査に利用する。誓は反発し、ホストクラブ『雨音』のVIPルームで激しく藪をなじった。
藪がこういう人間だとずっと前から知っていた。わかってはいても、悔しくてならない。実母が『強姦殺人』という言葉でその人生の幕を下ろしたことは屈辱的であり、その文字を見ただけで誓は傷ついていた。それを利用しようとしている藪には凌辱されたような気持ちにすらなった。
藪はしれっとした顔をしてビールを呷る。
「はいはい、わかったよ。で、お前はこの事件調書を読むのか読まないのか」
誓は言葉に詰まる。実母が強姦された上に殺された詳細など、知りたいはずがない。
「こんなものがカードになりますか。一体どうやって大野の口を割らせるのに使うというんです」
「飴になるだろ。私は大野に厳しく接している。飴をあげるのはお前だ」
「母親が強姦された末に殺害されている。これが大野にとって飴になるというんですか」
「大野も似たようなもんだろ。妹はエンコーの末にシャブ漬けでラブホテルで死んだ」
誓は藪の顔をひっぱたいていた。
「いったぁ」
誓はバッグをひっつかんで、VIPルームを出ようとした。
「待て。誓」
藪が忘れ物だ、と母の事件の調書を誓の胸に押し付けた。いますぐこんなものはシュレッダーにかけてしまいたい。だが、読まねばならないと刑事の自分は覚悟を決めている。誓は藪の手から書類をひったくり、自宅に帰った。
封筒から書類を出すまでに一時間かかった。一ページ目を捲っては閉じ、パラパラと捲って現場写真が出てこようものなら心臓が締め付けられ、書類を放り投げた。
向島に、お父さんに連絡したい。彼と繋がっていたスマホは解約してしまった。誓は泥酔し、ダイニングテーブルに突っ伏したまま、眠っていた。
明け方、目が覚めた。体は痛いがやけに気持ちはすっきりしていた。洗面所で顔を洗い、鏡の中の自分を見て驚く。目が出目金みたいに腫れていた。
誓は濃いめのコーヒーを淹れて、調書を開いた。母、桃川菊美は平成七年四月二十四日に殺されていた。誓が生後五か月のころだ。ページを捲るにつれ、誓の背筋が粟立っていく。母の事件調書はなぜか『海苔弁当』だった。そのほとんどが、黒塗りだったのだ。
誓は八時十五分に駒込署に出勤した。すでに取調室に大野が待ち構えているらしいが、藪は不在だった。
「いま電話をしたら、太平洋を眺めているとかわけわかんないこと言うんですよ」
丸田が困惑して言った。藪は大野の故郷である南房総にまで足を運んでいるのだろう。
「これは僕が聴取に入らねばなりませんかね」
丸田は聴取が得意だから、ワクワクした様子だった。
「今日は私が入ります」
大袈裟にずっこけた丸田を後目に、誓はひとりで取調室に入った。すぐさま録音、録画装置の電源を切る。後輩の山田巡査が慌てた様子で駆けつけた。
「書記に入りますよ」
「いや、ちょっと雑談だけだから。すぐ終わる。二人きりにさせて」
誓は山田巡査を締め出した。
「誰だあんた、新人さんか」
大野が上目遣いに誓を見た。
「桜庭です。ずっと同席していたでしょ」
書記デスクを顎でさす。
「人相変わってないか。目が出目金みたいになってるぞ」
からかう口調だった。
「朝まで泣いてたから」
「藪って女刑事は」
「大野さんを落とせなくて旅に出た」
面白くなさそうに大野は肩を揺らす。誓は前のめりになって、自分の重たい瞼を指した。
「聞いて下さい。コレの理由」
「興味がないね」
「なら事件当日の話をしてください。忠虎が日東医科大学病院で銃撃されたとき、あなたはどこでなにをしていたんですか」
「覚えていない」
「ならコレの理由を訊いて」
誓はもう一度、瞼を指さした。大野は事件のことをしつこく訊かれるよりましと思ったようだ。押しつけがましく敬語で問う。
「朝まで泣きはらした理由はなんですか」
「私には生き別れた母親がいるんです」
大野の表情は変わらない。向島一家の元構成員とはいえ、数年で破門されている。向島と親しくはないはずだから、誓との関係も知らないだろう。
「つい昨日になって、私が赤ん坊のころに殺害されていることがわかったんです」
大野の眉毛がぴくりと動いた。誓の告白をどう受け止めていいのか戸惑っている。
「ただ殺されたんじゃない。強姦されていました。昨晩その事件調書を手に入れたんです」
「読んだのか。それで泣いた」
「ええ」
「だからなんだ。俺の妹の話と結び付けて同情を引こうという魂胆か」
思惑は外れた。大野が凄む。
「佳代の話をここでしてみろ。お前の喉をつぶして一生しゃべれなくさせてやる」
誓は頭を下げた。
「ごめんなさい」
身内の不幸をエサにされる怒りは自分も藪にされて痛いほどわかっている。書類をまとめて、立ち上がった。
「今日の聴取はもう終わりです」
「俺は留置場に戻るのかよ」
「藪さんが休暇取ってますから」
「ふざけんなよ。あんなところに一日いるのは気が滅入る」
「しょうがないでしょ。私の境遇を引き合いにあなたの妹さんの話を引き出して仲良くなろうとする私の卑しい目論見は外れた。今日はおしまい」
「わかったよ」
また大野はふんぞり返った。
「あんたの話は聞いてやる。佳代の話はしないからな」
誓は椅子に腰を下ろした。
「誰にレイプされたんだ、あんたの母ちゃん」
「事件は迷宮入りしている」
「警察は無能だな」
「本当に」
大野は口角を上げた。
「あんた、警官だろうに」
誓は頷くにとどめ、口数を敢えて減らしていった。自然、大野の質問が多くなる。
「お母さん、職業は」
「教師だったみたい。高校の現代文の」
だが中途半端な時期に退職している。その理由を桜庭功は調べたようだが、黒塗りになっていた。
「教師なら真面目な女性だったんだろうな」
誓は心の中で苦笑いする。母は、当時未成年だったヤクザの子供を産んでいる。真面目な教師だったはずがない。向島が体の関係を強要していたとも思えない。なにも知らないのに、愛されていたことだけはなぜか想像できる。事件調書には誓や向島の話は一切、出てこない。海苔弁当の下に隠されているのだろう。それでも、お父さんとお母さんは愛し合っていたと思う。誓の細胞にその記憶が焼き付いているようだ。
誓が無言になるにつれ、大野は同情の目になっていった。
「あんたのお母さんは、通り魔的な犯罪に巻き込まれたんだろうな。だがあんたは俺よりましだと思うぞ」
「どういう意味」
「生後五か月じゃ、母親の記憶は一切、ないんだろ」
誓は頷いた。
「俺は妹の記憶がべったり脳みそに焼き付いたままだよ」
妹の話はするなと言ったのに、結局、大野は自ら口にした。
「妹とは八つも年が離れてる。俺が小二の時に生まれてきた。かわいかった。おふくろには触るなって言われたけど、こっそりオムツを交換したんだ。うまくあてられなかった上に、佳代のやつ、その場でうんちをしちゃってよ。産着もベビー布団もうんちまみれで、大わらわ」
誓は大野につられて笑った。大野の目尻に涙がたまる。
「俺はミルクもあげたしさ、離乳食だって食べさせた。誕生日には折り紙や紙粘土で工作したもんを必ずあげた。あいつが十歳になったときに駄菓子屋で売ってた五百円の指輪を買ってやったら、こんな安もんいらない、ブランドものの指輪がいいとか言い出して、たまげたもんだよ」
大野は目が赤くなっていった。
「そんな妹がさ……」
嗚咽が混じる。結局、大野はそのまま口をつぐんでしまった。
「ごめんなさい」
誓はもう一度、頭を下げた。
「あなたが受けた衝撃と悲しみは、私のものとは比べ物にならないですね」
「そんなことないよ」
大野は目尻の涙を親指でひとぬぐいした。
「そういうのは、比べるもんじゃないだろ」
はにかんだような優しさを見せた大野に、誓は驚いた。同時に悲しみが増す。彼は忠虎の殺害犯だ。妹の事件をきっかけに極道の世界に入ってしまったが、それがなければ、ごく普通の人生を歩んでいたのではないか。妹の無念を晴らすべく復讐を果たしたものの、薬物との関わりを断てず、世話になった山城を裏切ることになった。結果、殺人に手を染めてしまった。
「大野さん。私、事件当日、日東医科大学病院のERにいたんです」
大野は誓から目を逸らした。
「忠虎は頭部陥没、山城一派からリンチされ、重傷だった。誰かが襲撃に来たって追い返すこともやり返すこともできない。そんな丸腰の相手をハチの巣にする意味なんか、あったんですか」
「なんの話をしているのかわかんねー」
大野は動揺したまま、鼻で笑った。
「山城は卑怯者だと思う。あなたが逆らえないのをわかっていて、忠虎の殺害を命じたんでしょう」
大野は目を閉じてしまった。口元の歪みに怒りが見える。彼もまた、殺害を強要した山城に不信感を持ち始めているのだ。ここが突破口になる。
翌日以降、誓は山田巡査を書記に、正式に取調官として大野の聴取に入った。録画も録音も始めたので、誓は実母の話はしなかったし、大野も触れなかった。
山城との思い出話を振る。大野は、未だ忠虎の殺害は認めないが、山城の話には応じる。破門にされた自分が殺害を命じられたことを不服に思っているだろう。忠虎の殺害が自分の意思ではなかったことを警察にわかってほしいはずだ。
「初めて山城さんと出会った日の衝撃は忘れられないね。当時の親分と曳舟ボクシングジムの興行を見に行った夜、銀座に繰り出したんだ。アニキは右足の小指を詰めた直後で、足を引きずっていた」
足の指詰めなど、初めて聞いた。
「手の指が揃ってないヤクザは珍しくないけど、足の指は俺も聞いたことがない。本人に聞いても、苦笑いするばっかりで、なにも言わない。そしたら泥酔した和田の親分が泣きだしてさ。右足の小指は、和田の親分のために落としてたんだ」
和田が女を巡り歌舞伎町のヤクザとトラブルになったそうだ。一方的に殴られた和田は、「元世界チャンプの山城が仕返しにくる」と捨て台詞を吐いて逃げた。山城はその場に呼び出され、代わりにリンチされた。だが絶対に手はあげなかった。
“俺は拳で人を殺せるから、素人だけは殴らないと決めてる”
かつての山城を語る大野の目は、少年のようにキラキラしていた。
「山城さん、かっこいいこと言うだろ」
山城はボクサーを引退後、一時期はタレントとして活動していた。暴力団との交流がバレて芸能界を追放されてからは、芸能人を過去のネタで脅し小銭をせびっている落ちぶれヤクザと見られていた。若い頃はそれなりに任侠心があったようだ。
「和田の親分が指詰めて終わろうとしたんだけど、山城さんが止めた。こいつは赤ん坊が生まれたばっかりだからかわいそうだろ、自分の小指ならくれてやる、と山城さんがその場で落とそうとしたんだ。相手のヤクザは仰天してさ、ボクサーから手の指をもらうわけにはいかねえと止めたら、山城さんは速攻で裸足になって、足の小指を包丁で切り落としたんだ」
引退していたとはいえ、ボクシングにフットワークは命だ。足の小指がないと素早く動いたり、全速力で走ることは難しくなる。指導するには問題ないと本人は笑っていたそうだ。
「一目惚れだったね。間違いなく」
大野はまた目尻に涙をためている。本来は情の厚い男なのだろう。
やがて市原和田組が解散すると、大野は迷うことなく向島一家の構成員になった。
「それで結局、山城はあなたのために小指を落とすことになったのね」
大野は肩をすぼめた。
「山城さんはいつも決断が速い。全然、迷わないんだ。二代目向島が破門状を書いている横で、左手の小指を落とした。さすがの二代目も驚いてた。アニキの小指は二代目と近所の寺に供養しに行ったよ」
「それなのにまた、薬物売買の世界に戻ってしまったんですか」
「食っていけねえんだもん、だって。強盗とか殺人よりましだろ。ヤクを売るくらい」
大野は情けない顔をする。
「指一本と命、どちらが軽いと思う」
誓は思い切って、大野に切り出した。大野は目を合わせず、壁を睨みつける。
「指に決まっている。忠虎を殺すより、指を三本落とす方が簡単だわ」
大野は黙り込んだ。忠虎の殺害を否定しようとしないのは、初めてのことだった。
「殺人をやらせた山城は卑怯だと思う」
大野が大きな音をわざと立てて、デスクに突っ伏した。
「今日は疲れた。これで終わりにしてくれ。もうなにもしゃべりたくない」