第四章 報復
今日はやけに底冷えする。令和五年二月末、東京都多摩西部地域に大雪警報が出ていた。窓の外を見て桜庭誓は驚いた。
「藪さん。雪が積もってる」
「あっそ」
藪哲子は振り返りもせずそっけない。モニターに映った防犯カメラ映像から目を離さず、コマ送りにしたり早戻ししたりしている。
藪と誓は南町田にある高台の一軒家にいた。すぐ近くに人気のアウトレットモールがある高級住宅街に、町田双蛇会の稲峰会長の自宅はあった。屋根裏部屋つきの洋風建築で、広々とした庭には白樺の木が植樹してあった。冬のいま、芝生は枯れている。庭いじりが好きだという稲峰は大雪警報が出たことを受け、ビオラとパンジーの植木鉢を温室に移動させようとしたところを、ヒットマンに撃たれた。
弾は四発発射されたが、一発も当たらなかった。驚いた稲峰が逃れようと温室入り口のアーチに手をかけたとき、バラの棘が指に刺さっただけの軽傷だ。
「南国育ちでもあるまいし、雪が珍しいか」
「珍しいですよ。大阪ではめったに積もりませんから」
「防カメ映像をちゃんと見なさい」
稲峰の自宅の玄関先で、ヒットマンが映った映像を見せてもらっている。
隣で町田双蛇会の若い衆が女刑事の捜査の様子をじろじろと見ていた。いまどき珍しい代紋入りのジャージを着ている。町田双蛇会の蛇の代紋は欧州の王家の紋章のようで、任侠らしい伝統を全く感じなかった。
「あんたはヒットマンを見たの」
藪が若い衆に尋ねた。
「見たさ。追いかけてとっ捕まえようとしたが、こっちはチャカもヤッパもない」
「そりゃ所持できないよね。警察もいたし」
向島一家で銃乱射事件を起こした町田双蛇会は、トップが報復される可能性が高い。警察は稲峰の保釈後に自宅周辺にパトカーを巡回させ、警備していた。
だが稲峰が自宅の庭に出た一瞬の隙を狙われた。ヒットマンは長らく周辺に潜伏し、機会を窺っていたのだろう。
「ヒットマンの特徴は」
藪が尋ねた。
「左腕がなかった。あれは向島春刀だ」
「違う」
誓は即座に否定した。藪が一時停止していた防犯カメラ映像にはヒットマンが庭の柵の向こうから銃口を向ける様子が映っていた。
「これは左腕がない別人よ」
「根拠は」
藪が間に入ってきた。誓は無言を応えとした。藪は若い衆をその場から追っ払った。
「娘の直感を信じて、歩容認証にかけてみるかね。予算がおりるといいけど」
映像からの人物特定の定番は顔認証システムだが、映像の中のヒットマンはフルフェイスのヘルメットをかぶっている。顔認証が使えなければ、その人物の歩き方や歩幅をAIに認識させ、本人かどうかを特定する歩容認証技術がある。予算を食うので、重大事件でしか使われない。
「誰かが向島春刀のふりをして、左腕を服の下に隠しているんでしょう」
「しかし他の映像を見ても胸元の不自然なふくらみはないよ。左の二の腕も細そうだから、折り曲げて腕のないフリをしているわけでもなさそう」
「だとしても、これはお父さんじゃない。体の輪郭やオーラが違う」
藪は頭をかいた。
「いったん、捜査本部に戻ろう」
誓はクルマに乗り込んだ。スタッドレスタイヤに履き替えたかわからないので、誓は慎重に雪道を進んだ。藪のスマホに今仲から連絡が入った。
「無事、矢島の双子が和歌山に帰ったとさ」
本家吉竹組と関東吉竹組の手打ちが中止となり、矢島の双子は今仲に付き添われて関西に戻ることになった。ディズニーランドに行きたいと駄々をこねていたようだが、「自由が欲しいなら引退せんかい」と今仲がどやすと、あきらめた。
「結局、あれだけの警備を敷いて大騒ぎをしたのに、今回の件で台無しだわね」
「そもそも、矢島の双子に手打ちの意思があったとは思えません」
「私は双子の本当の目的に薄々気が付いていたけどね」
藪が思い切った様子で言った。
「あの双子、誓ちゃんの話ばかりしていた」
行きの新幹線の警備が誓ではなかったことをぼやいていたとは聞いていた。
「話したいことがあるのかってメールを返しましたよ。返事はありませんでした」
「できなかった。しない方がいいと思ったから。あんたは絶対に動揺するだろうし」
誓は速度を落とした。雪道を時速十キロで走っている。他に走行車両はいない。
「矢島の双子はなにを言ったんですか」
「あんたのお母さんの話」
フロントガラスに付着する雪を、ワイパーが振り払っていく。
「母親の素性から、どうして向島と結婚せずに別れて、あんたを養子に出したのかまで矢島の双子は知っているみたいだった」
「調べつくしたってことですか。私の弱みを握るために」
「あんたのお母さん、殺されてる」
雪が降っているはずなのに、一瞬、その粒が空中で静止しているかのように見えた。
「その後始末を請け負ったのが、矢島の双子らしいよ」
「そんな話、信じない」
「信じたくないだけでは」
「私を動揺させたくて適当な話をでっちあげているのかも」
「なんのために」
「私は警視庁のマル暴刑事です」
「あんたに乗鞍くらいの肩書があったとしても、捜査を混乱させるくらいの動揺を与えられるとは思わない。警察にはいくらでも代わりがいるし、組織は個人の感情に沿った捜査はしない」
涙があふれてきた。母はどこかで生きていて、いつか会えることを願っていた。向島が十八歳の時の子供だ。母が何歳だったか知らないが、産むことは困難だったに違いない。それでも産んでくれたことに感謝を伝えたかった。
「殺されてるなんて。病気や事故で亡くなってるならまだしも」
「ごめん。やっぱ言うべきじゃなかった。運転を代わろうか」
「いいえ。教えてくれてありがとうございました。今仲さんに頼めば、母が殺害された事件の概要がわかりますよね。犯人も」
藪は首を横に振った。
「事件は迷宮入りしている」
私はとうとうブレーキを踏み、路肩に停車した。
「やっぱり言うべきじゃなかったね。あんたは捜査に集中できなくなる」
「いえ。母のことは一旦忘れます」
誓は目元を擦った。アイメイクが目の中に入って少ししみる。
「本当に大丈夫か」
「私は動揺していません。矢島の双子がなにをしに上京してきのか、なんとなく見えてきました」
藪が片眉を上げる。
「私の母親の情報を小出にしてきた。これをカードにして、私から向島の動向を知ろうとしたのではないですか」
「なにそれ」
「矢島も向島の動向がわからないんですよ」
「だいぶ飛躍した推理だ」
「娘である私は居場所を知っていると思った。だから私に接触しようとした。私の母の情報がカードになると思ったんでしょう。手打ちなんかするつもりはなく、泉を煽ってあの場は適当に終わらせるつもりだった」
「その推理に則ると、矢島の双子は向島と連絡が取れていないことになるじゃないか」
「だからあちらも焦っているんですよ。そういう理由だったら、海竜将の遺体が六本木ではなく隅田川に遺棄された筋が通ります」
「向島は本家吉竹組の若頭だ。盃を交わしたはずだ」
「すでに裏切っているのかも」
「関東吉竹組についたということか」
「その可能性はあります。しかし末端までその情報が伝わっていない。だから町田双蛇会の蛇沼は向島一家を襲撃してしまった」
「怒った向島は稲峰の襲撃に出たというわけ?」
「だからあれは彼じゃない。向島を嵌めようとする誰かがいるのかも」
「向島を嵌めようとしている勢力はどっちだよ。本家か関東か」
わからない。誓は頭を掻きむしった。
その日の晩は町田署の女子仮眠室で横になったが、暗闇の中で目を閉じると、顔も知らないのに実母の輪郭が浮かび上がり、涙があふれてきた。向島にメッセージを送る。
『お父さんにそっくりの男が稲峰を襲撃したよ』
既読はつかなかった。
『お母さんの話を矢島の双子から聞きかじった』
すぐに既読がついた。向島も動揺している。
『お母さん、殺されたんだってね』
既読はつかなくなった。
『悲しい。会いたかった』
お父さんのせいで殺されたの?
ヤクザの恋人ともなればトラブルに巻き込まれやすかっただろう。当時、向島はすでに決死十四人衆として汚れ仕事をしていたから、報復として母が殺された可能性だってある。
二時間待ったが、向島から返信はなかった。母のことですら無言を貫くのか。
誓は布団を出てジャージの上にダウンジャケットを羽織り、町田署の冷え切った廊下に出た。多摩地区は都心よりも寒い。しかも大雪の夜、町田市の気温はマイナス四度まで下がっていた。
誓は煙草を吸いに喫煙所に行った。今仲がスマホを見ながら煙草を吸っていた。
「いつ戻ってたの」
「ついさっき。新横浜で下車やから町田まですぐや」
「お疲れ様でした」
誓は労い、隣に座った。今仲がじっと誓の横顔を見る。
「今日はどこで寝とったん」
「女子休憩室」
「僕は駅前のビジネスホテルを取ったで」
大阪府警の刑事だからか、警視庁の所轄署内の仮眠室を使いづらいらしかった。彼は変なところで気を遣うタイプだ。来るか、と言わんばかりに今仲が誓の顔を覗き込んだ。
母親の殺人事件の資料を見たい。おそらくは育ての父、桜庭功が事件を担当していたはずだ。そうでなければ、誓を養子に引き取ることにはならなかっただろう。父の担当した事案の資料をあたれば、母の事件がわかるはずだ。
「えらい物欲しそうな顔しとる」
今仲が誓の髪を撫でた。確かに欲しいが、体ではなく情報だ。今日は全く性欲がない。
リノリウムの床にスリッパの音がパタパタと聞こえてきた。隣の布団で寝ていたはずの藪が寝癖を揺らしてやってきた。
「こんなところでいちゃつくな。すぐ来て」
「どうしたんですか」
「要町で暴行傷害事件発生。被害者は救急搬送されたんだけど、身元が分かるものを持っておらず、本人も名乗らない」
今仲がスマホで場所を調べている。
「豊島区よ。要町は池袋の隣り」
「ああ、池袋」
どんな街かイメージはついているらしい。
「ヤクザがらみですか。豊島区といったら吉竹組系列の暴力団はなかったはずですが」
「被害者の男、左腕がないそうよ」
誓は息をのんだ。
「着衣は黒いダウンジャケットに黒のスラックス。フルフェイスのヘルメットが現場に転がっていた」
町田双蛇会の稲峰会長を襲撃した犯人と全く同じ格好だ。
「向島春刀ということですか」
今仲が目を血走らせた。藪は首を横に振り、誓を見た。
「人相が全く違うそうよ。ただ、左腕の断絶も含め背格好はよく似ている」
都心は冷たい小雨が降っていた。ときおりみぞれが混じる程度だ。片腕の男は千駄木にある日東医科大学附属病院に運ばれたという。現場を見る前にどうしても本人と対面したい。病院に直行することになった。
「町田双蛇会が警察より早くヒットマンを見つけて襲撃したんでしょうか」
誓はため息をついた。藪も疲れた様子だ。
「それにしても、向島春刀と背格好が全く同じ男がいたなんて、現実的にありうるか」
「影武者だったのかもしれません」
誓は思い切って意見した。
「前々から変だなとは思っていたんです。彼の内偵資料を何度も見返しましたけど、向島が外出するとき、数歩下がってボディガードや運転手がつく場合と、向島を押すほどくっついて警備するときと二パターンあったんです。そのおしくらまんじゅう警備の時に必ず向島は豚まんを買って帰るんですよ」
誓よりも長く向島一家を内偵してきた藪が即座に言う。
「向島は中華が苦手だよ。よほどの相手との付き合いじゃない限り、食べない」
「向島には影武者がおったか。警察にバレんよう、影武者が出るときはガードを固めて内偵の刑事から見えにくくなるようにしたんやろな」
今仲がうなった。藪は鼻で笑う。
「片腕の影武者なんて、どっから見つけてきたの。漫画じゃあるまいし、そうそういない」
日東医科大学付属病院は文京区の閑静な住宅街にある。深夜ということもあって周辺道路の交通量は少ないが、病院の駐車場は警察車両であふれ、正面玄関に人が詰めかけて騒然としていた。
「こんな深夜に集まりすぎや。マスコミか」
誓は目を凝らす。山城拳一の姿が見えた。
「山城がいます」
歩道に乗り上げて停車し、誓は運転席から飛び出した。正面玄関は自動扉が開きっぱなしで、警察やガードマン、ヤクザと思しき男たちが言い争いをしてた。
「おい、お前らなにやっとる」
今仲が関西弁でどやした。迫力のある罵声に暴力団員たちもひるんだようだ。山城をはじめ、向島一家の構成員が八人もいた。藪が怒鳴りつける。
「あんたら向島一家だろ、何人で集まっているんだ。暴対法違反で現行犯逮捕するぞ」
山城が代表者のような顔で前に出る。
「まあまあ、すぐ帰るから」
手下の者たちに、自宅に帰るように指示を出している。玄関前にはあっという間に人がいなくなった。誓は山城の眼前に立つ。
「探していたんですよ。向島一家の銃乱射事件以降、地下に潜っていたようですが」
「潜ってませんよ。事務所を閉鎖されたんです。行き場所がないだけで自宅にいた」
山城は表情一つ変えず、嘘をついた。
「自宅にはいませんでしたよね。同棲なさっている芸妓さんに確認しましたよ」
今仲が割って入った。山城は激昂する。
「府警がしゃしゃるな。俺の女になにした、え」
彼は元世界チャンピオンだがジュニアフライ級、今仲の方が体が大きい。中型の猛犬のような危なっかしさはある。
「とにかく病院にいられたら一般の方の迷惑です。なにしに来たんですか」
誓は咎めた。
「ここに運ばれてきたやつの容体はどうなんだ。面会させてくれないか。心配だ」
やはり片腕の被害者は、向島春刀の影武者か。つまりは向島一家の構成員だ。
「ガイシャとは知人なんですね」
藪が確かめた。山城は唾を地面に吐いた。
「わかった。帰るよ。双子の親分が上京していたんだろ。俺も手打ちには賛成だ。こんなのは早くおしまいにしてほしい」
山城はその場を立ち去った。地下鉄はまだ動いていないのに、駅に向かう。
誓は藪と今仲に目くばせして、すぐ追尾に入った。
山城は地下鉄の入口シャッターが下りているのを見るや、引き返してきた。誓も慌てて引き返し、物陰に隠れる。山城は誰かと通話をしながらブルゾンのポケットに手を突っ込み、オラオラと坂を下っていく。
東京下町育ち、両親は小さな町工場を経営し教科書を印刷していた。山城は小学校時代から暴力事件を起こしてばかりで同級生を何人も不忍池に沈めたと豪語する。小学校四年生のときに、熱々のワンタンスープの入った大鍋をひっくり返して担任教師に大やけどを負わせ、「小学校をクビになった」というのが彼の最も古い武勇伝だ。昭和三十年ごろの話で、真偽は不明だ。
十六歳で鑑別所に入っている。親や親戚から縁を切られ、十八で娑婆に戻ってからは繁華街で喧嘩を繰り返した。
ボクシングの興行に関わっていたヤクザと仲良くなり、ジムオーナーを紹介された。入門後、彼はたったの三年でスターダムにのし上がり、世界ジュニアフライ級のチャンピオンになった。
いま不忍通りで山城はタクシーを拾った。誓の連絡で駆けつけた内偵担当の捜査員たちが、車両で追尾を開始する。
誓は、要町の襲撃現場に向かっている今仲に合流した。藪は病院に残っている。今仲がハンドルを握っているが、ナビが親切に道順を教えてくれるので、迷う様子はない。
助手席で佐々岡雷神に電話をかけた。山城が曳舟ボクシングジムへ行く可能性を考えたのだ。彼はいまバイト中だろう。休憩時間にでもすぐ電話をくれと留守電に吹き込んだ。今仲に尋ねる。
「ガイシャと話はできたの」
「いや。集中治療室で面会謝絶。袋叩きにされて頭部が陥没しとる上に、右腕を撃たれとる。所轄の聞き込みによると、近隣住民が四発、発砲音を聞いとった」
「町田双蛇会の報復ね。稲峰も四発発砲されている」
稲峰へのカチコミは二日前だ。卓球のラリーのような速さで報復が起こる。
「こんなに目まぐるしく死傷者が出る抗争を、東京は経験したことがない」
「大阪もやで。吉竹組はどちらかというと地下に潜って悪さするタイプやったからな」
決死十四人衆がいい例だろう。
ヤクザのマフィア化が一気に進んだのは、二〇〇〇年代後半から二〇一一年にかけての暴力団排除条例だ。それよりずっと前、一九九二年の暴力団対策法で吉竹組は地下に潜り始めていたのだ。
「誓ちゃんが生まれるちょい前か。お父さんは忙しかったやろな」
今仲の言うお父さんとは、桜庭功のことだ。
「平成六年から十年あたり、府警にも極秘に誕生したチームがあってな。その名も決死三十人衆。お父さんが筆頭や」
マル暴刑事の精鋭を三十人集めて、吉竹組の暗殺集団の内情を暴こうとしたらしい。
「だが頓挫した。何せ決死十四人衆は東日本進出のために作られた暗殺部隊やから、関西では動かん。お父さんらは関東では身動きが取りにくいやろ。世話になった人もたくさんおったらしいが、特に警視庁と神奈川県警は塩対応やったらしいわ」
親切だったのは埼玉県警と千葉県警らしい。群馬や栃木県警はのんびりしていて、歩調が合わなかったと嘆いていた。
「私、父が十七の時に亡くなって、母と上京しとるやんか」
誓は自然と関西弁になった。
「母が頼った知人というのが、父がお世話になった埼玉県警のOBの人。そこの奥さんが赤羽で喫茶店の経営を任せられる人を探しとったの」
「お奥さんもお母さんも、思い切ったな。いきなり新天地でオーナーか」
「二十年以上専業主婦で、夫が急死やで。就職するツテも貯金もなんもない。家計はずっと火の車やったらしい」
「エスに金を使っていたんやろな」
「そうやね。母は大変やったと思うけど、父の悪口を言ったことは一度もない」
血の繋がりもないのに、最後まで完璧に実母を装った育ての母を思い出す。
「マル暴捜査に理解があったんやな」
以前、父を知る府警の刑事から、育ての母が流産を繰り返していた、と聞きかじったことがある。桜庭功は恐らく捜査の末に誓を見つけ、引き取った。母にとってはどんな血であろうと待望の赤ん坊だったのだろうか。だから一ミリの迷いもなく誓に愛情を注いでくれた。
「誓、って変わった名前やな。由来はなんや」
「それが、知らんのよ」
子供時代に尋ねたことはある。そのたびに両親はカラッと笑った。
“忘れたわ、誓がおむつ穿いてたころのことなんぞ”
“そらそやな”
誓も笑い飛ばし、自分の名前の由来について深く考えたことはなかった。
向島春刀と、殺された母親が一生懸命に考えてつけた名前なのだろうか。
スマホが鳴る。佐々岡雷神だ。
「ごめんね、バイト中に」
「いや。バイト休んでる」
いつもより低いトーンで雷神は応えた。最後に会ったとき、挿入させないことをひどく怒っていた。まだ引きずっているようだ。
「どうしたの。怪我でもした?」
「ちょっと、おなかが痛かったんだ」
小学生みたいな理由を述べた。
「こんな夜中に、なに」
「いますぐジムに行けそうかしら」
曳舟ボクシングジムは二十四時間営業だ。
「山城が来たら様子を窺ってほしい。いまの時間に雷神が行くと目立つかな」
「そんなことはないよ。バイトがないときは夜でもジムに行くこともあるし」
「タクシー代はあとで出すから。お願いしていい」
「わかった」
ふて腐れてはいたが協力してくれそうだ。
電話を切る。今仲が深刻そうに切り出してきた。
「二人きりやし、ちょっと変な質問するけど、正直に答えてや。なんで僕と寝た」
「好みのタイプだから」
標準語で即答したら、今仲は黙り込んでしまった。
「つきあいたいとかそういうんじゃない。いまそれどころじゃないから」
「それはわかっとるけど」
「主導権を握りたいというのもあった。今仲さんが情報だけ抜き取って手柄をかすめ取るようなせこい刑事かもしれないと疑っていたところもある」
「それは僕も同じやから、別にええよ」
「なんでそんなこと聞くの。僕と真剣につきおうてくださいとか言うつもりだったの」
「ちゃうで。申し訳ないけど、僕もそういうつもりはなかった。ただ誓ちゃんは尻がデカいやろ。僕は巨乳は苦手やけど尻の大きい女が好きなんや」
「知らんわ、ボケ」
笑って吐き捨てた。今仲も笑う。
「そういう気の強いところも、好みのタイプやったから。寝たいと思うた」
しばし、車内に沈黙が降りる。
「なにを言いたいわけ」
「若いころ、マル暴刑事になりたてで必死やったころがあってな。目をつけとったヤクザがケツ持ちしとったピンサロを内偵しとったら、そこで働いとった子に惚れられて、情報を流してもろた」
「へえ。ヤッたの」
「渋々な。でも正直、苦手なタイプ。めっちゃ整形しとんねん。鼻筋ピーン、目頭ドッカーン、おっぱいもシリコン入れすぎてパツパツで青筋が立っとる」
「超人工的」
「ほんま苦手なタイプ。せやけどどうしても欲しい情報があってな、彼女に誘われるまま、ホテルに入ってセックスしたんや」
今仲はため息をはさんだ。
「欲しい情報は取れたし、射精もした。一石二鳥と思うやろ。違うんや。次の日から頭痛と吐き気が止まらん。医者に相談したらPTSDと言われたわ」
「レイプされたわけでもないのに」
「しかも男やで。恥ずかしかった。でもあるんやと。表に出んだけで」
今仲は小さなため息をついた。
「やっぱり、なにかと引き換えにしょうがなくするセックスは心に傷を作る」
雷神との危うい関係を、今仲は見抜いている。どんなに欲しい情報があっても、生理的に受け付けない相手とはセックスをするな、と言っているのだ。