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第二章 乱射(承前)

 十四時、昼食に隅田川沿いの定食屋に入った。店内はすいていて、店員も注文を取るやいなや厨房に引っ込んだので、誓は本家吉竹組周辺のチャート図を描いたノートを開いた。
「向島一家は本家のどの組に警備を頼みますかね」
 警視庁管内には本家吉竹組系列の組織が三つある。
「荒川区の箕面組はなさそう。高齢化が激しくて最年少ですら還暦だった」
 親分は米寿だったか。
「いまどきの高齢者を舐めたらあかんで。向島一家も、総長に次ぐ武闘派は山城やろ」
「さっきの聴取じゃ若頭にも噛みつきそうだったわね。七十一歳とは思えない獰猛さよ」
「ただ、いまは左手の小指がありませんし、実戦能力は未知数ですよ」
 誓は首を傾げた。今仲が、山城が指を落とした理由を尋ねた。
「かわいがっていた弟分のためでしたよね」
 誓は藪に確認した。藪が頷く。
「薬物に手を出して向島から破門を言い渡された弟分がいてね。山城が指を落としたことで一度は破門を免れたんだけど、そいつは結局また薬物に手を出して破門されてる」
 藪は名前を思い出せないようだ。今仲はチャートにある別の二つの組織を指さした。
「こいつらはどうや」
「浅草のもり組は代々、三社祭で店を出しているテキヤ系で十人しかいない超穏健派。協力できるのは兵站くらいじゃないかしら」
 誓は答えた。藪も続ける。
「残りは深川ふかがわ組だね。こっちもテキヤ。深川八幡祭りに密着していて、構成員は六十人と大所帯だけど、暴力事件を起こしたのは昭和六十二年が最後」
 藪はスマホで小森、深川組を担当する暴力犯捜査三係の係長に電話をかけた。すぐに電話を切り、内容を伝える。
「やっぱり、小森・深川両方の組に本家から向島一家に警備の要請が出ていたみたい」
 誓は前のめりになった。
「それ、いつの話ですか」
「昨日だよ。六本木の顔面遺棄事件が抗争の狼煙だったのは間違いない。小森組も深川組も警備要請は断ったと言っている」
 警察の手前、嘘をついたのかもしれないが、抗争に及び腰なのは事実のようだ。
「対象を首都圏に広げましょうか」
 注文していた親子丼が届いた。藪と今仲は五分でたいらげた。誓はがんばっても早食いだけは慣れない。爪楊枝を吸っている二人に説明した。
「本家吉竹組系列で関東に拠点を置く武闘派暴力団といえば、横浜の市松いちまつ組でしょうか。大宮の玉波たまなみ会も八十年代の浦和抗争で死者を出している武闘派です。ただ向島一家とは縁が薄いと言わざるを得ません」
 誓は向島一家のチャート図を見せた。
「実は向島春刀の舎弟関係がよくわかっていないんです」
 舎弟は兄弟盃を交わすことで関係が成り立つ。親子ほどの深い縁ではないが、兄弟分になにかあれば黙っていないのが任侠だ。
 向島ほど旧吉竹組の中で頭角を現していた若手はいない。舎弟がいないはずがないし、隠す必要もない。人脈があるほどヤクザはメンツが立つし、自分を大きく見せることができる。
「旧吉竹組の幹部連中を見渡しても、やっぱり向島春刀だけは特殊やったしな」
 今仲がぼやく。
「突出して若かったですからね。抜擢されたときはまだ四十歳だった」
「それだけやない。向島は十代後半で決死十四人衆に呼ばれて地下に潜っとったらしい」
 そんなに早いうちから殺し屋だったのかと誓は絶句する。十代後半という無邪気な青年期に、当時西日本最大だった暴力団の拷問暗殺仕事を請け負うなど、令和のいまでは考えられない。
「決死十四人衆は珍しい。殺しを生業としとるが、従来のような一人殺してナンボという世界やなくて、月給制やったらしい」
「給料をもらっているヤクザなんて初めて聞いたよ」
「殺し専門のヤクザになれと親分から言われて“うぇーいかっこええやろ”と思うヤクザなんかおりません。殺しは基本しとうない、せいぜい人生に一度きりというのが普通や」
「よほど猟奇趣味があるとか、イカれてるような奴は別として、今日も来月も来年も殺し続けなくてはならないなんて、いくら武闘派ヤクザでもメンタルはやられるね」
 お父さんはそんな仕事を十代のうちからやらされていた。辛かったのではないか。
「そやから組で確実に面倒を見るという意味も込めて月給制にしたんやろ」
 誓は食欲がなくなっていった。
「向島春刀が頭角を現わし始めたのは向島一家の跡目を継いでからの話でしたっけ」
 今仲が藪に尋ねた。
「そうね。もともと初代のボディガードで顔は知られていたけど、腕がなかったから跡を継ぐとは思わなかった。私たちマル暴はざわついたもんね。出自がわからなかったから」
「目立ち始めたのが三十代後半。数年後には日本最大の暴力団の若頭補佐に抜擢や。兄弟盃を交わせる同年代は立場的にずっと下になってしもた」
 なるほど、と誓は納得する。
「早々にえらくなりすぎたから、向島を慕ってくるヤクザがいても親子盃になっちゃいますね」
 だから向島一家はシマが小さいわりに所帯は大きい。構成員の数は初代のころの三倍で八十人にまで増えた。一方で舎弟関係は決死十四人衆時代に築いたのだろうか。当然、地下人脈だろうから、警察は把握できない。
「横浜の市松も大宮の玉波も親の親が同じというだけ。向島一家のために血を流すか微妙なところやな」
 よっしゃと今仲は立ち上がった。
「本家は全力で向島一家をバックアップするはずやから、府警の方でもいくつか武闘派の枝の組に目をつけとるんです。上京の動きがないか、確認しときます」
 団体で上京しそうなことが判明したら、すぐさま身動きを封じるべく、策を講じなければならない。
「本家側が向島一家をどうバックアップするのか目星をつけるのも必要ですけど、関東側のどの組織が報復をしかけそうか、目星をつける方が早いかもしれませんよ」
 誓は関東吉竹組のチャートを見せた。
 海竜をやられた八王子双竜会は今日明日にも特定抗争指定が出る予定だから、報復は難しいだろう。
「気になるのは、超武闘派の若頭、本多義之が率いる本多組でしょうか」
 埼玉の繁華街のシマを巡り、本家系の玉波会とは浦和抗争を繰り広げたこともある。今仲が指をパチンと鳴らす。
「誓ちゃん、ええとこ目をつけたな。僕も本多義之が気になる。もともと本多組は拠点が岐阜やった。平成初期に突如関東に進出し、浦和抗争で玉波会のシマを奪った。玉波会が吉竹組の傘下に入ったのはその直後や」
「本多は決死十四人衆の一人ですか」
 その可能性が長らく指摘されている、と今仲は頷いた。本多は真冬だというのに特定抗争指定が出た日にワイシャツ一枚で袖をまくり上げていた。ざっくりと手の甲から肘まで切り裂かれた腕の傷は、十四人衆時代に負ったものだろうか。
 藪は別の組を指ではじいた。
「町田双蛇そうじや会はどう。名前がそっくり」
 東京都町田市の繁華街を仕切る愚連隊系の組織だ。成り立ちも八王子双竜会に似ている。
「ただ、八王子双竜会と町田双蛇会の構成員たちは横の繋がりがありません」
 舎弟関係がありそうな組員はおらず、親同士も無関係だ。親の親が関東吉竹組の泉組長というだけだ。
 藪は今度、暴力犯捜査五係の係長に電話をした。五係は主に東京都多摩地区の暴力団の内偵を担当している。藪が電話を切った。
「ないってさ」
「判断するのが早すぎませんか」
「かつて町田双蛇会は八王子双竜会とひとつの組織だったんだ。その名も多摩双愛そうあい会」
 だが九十年代に内紛が起きて分裂したそうだ。八王子は『竜』が、町田は『蛇』がすみわけする形で落ち着いたらしく、いまだに二つの組織はライバル関係にあるという。
「でも仲たがいしていたのは九十年代ですよね。海竜の世代は知らないはずです」
 五係から藪のスマホに組織図のデータが届いた。町田双蛇会は会長の稲峰いなみねりようをトップに組員は八人しかいない。誓はそのうちのひとりの氏名に目が行った。
「妙な渡世名のヤクザがいますよ」
 蛇沼へびぬましようと名乗っている。本名は和田わだ元春もとはる、四十歳とあった。
「海竜将とよく似た名前ですね」
「よし。町田に乗り込もう」

 首都高から東名高速を使い、一時間弱で町田市に到着した。この界隈は駐車場つきのファミレスが多い。今仲をガストで待たせ、藪と誓は町田の繁華街に繰り出す。JR町田駅と小田急線町田駅が乗り入れる周辺は雑居ビルが所狭しと並び、賑やかだ。ビルの谷間の向こうには丹沢山系が見える。
 町田双蛇会の本部はまほろ坂の一角にある雑居ビルの最上階にあった。
「えらい驚きましたよ。都心の刑事さんが町田くんだりにまでいらっしゃるなんて」
 事務所には会長の稲峰しかおらず、そそくさと給湯室で茶の準備をしている。消費者金融をシノギに三十人の構成員を抱える八王子双竜会と違い、町田双蛇会は小所帯だ。暴排条例以降、シノギを失って足を洗う者が続出したらしい。八王子双竜会はフロント企業に消費者金融を置き、闇金から特殊詐欺へと変貌を遂げたような節がある。稲峰は愚連隊あがりらしく顔や腕に古傷があり、純金のネックレスを下げていたが、シノギの確保はあまり上手ではなさそうだ。
 藪が応接室の窓辺に立つと、稲峰がブラインドを開けてくれた。目の前は壁だった。
「あら。七階なのに」
「お向かいに五年前、タワーマンションができてしまったんですよ。施工会社を訴えてやろうかと思いました」
 ヤクザなら施工会社にカチコミしそうなものを、ずいぶん落ちぶれた発言だ。
「昔はそこの窓から丹沢山系が、晴れた日には富士山も見えて気持ちがよかったんです」
 このビルは最上階の町田双蛇会本部以外、すべてのフロアにパブや風俗店が入っていた。フィリピン系、台湾系、ロシア系と外国人女性を売りにしたあやしい店が多い。世界中の女たちからむしり取ってなんとか組織を維持しているのだろう。
「早速ですが、六本木がきな臭いのはご存じですよね」
 稲峰はソファに座った途端に肩を落とす。
「参っているんですよ。我々としちゃ抗争なんてこんな迷惑な話はないです」
 本音か、刑事を前に煙に巻いているだけか。旧吉竹組が分裂した際、関東側についたいきさつを尋ねた。
「このビルを買う際に、泉さんにひと肌脱いでもらったんです。暴対法のすぐ後でしたから、土地の持ち主がヤクザに土地を売りたがらなかった。そこを泉さんが丸く納めてくれたんです。そういう経緯がありましたし、本家の双子とは面識もありません」
「八王子双竜会の海竜将というヤクザはご存じですか」
「さあ、初めて聞きました」
「そちらに蛇沼将という男がいますよね」
「誰ですかそれ」
「本名は和田元春。行方不明の海竜将と渡世名がよく似ていますが」
 稲峰は不愉快そうに手を振った。
「あいつね。とっくに破門にしてますよ」
 稲峰は鍵付きの引き出しから蛇腹折りの破門状を持ってきた。日付は五年前だった。
「蛇沼には駅前のメイド喫茶を任せていたんですが、裏で売春させて上前をはねていたんです」
「そんなことをしたら昔のヤクザなら丹沢に埋めるか相模湖に沈めるかでしょう」
 藪が調子を合わせて言った。
「ええ。ですがアイツもまだ若かったから破門としておきました。五年前の話ですよ。いまどうしているか知りません」
 稲峰は終始腰が低くて、抗争を前にしたヤクザらしい血の気がない。
 藪と誓が町田双蛇会の聴取を続けている間、今仲に蛇沼将の現住所に飛んでもらった。市内のアパートに一人暮らしをしているそうだが、不在だった。
「管理人や近隣に訊きましたけど、介護職についているようですわ」
 堅気になったのか。町田双蛇会が八王子双竜会の仇討ちで向島一家に報復する可能性は低そうだ。

 夕方、三人で麻布署の捜査本部に顔を出した。『六本木交差点部分死体遺棄事件』という垂れ幕がかかっている。初動体制は刑事部が二十名、マル暴が三十名入っている。
 捜査会議が始まった。防犯・監視カメラのリレー解析を担当する刑事捜査支援センターが興味深い報告をした。
「銅像にガイシャの顔面を張り付けたのは二人組の男性です。午前中、自宅にいるところを逮捕しています」
 顔面遺棄は雑魚の仕業とみて、藪は興味がなさそうだった。隣の今仲も同じだ。
「犯人二人はマエなしの無職、独身男性。いわゆるトクリュウの部類やな」
 匿名・流動型犯罪グループの略称だ。SNS等で集まったずぶの素人にはした金で犯罪をやらせる。指示を出しているのは特殊詐欺グループでケツ持ちに暴力団がいると言われている。
 誓は監察医務院の報告書を読んだ。海竜の顔面は剥がされてから少なくとも一か月以上経っている。犯人に繋がる物証は出ていない。
 サイバー犯罪対策課の技術者が報告する。
「闇バイトを募集したSNSアカウントは削除されており、追えませんでした」
 今仲がIT技術者をにらむ。
「もうちょい粘れんのかよ。これやと本家の仕業と認定できん」
 ある程度の証拠がないと、向島一家の特定抗争指定が遅れることになる。

 向島一家への特定抗争指定作業が遅々として進まず、十日が経った。捜査を終えた深夜、誓は今仲のウィークリーマンションを訪ね、気晴らしにセックスをしていた。二人のスマホがほぼ同時に鳴る。
「呼び出し」
 誓は上に乗って腰を振っていたが、動きを止めてスマホを取ろうとした。今仲に阻止され高い声で懇願される。
「頼むで、もうちょっとやから……」
 ひっくり返されて激しく攻め込まれる。緊急呼び出しが気になり、誓は冷めていた。今仲が誓の首元に熱い吐息を吐くのをよそに、誓はスマホを取った。相手は藪だった。
「誓ちゃん、いま家か」
「出先ですが」
 射精で震える今仲の背中を撫でてやりながら用件を聞く。
「隅田川にビニールシートに包まれた遺体が流れてきたのを屋形船が発見した。腐敗が激しい上、顔面が剥がされていた。目ん玉もひとつなくなってたそうよ。金髪のツーブロック。推定年齢は三十代」
「海竜ですね。すぐ行きます」

 誓はタクシーで台東区柳橋に向かった。遺体を引き上げた屋形船は、隅田川と神田川の合流地点に近い柳橋の護岸に係留されていた。コンクリートの岸壁の一角がビニールシートで覆われている。深夜一時近く、周辺は寝静まっていて、やじ馬は少ない。
 隅田川の対岸は墨田区両国で国技館の屋根がぼんやり見える。川の上流は曳舟だ。
 誓は護岸の固定梯子から岸壁へ降りた。先に現場に向かった今仲が、ビニールテントの中から飛び出してきて、川面に嘔吐した。上から下から忙しい男だと思ったら、藪も飛び出してきて隣で吐いた。
 乗鞍がハンカチを口に当てて、出てきた。
「桜庭か。見ない方がいい」
「見ます。私を襲撃した男の顛末ですから」
 あの日の屈辱を思い出し、頭が熱くなる。誓はビニールテントの中に入った。海竜は腐り果て、輪郭がひとまわり小さくなっていた。衣類や所持品がないせいか、彼を見分する人はいない。監察医務院が検死解剖のため引き取りに来るのを待っているらしかった。
 いつもなら仏に手を合わせる誓だが、今日はまじまじと頭部をのぞきこんだ。
 確かに左の目玉がない。川に遺棄した際にどこかへ転がり落ちてしまったか。腐り始めた全身の皮膚が川の水に濡れてぬめぬめしている。顔面を剥がれた頭部は頭蓋骨がむき出しになっていた。頭髪は残っている。金髪のツーブロックが乱れてはいたが、耳の脇に腐り始めた皮膚が残っていた。
「遺棄犯はまたトクリュウだ」
「もう判明しているんですか」
「ああ。海老名インターチェンジまで荷物ごとトラックを受け取り、隅田川にかかる白鬚橋から荷物を遺棄すれば十万円の報酬だそうだ。金はトラックの中にあり、指示を出した人間とは接触していない」
 トラックは盗難車両だった。白鬚橋から毛布に包まれた遺体を遺棄しているところを、巡回中だった警察官に見つかり、事情聴取を受けていたようだ。遺棄物が遺体と判明し、緊急逮捕したそうだ。
「なぜ遺棄場所が六本木ではなく、隅田川なんですかね」
 誓の疑問に、乗鞍も首を傾げた。
「本家の仕業なら、関東のシマの近くに遺棄しそうだがな。先日の六本木のように」
「白鬚橋は向島一家のシマです。向島一家を煽っているように見えるんですが」
「なんのために煽る。向島は本家の矢島組長と盃を交わした疑いがあるんだろう」
 先日のカレーの出前が一人分多かったことにしろ、向島春刀は昨年秋に大阪で姿を消したあと、曳舟に戻っているのではないか。
「今回は曳舟にいる向島を煽った。早く泉の首を持ってこい、ということなのかも」
「全く違った見方もできるぞ。泉の余裕の態度からして、向島の立ち位置は警察の読みとは違うのかもしれん」
「向島がついたのは本家ではなく、関東側だというんですか」
 誓は乗鞍の大胆な見方に驚いた。
「泉にとって孫分の海竜なんか雑魚だ。誰に殺害されたところでなんとも思わないだろ」
 抗争は始まっている。だがキーパーソンがどちらについているのかわからない。

 

(つづく)