第五章 情報提供者(承前)
竜田マコは二十五歳、東京都狛江市で母親と暮らしていた。小学生のころに両親は離婚している。マコがアダルトビデオの撮影に臨むことはほとんどなく、毎晩のように西麻布や六本木で遊び歩いている。週末は母親と二人で多摩境にあるコストコで買い物を楽しんでいた。母子の仲はかなりよさそうだ。大量に買った品物をクルマから運び入れる母子の様子を、捜査車両の中から確認した。藪がつぶやく。
「娘がAV女優デビューしたことを母親はどう思ってるのかな」
「まあ、多様性の時代ですからね」
「何でも多様性で片付けるなよ。案外、母親は娘の言いなりなのかも」
「どういう意味ですか」
「せっせと薬物を手に入れてきてくれる娘ってこと」
「母親の方が薬物中毒者だというんですか」
確かに、マコの母親は頬がやつれて目が落ちくぼんでいる。誓は双眼鏡の倍率を上げて母親の顔を拡大して見た。
「歯もボロボロですね」
「意外と多いんだよね、普通の主婦が薬物に溺れちゃう例は」
翌日からターゲットを母親に変えて、内偵することにした。母親はマコのように出歩くことはなく、自宅からほとんど出ない。竜田家のはす向かいにある月極駐車場に協力を仰ぎ、捜査車両で張り込みする。
母親の生活はシンプルだった。午前中に家事を片付け、夕方から近所のファミリーレストランでアルバイトをした。特に、不特定多数と接触があるファミレスでは人数を増やし内偵を強化したが、一か月経っても大野との接触は見られなかった。
桜も散り終えた四月中旬、乗鞍が竜田母子の内偵中止を検討し始めた。誓も主婦の単調な毎日の内偵に飽き飽きしていた。まだマコの方が、行動がバラエティに富んでいるので緊張感があった。暇すぎて、誓は雷神にメールをした。
『ガルシアとの対戦、どうなった?』
佐々岡雷神がマニラに発ち、一か月が経っていた。ドリームマッチを前に、体づくりや挨拶などで忙しくしているらしい。山城一派にマニラで消されるのではないかと心配していたが、徒労に終わったようだ。
雷神からすぐに返信が来た。運営とガルシアのエージェントとの交渉はうまくいっておらず、まだどう転がるかわからないらしい。
『一旦、日本に帰国して調整し直そうかとオーナーと話しているところだよ』
戻ってきてくれた方が安心できる。山城と接触しているかどうかも確認した。
『それが全然、メールも電話もこない。こっちから山城さんに連絡してみようか』
大事な試合を控えた雷神に無理はしてほしくなかった。今仲のエスだった料理人も、無理がたたって消された。
今仲は大阪に戻ったきりだ。情報提供者の行方不明事件を立件して犯人を逮捕したいだろう。だが死体がないと警察は動けない。死体を探すため長期休暇を取り、毎日どこかの山で穴を掘っているとかいう話まで入ってきた。大阪府警は新たな連絡要員を警視庁に送り込む準備をしているらしい。
誓は雷神にメールを送った。
『山城に連絡はしなくていいよ。練習に集中して』
『誓さん、お願いがある。マニラの滞在費用がかさんで、帰りの航空券を買う金がなくなっちゃった』
雷神が金の無心をしてくるのは初めてのことだった。
『いますぐ振り込むよ。いくら?』
『五万円あればなんとか』
口座番号を教えてもらい、誓はスマホの銀行アプリで振り込みを完了した。
マコの母親が玄関から出てきた。時刻は十三時五分だった。スズキのワゴンRに乗る。誓もエンジンをかけた。
「いつもの買い出しですかね」
「今日はどこのスーパーかな」
マコの母親は狛江通り沿いにある回転寿司店の駐車場に入った。
「珍しい。この一か月で昼に外食するのは初めてです」
藪と誓も捜査車両を停め、回転寿司店に入った。マコの母親はカウンター席に座る。藪と誓は店員に協力を求め、彼女を目視できるテーブル席に陣取った。
入店したばかりでしばらく動きはないだろう。誓は好物のホッキ貝やたこ、えんがわのにぎりをいっきに注文した。
「軟体動物好きなのか。私は炙り派」
のんきに言った藪の表情が一瞬で刑事の顔に戻る。マコの母親の隣に男が座った。
大野太だ。二人は並んで座っているが、他人のふりをしている。タッチパネルで注文したメニューを淡々と口にしていた。
藪はすぐさま乗鞍に報告を入れた。薬物売買の現行犯を押さえられたら、罪状が増えるので勾留期間が十分に確保できる。
だが寿司の回るカウンターが邪魔で二人の手元までは見えない。
「場所を移動しますか」
彼らの背後は壁だ。あの場所を行ったり来たりするのは不自然だろう。誓は防犯カメラを捜した。二人が座る席に向いたカメラはなかった。
乗鞍の判断を待っている間に、大野は席を立ってしまった。寿司二貫と卵焼きしか食べていないが、セルフレジで金を払っている。
「薬物のやり取りは確認できず。ガラは押さえるよ」
藪が乗鞍に報告している。誓は藪の隣に移動して、藪のスマホに耳を近づけた。乗鞍は許可しない。
「ダメだ、とにかく張りつけ。追尾しろ」
誓はスマホを奪い、乗鞍に直接訴える。
「犯人の逃走車両から奴のDNAが出たんですよ。これだけで充分しょっ引けます」
「罪状はなんだ。クルマに乗ったことはあるが、あの日は使っていないと言い逃れできてしまうぞ。勾留する理由がなければ即釈放、警察が自分に目をつけているとわかった大野は地下に潜るだろうな」
藪がスマホを奪い返した。乗鞍に決断を迫っている。
「地下に潜っていたやつがようやく浮上してきた。チャンスは逃さない」
藪は電話を切り、管轄の調布署に応援を要請した。誓を顎で促す。その目はもう大野をロックオンしている。大野は駐車場にいた。古い年式のアルファロメオが愛車のようだ。エンジンをかけ、その脇で煙草を吸っていた。甲州街道を流していた自ら隊が三分で現着できそうだと連絡が入った。
大野は煙草をポイ捨てし、アルファロメオの運転席に座ろうとした。
「よし。行くぞ」
藪と誓は大野を取り囲んだ。大野は服装や目つきで刑事と悟ったようだ。顔つきが一気にこわばった。目が落ちくぼんでいるが眼光は鋭い。白髪交じりの頭をオールバックにしている。ボッテガ・ヴェネタのセカンドバッグを持っていた。
「警察」
藪は桜の代紋を見せた。誓も一歩遅れて、身分証を示す。
「なんで来たかわかるね」
大野は周囲をきょろきょろと見た。女刑事二人だけだ。自ら隊はまだ来ない。大野は逃走を考えていそうだ。大野の沈黙に緊張が高まっていく。一秒が、一分にも一時間にも思えた。カラスの鳴き声にすら大野は神経をとがらせている。やがてパトカーのサイレンが聞こえてきた。応援の自ら隊がもうすぐ到着するだろう。
マコの母親が店から出てきた。大野が刑事に囲まれていることに気が付かぬ様子で、ワゴンRに乗り込むのが見えた。
恐らく彼女はいま薬物を所持している。現行犯逮捕した方がいい。だがいま女刑事二人しかいない。誓は藪に目で訴える。
「大丈夫、竜田家にも手配の連絡を入れた」
マコの母親は自宅前で御用となりそうだ。じっとこらえるようにしていた大野が、低い声で尋ねる。
「ヤクの件か」
「そうだよ」
藪が答えた。大野は長く深いため息をつき、その場にしゃがみこんだ。天を仰いだその表情に安堵が見える。
「バレてましたか。すんません。まさか女刑事二人組に捕まるとはなあ」
大野は顔をしわくちゃにして微笑み、こめかみをかいた。
「ダメってわかってたんですけどねえ、僕にも生活があるし、転職もうまくいかないしで、結局元の仕事に戻っちゃった。あの母子はいい金づるだったんですよ。一回の接触で二人分稼げるし」
途端に饒舌になる。忠虎を殺ったのはコイツだと誓は直感した。
殺人罪に問うべく、誓は藪と共に大野を駒込署へ移送した。駐車場で乗鞍が待ち構えていた。いきなり雷を落とされる。
「なんでここへ連れて来る。狛江市で逮捕したのなら、管轄する調布署でいったん身柄を拘束するのが筋だろうが」
「なにをそんなにお冠なんだよ。大金星を逮捕してきたんだよ」
「なんの容疑で連行しているつもりだ」
「本人は薬物だと思っている」
「売買の決定的瞬間は押さえたのか。所持品検査は」
「パケは出てない。現金は五万円所持」
調布署がマコの母親のクルマを止め、捜索をした。パケは出なかったと一報が入っていた。あの母親はそ知らぬ顔をしていたが、帰り道でパケを処分したのだろう。
「とにかく奴は自供している」
「端緒は麻布署の防カメ映像だろ。麻布署でまずは絞れ」
まどろっこしい乗鞍に誓は噛みついた。
「あいつは忠虎射殺のホンボシですよ。これまでの抗争の中でいちばん狂暴な犯人の身柄を押さえたんです」
「だからこそ慎重にガラを取らないと、どこで足をすくわれるか知れない。事実、もう弁護士が調布署に来ている。ガラがないんで抗議しているそうだ」
誓は仰天した。藪も目をひんむく。
「まさか。やつの身柄を拘束してから、大野は誰とも連絡を取っていなかった」
「山城一派だろうよ。大野の近くにいたんだ。目の前でマッポにつかまったから弁護士を先に管轄所に送り込んで牽制しているんだ。薬物売買の疑いで身柄を拘束したのに、いきなり本丸のコロシを攻めたら、不当な別件逮捕だと弁護士が騒ぎ出すぞ」
別件逮捕は違法捜査にあたる。送検できたとしても、裁判でこの点をつつかれると、この後の取り調べや裏取り捜査までもが違法捜査の目で見られ、公判が維持できなくなる。
藪は引き下がった。
「わかったよ。麻布署に連れていく」
「まずは薬物売買を立件し、送検しろ。日東医科大学事件の話も、逃走車両からやつの毛根が見つかったことも、絶対に口にするな。そんなことはおくびにも出さずに取り調べろ」
夕方にも大野の身柄を麻布警察署にうつした。移送中にぺらぺらと自白していたから、通常逮捕の手続きの準備をしていた。大野は取調室に座るなり、一転、容疑を否認した。取り調べの前に弁護士が接見したから、入れ知恵されたのだろう。
藪は怒りで声を震わせている。
「大野さん、おふざけは困りますよ。あなたは母子に薬物を流していたんですよね。移送のさなかでそう言ったじゃないですか」
「なんの話だか。どうして俺はここに拘束されているんですか。帰らせてください」
大野が腰を浮かせた。誓はクラブ『カーネギー』の防犯カメラ映像を見せる。
「ここで薬物を渡そうとしたんですよね」
「いいえ。渡していません」
「ではコースターの下に隠したものはなんですか」
「コースターの裏側が気になっただけです」
誓は件の映像を一時停止し、拡大した。
「なにか白っぽいものを指に挟んでいたのがはっきり映っています」
「えー、僕には見えません」
滅茶苦茶だった。
「ちゃんと見てください」
「一か月以上前のことなんか忘れたよ」
大野はこれが別件逮捕だったとわかっている。この薬物売買を認めたあと、殺しの取り調べが待っていると感づいているのだ。
大野は破門されているが、破門状が出たのは三年前の十月だ。警察は破門から五年間は保留期間として、暴力団構成員とみなす。裁判所も同等の判断をするので、一般の一・五倍から二倍の刑期を食らう。特定抗争指定暴力団の構成員を、一般人もいる病院で射殺した大野は、殺しを認めた途端に死刑台送りになる可能性があった。
薬物売買の否認を続けながら、警察の手の内を探っているはずだ。日東医大事件との関与をつかんでいるのか、証拠を持っているのか。言い逃れできないとわかれば早々に自白した方が裁判で考慮され、死刑は免れるかもしれないと考えるだろう。大野との心理戦が始まる。
大野は薬物売買すら認めず、取り調べは平行線のまま、最初の勾留期限である四十八時間を迎えた。延長の手続きの際には乗鞍が竜田家の家宅捜索令状ももぎ取ってきた。藪と誓は竜田家に入り、生理用品のタンポンの中から覚せい剤のパケを発見した。母親は尿検査に引っかかり、母子を薬物使用と所持の疑いで逮捕した。
逮捕を知らされるや、大野は完落ちした。
「全く、最初から認めていれば心証は悪くならなかったのに」
藪は逮捕状を読み上げると時刻を確認し、逮捕を言い渡した。
「心証って言うけどさ、俺はこれで前科三犯よ。どうせまた実刑食らっちゃうんだろ。あーあ。保釈も無理だよねぇ」
呑気にあくびをした大野だが、目は鋭く誓と藪の様子を観察している。
「これから地検で取り調べが始まります。移動です」
「わかってるよ」
かったるそうにサンダルの足を引きずり、大野は移送されていく。
「この後は拘置所だろ。私物はそっちで持って行ってくれよ。世話になったな」
慣れた調子で大野は言った。藪も誓もなにも答えなかった。
移送を留置官に頼み、誓と藪は駒込署の日東医大事件の捜査本部に向かった。
連絡係の丸田が大野太に関する大量の資料を並べて、待ち構えていた。
「生い立ちを調べてみるに、泣き落としが効きそうな気はしましたね」
丸田が千葉県警の事件資料を示した。平成八年、十七歳の少女がラブホテルで薬物の過剰摂取の末、死亡した事件だった。
「この少女は大野の妹、佳代です。テレクラで知り合った会社員とラブホテルに入った二時間後、薬物の過剰摂取で死亡しました」
佳代が発見されたときの所持金は三百円しかなく、地元の公立高校のセーラー服を着たままだった。
「会社員はその場で逮捕されましたが、尿検査をしても薬物は出なかった」
会社員は、テレクラで知り合った少女が薬物を持っていたのであって、自分は所持していないし摂取したこともなく、投与を強要もしていないと訴えた。室内に争った様子はなく、佳代も乱暴された形跡はなかった。会社員は売春防止法違反にすら問われず、薬物の件でも逮捕は見送られ、釈放された。
「当時、大野は二十五歳、千葉県市原市の土木業者で働いていましたが、捜査をやり直せと何度も千葉県警に怒鳴り込んでいます」
大野はその一年後に、市原市に拠点を置く愚連隊系の小さな暴力団、市原和田組と盃を交わした。
「市原和田組のシノギは薬物です。大野はこのころから薬物売買に手を染めるようになったと思われます」
最愛の妹を薬物で亡くしているのに、どうして薬物売買に手を出したのだろう。
「向島一家や山城との接点はどうですか」
「市原和田組の和田組長が山城の大ファンで、曳舟ボクシングジムを開設する際も、資金援助していました」
「山城との接点はこのころからだね」
「はい。興味深いのはこちらの案件です」
妹の死から五年後、千葉市内に住む女子大生が錦糸町のヘルス店で売春防止法違反で逮捕された事案だった。
「この女子大生、完全にシャブ漬けにされていたんです。大野の妹の死の間際に一緒にいた会社員の、一人娘でした」
「大野の復讐か」
「そう思います。このヘルス店を洗ったところ、薬物を流していたのは大野でした」
「すごい執念ですね。妹を死に追いやった会社員を同じ目に遭わせるために、自ら薬物売買に手を出したってことですか」
このためにわざわざ薬物をシノギにしていた市原和田組と盃を交わした、ともいえる。
「千葉県警と警視庁に分かれた事件なので、二つの事件の関連性は誰も捜査していませんが、そう見るのが自然ですよね」
大野の一回目の逮捕のころ、すでに市原和田組は解散しており、山城の紹介で大野は向島一家と盃を交わしていた。向島は薬物売買を知るやすぐさま破門しようとしたが、山城が共に指を詰めたので一度は温情を与えた。
「山城は、この一回きりで大野が薬物売買から足を洗うと信じていたんだろうね。妹の復讐を完遂したわけだから」
山城が指を詰めてまで大野をかばった理由もわかる気がした。無念の死を遂げた妹のために執念で復讐を遂げた大野の姿に、心打たれたに違いない。
「ところが大野は薬物売買にまた手を出した。シノギが他に見つからなかったんでしょうね」
大野は高校を中退し、土木業者に就職している。賭博の経験も少ないだろうからそのカンも働かないだろう。向島一家は常盆をやめてネットカジノに移行しているころだった。大野にはITの知識もなかったはずだ。
「賭博関係のシノギは長続きせず、薬物売買の方に戻ってしまったんでしょう」
誓は考え込んだ。
「取り調べで妹の佳代の話を持ちだしたら、大野はどう反応しますかね」
逆鱗に触れるか。良心を取り戻すか。
薬物事案の聴取が終わったと検事から電話が入った。通常なら東京拘置所に移送する。
「いや、駒込署に移送してください」
藪は検事に言った。いよいよ大野と正面衝突だ。