第四章 報復(承前)
片腕の男が銃撃された現場は豊島区要町のはずれにある要町一丁目の交差点だった。東西に要町通り、南北に山手通りが交差する。深夜で人通りはないが、交通量はそれなりにある。周辺は雑居ビルが立ち並び、北西の角はマンションになっていた。
ここの住民が男たちの言い争う声や発砲音を聞いていた。
交差点の角には広々とした歩道がある。南西側の一角に規制線がはられ、鑑識作業が行われていた。
今仲は鑑識車両のすぐ後ろに捜査車両を停車させた。誓は規制線の中に入り、池袋署の刑事に話を訊く。
「目撃者証言によると、ガイシャを含め三人の男が怒鳴り合いながらもめていたそうです。そのうち発砲音がして被害者が倒れ、二人の男が路肩に停めていたクルマに乗って逃げた」
誓は交差点の信号機を見上げた。
「監視カメラに映っていましたか」
「ええ、ナンバーはすでに解析しましたが、盗難車でした」
「弾はどうです」
今仲が尋ねた。
「ガイシャの腕にあたったのは貫通しておりました」
横断歩道を渡った反対側の電柱の、信号機を操作する警視庁所有の操作盤に銃弾がめり込んでいた。鑑識捜査員がピンセットで取ったところだった。虫眼鏡で刻印を確認し、読みあげる。
「7・62×25mm」
トカレフか、と誓と今仲の声が揃った。日本の裏社会で最も流通している。旧ソ連が開発し中国で安価に製造されたタイプだ。
「蛇沼の装備を思い出してみ。やつは米国製のM4カービンをぶちまけとった」
稲峰が撃たれたのはトカレフだ。
「関東系のヤクザが所持していたものと系統が違う」
「するとあの片腕のヒットマンは本家系のヤクザにやられたということなの」
やはり向島一家は関東吉竹組についたということなのか。
今仲はせわしなく首を横に振った。
「そもそもあの片腕のヒットマンが向島一家のヤクザとは限らん」
「けれど山城は心配してわざわざ病院に来ていた」
池袋署の刑事に尋ねたが、被害者の指紋、DNA型に前科はなかったという。
「これは抗争の一部と分類していい事案か、微妙なところやな」
藪から一報が入った。山城は徒歩とタクシー移動を繰り返して追尾の刑事を翻弄し、錦糸町の繁華街に消えたそうだ。
翌朝、誓は曳舟ボクシングジムに向かった。雷神にメールを入れて、近くのファミレスでの朝食に誘う。雷神はジムに来てほしいと返信してきた。
『仮眠室で寝てる。山城さんは来なかった』
それならばいま雷神に喫緊の用はないが、見張ってくれていた礼はしなくてはならない。ボクシングジムは明け方のいま人が殆どいないだろう。誓は警戒した。
『お願い。ファミレスに来て』
『やだ』
誓は仕方なく、雷神との接触をあきらめて出勤することにした。どこへ行くべきか、考えあぐねる。要町でのリンチ事件の捜査本部が設置される池袋署か。稲峰会長の襲撃があった町田署か。銃乱射事件があった向島署か。海竜将の遺体遺棄事件を扱う麻布署か。
もはや誓はパンク状態だった。
『嘘。ダダこねてゴメン。怒った?』
雷神から返信が来た。
『怒ってないよ。いまからジムに行くね』
誓は気を取り直し、ファミレスの扉の前で引き返した。徒歩で曳舟ボクシングジムに向かう。
誓は目立たぬよう、受付でレンタルウェアとシューズ、グローブとヘッドセットを一式借りた。着替えてリング脇に向かう。雷神はリング脇のベンチに猫背に座り、スマホをいじくっていた。声をかけるまで誓に気づかない。
「そんな恰好して来るとは思わなかった」
「ひと汗流したくて。スパークリングの相手、してくれる」
「やだよ」
いつ山城が入ってくるかわからない。刑事がいるとバレぬよう着替えたのに、雷神は力ずくで誓を膝の上に乗せ、キスをねだった。誓は慌てて顔をそむけた。
「ねえ、人がいるよ。こんなところで」
「誰もいないじゃん。リングの陰になってるし。受付からはそもそも見えないし」
「だけど営業時間中だよ」
雷神はかまわずに唇に吸いつき、トレーニングウェアをまくしあげて、ブラジャーを引き下ろし、乳首を口に含む。
「ちょっと」
誓は雷神を押しのけて膝から下りた。雷神は唇を離す直前に乳首を噛んだ。
「痛いッ」
乳房を押さえて、思わず背を丸めた。
「なめんなよ、俺のこと利用してさ」
酒臭い。雷神はジムで飲んでいたようだ。
「なにかあったの。ジムで飲酒なんて」
「春の試合が流れたんだ」
雷神は目を潤ませる。
「対戦相手が拒否してきやがった。俺みたいなランキングが下のやつの相手は時間の無駄だってさ。クソが。どいつもこいつも俺をバカにしやがって」
「私はバカになんてしてないよ。試合と今回のことは関係ないし」
「今回のことってなんだ」
「だから、山城さんの情報よ」
誓は声をひそめた。
「本当にここには来なかったのね」
雷神は誓の顔を見据えてくる。なにか知っている顔だ。
「町田で片腕の男がなんかやらかしたんだろ。俺、そいつが誰だか知ってるよ」
「教えて」
つい食らいついてしまう。
「ホテル行こうよ、誓さん。そこで教える。ここでは言えない」
誓は今仲の言葉を思い出していた。男だろうが女だろうが、情報取りのためのセックスは傷つく、と話していた。だが片腕の男の情報がどうしても欲しい。誓は賭けに出た。立ち上がり、雷神を見下ろす。
「痛かったよ。思い切り噛んだでしょ」
「思い切りやったつもりはないよ」
「痛かった」
誓は荒々しく重ねた。
「ごめんなさい」
「片腕の男のことを教えて」
「ホテルで言う」
雷神が反抗的なまなざしを向ける。誓はあきらめて、曳舟ボクシングジムを出た。
集中治療室にいる片腕の男の、詳しい容体が入ってきた。銃弾は右腕を貫通し致命傷にはなっていなかったが、全身を殴る蹴るの暴行を受けており、右側頭部を陥没骨折していた。右顎の付け根も複雑骨折している。救急搬送時は意識がなかったそうだ。
いま意識は回復しているが、頭部二か所を骨折しているため、一度の面会時間は五分だけと厳しい制限がついた。顎が外れてしまっているのでしゃべることはできない。器具で頭部を固定されているから、頷いたり首を振ったりの意思表示もできないらしい。筆談はできるか医師に尋ねたが、銃が貫通しているのは右腕だ。左腕はそもそもない。刑事の聴取に耐えうる状況ではなかった。
藪もいまやあの男は向島春刀の影武者だったと考えている。千住が殺害される直前、一人前多くカレーの出前を頼んでいたのも、事務所内にもう一人いたからだ。あれは向島春刀ではなく、影武者の分だったのだ。
藪は向島一家の幹部を中心に、「暴力団入店禁止の店に入った」「知人名義の銀行口座を作った」とこれまでため込んでいた切り札を出し、建造物侵入罪や詐欺罪で逮捕して締め上げた。
だが、あの片腕のヒットマンの素性をゲロする構成員はいなかった。
雷神と寝ればすぐにあの男の身元はわかるだろう。だが誓は決断できなかった。今仲の忠告が効いていた。自分は尻軽だから、情報のためなら喜んで男に跨がれると思っていた。実際はそんなタフでも鈍感でもなかった。
誓は思い立ち、神楽坂に立ち寄った。向島の影武者は外出のたび、よくこの店で豚まんを買っていた。
神楽坂の店で豚まんとあんまんをひとつずつ購入した。店主に尋ねる。
「こちらにたびたび通っていた、片腕の男のことを知りませんか」
「ああ。常連さん。ヤクザでしょう」
やはり知っていた。
「彼と会話をしたことがありますか」
「いや、いつもは絶対にしゃべらない。ディスプレイを指さして、指で何個か示すだけ。周囲をこわもての男たちが固めていてね」
「どんな小さなことでもいいのですか、気が付いたことはありませんか」
誓は警察手帳を示した。
「片腕の男性は付き人のような男たちと流暢な日本語で会話をしていました」
流暢な、という言い方に引っかかる。
「その男は外国人だということですか」
「おそらく中国の人だと思う」
具体的な国名が出てきて、驚く。
「うちのバイトに香港出身の子がいるんです。片腕の男の対応をしていたとき、数を間違えて怒られたことがあってね。でもジェスチャーだけじゃわかりにくいでしょう。彼女は腹が立って、相手はわからないだろうと故郷の言葉でファックユーって呟いちゃった」
「その言葉が伝わったんですか」
「そう。激怒した。あちらの言葉でなにやら言い返していた。慌てて取り巻きの男たちに引きずり出されていましたよ」
以降はこの店に一度も来ていないという。
日東医科大学病院でタクシーを降りた。
集中治療室の受付で、担当医師の手があくのを待つ。横長のフロアにベッドが八つ、横一列に並ぶ。ベッドの足側は総ガラス張りになっている。幾人かの家族が心配そうにガラス越しに中を窺っていた。中に入るには医師の許可が必要だ。片腕の男は右から二番目のベッドにいた。頭部を固定され、ぼんやりしている。
彼の郷愁を誘うような話をして心を開かせたいが、中国は広すぎる。もっと情報が必要だ。担当医師がやってきた。誓は面会のお願いをした。
「覚醒時間が長くなってきましたし、容体も落ち着いています。頭部の腫れも引いてきているので、山は越えたと思います」
面会できそうだ。誓はほっとする。
「左腕の断絶部分の縫合はかなり古いです。推定年齢は三十代後半から四十代ですから、幼少期に腕を切断したと思われます」
中国が貧しかったころ、農村であり余った健康な子供の手足を同情をかうために切断して物乞いをさせていた事例がある。
そんな人物だとしたら、なぜ東京都心でヤクザの抗争の真っただ中にいるのか。
誓は滅菌室で手を洗った。緑色の使い捨てエプロンをかぶり、マスクをして集中治療室に入る。
明るい天井に、無機質な医療機器の音が淡々と鳴っている。人口呼吸装置や心電図が稼働する音がどこか物悲しく聞こえる。
片腕のヒットマンのベッドは頭部がギャッチアップされている。誓と医師を交互に見ていた。医師が男と目線を合わせた。
「こんにちは。おかげんはいかがですか」
看護師が頭部の固定器具を右に傾けた。男性が視線を合わせやすいように、慎重に頭部を右に向けてやっている。
「痛くないですか」
男は痛そうに目を細めた。すぐに目を見開き、医師と看護師を交互に見た。会話はできないが、意思がはっきりしていることがわかる。日本語も理解しているようだ。
「警察の人が見えています。辛くなったら、すぐに看護師に訴えてください。隣にいます。無理はしなくていいですからね」
彼は瞬きをひとつした。肌の青白さが向島春刀とよく似ているが、目が丸くて弓なりの眉毛をしている。小鼻が大きく、顔つきは向島と似ても似つかない。
誓は丸椅子に腰かけた。
「はじめまして。警視庁の桜庭と申します」
男は下を見て、再び誓を見た。目で会釈したのだろうか。素直なまなざしだ。
「お名前を言えますか」
すぐに医師が耳打ちした。
「顎を骨折していますから、難しいです」
誓は頷き、男に謝った。イエスかノーで応えられる質問をする。
「あなたは日本人ですか」
彼は答えを拒否するかのように、視線を落とした。
「ノーですか」
瞬きが一回あった。
「あなたは中国の方ではないですか」
目を逸らしてしまった。
「豚まんが好き?」
男は驚いたように誓を見た。目尻が下がり、口角が少し上がった。苦笑いしたのだろうか。
「中国の方ではないかと言っているお店の人がいました」
男は覚悟を決めたのか、誓と目を合わせたまま、ゆっくりと瞬きをした。
「向島一家の構成員ですか。つまり、向島春刀と盃を交わしていますか」
男は瞬きをして、なにかを訴えるように誓を見つめている。
「町田双蛇会の稲峰会長に発砲しましたか」
細かい瞬きがあった。動揺している。どう答えたつもりなのか、判別がつかなかった。
「要町の交差点で襲撃されましたね」
今度ははっきり瞬きをした。
「相手は、町田双蛇会の構成員でしたか」
男は目をかっと見開いて誓をにらんだ。イエスではない。ノーなのか。質問に怒っているようにも見える。心電図の音が速くなってきた。
彼の喉からくぐもった音がした。なにか唸っている。顎を動かせないので、言葉にならないのだろう。誓は聞き耳を立てた。
「うー、うう、うー、うー」
わからない。医師がアドバイスする。
「顎は動かさないでください。でも舌を動かせば、聞こえやすくなります」
「とぅーすーきーてぃー」
少し聞き取りやすくなったが、男の目から涙があふれてきた。
「とぅーすーけぃ、てぃー」
「それはあなたの名前ですか」
男はじれったそうに首を動かしてしまった。激痛がしたのか、苦悶の表情を浮かべる。
「落ち着いて、ちゃんと聞きますから」
医師が穏やかに言い、看護師は彼の肩をさすり、落ち着かせてやる。
「とぅーすーけーてー」
「助けて?」
男の目が悲壮にかっと見開かれる。どこかで棚が倒れたような大きな破壊音が聞こえてきた。ガラスの外に見える廊下には誰もいない。点滴バッグの中の液体が振動で揺れている。大きな音は止まず、近づいてくる。
ガラスの向こうの廊下を看護師が左から右へ走っていくが、悲鳴を上げて戻ってきた。警備に立っていた警察官が拳銃を構えながら、入れ違いに左へ向かう。
「動くな、撃つぞ」
発砲音がした。誓が思わず目を伏せた瞬間に警察官の姿は見えなくなった。右手からフルフェイスのヘルメットをかぶった、全身黒ずくめの男が現れた。
こちらに銃口を向けている。
「伏せて!」
誓は隣にいた看護師を助けるのが精いっぱいだった。彼女の上に覆いかぶさり、床に四つん這いになる。発砲音と、銃弾がガラスを貫通する音が連続する。やがて鈍器でガラスを打ち破る音が三度した。ガラスの破片が降り注ぐ。
その間も発砲音は止まない。悲鳴があちこちから上がっている。黒いスニーカーの足が誓のすぐそばに降り立ち、ガラスを踏みしめながら発砲し続ける。薬きょうが周辺に飛び散り、金属音を立ててリノリウムの床にはじかれた。