「八重子さんは、ほんとうはお骨をどうしたいんですか?」
わたしが訊ねるのと同時に、追加注文したピザが運ばれてきた。八重子さんは「あたたかいうちに食べましょう、ね」と話をそらすように笑う。
「栄輝はお骨を取り戻したいのね、ってパーキングエリアで言ってましたよね。八重子さんはどうしたいと思ってるんですか?」
八重子さんが答えないので、わたしは「今ここで答えなくてもいいですけど、親子で話し合ったほうがいいと思いますよ」とだけ言って、あとはピザを食べることに専念した。
「ところでわたしたちって、今どのあたりにいるの?」
暖がスマートフォンの地図アプリを立ち上げ、このへん、と教えてくれる。わたしたちが今いるファミリーレストランと大宮家とは徒歩で行けるぐらいに近い。
国道に沿うように川が流れているらしい。土手がジョギングコースになっているらしくこの窓からも車越しに走る人びとの姿が見えた。
「ちょっとあそこ、歩いてみませんか?」
暖はむこうのテーブルを見やって、まだ時間かかりそうだし、と言った。
「そうね、そうしましょう」
わたしたちは立ち上がった。栄輝たちに「散歩してくる」と言い残し、会計を済ませて外に出ると、なぜか栄輝たちもまたあわてたように出てきた。
「話しててよかったのに」
「そういうわけにはいかないよ」
栄輝は手の中でぐしゃりとレシートを丸めている。
「あ、もう大丈夫です。ありがとうございました」
麗菜さんが胸の位置で両手を振った。
「話はついたの?」
八重子さんが声をひそめて彼女に問う。
「栄輝くんの気持ちは、よくわかりました」
ということは、別れることに納得したのだろうか。やけに晴れ晴れとした顔をしているが。
わたしたちはファミリーレストランの駐車場に車を残したまま、ぞろぞろと川に向かって歩き出した。河川敷の草がざわめくように揺れる。川の流れは遅く、水は淀んでいる。釣竿を手にした人の姿がちらほら見えるが、この川でいったいなにが釣れるのか、見当もつかなかった。
気がつくと、麗菜さんは八重子さんと並んで歩いていた。川を指さして、なにか話している。その後ろには暖がいる。栄輝は故意に歩調をのろくしているようで、それに合わせて歩くわたしとともに、どんどん彼らから引き離されていった。
「あの人、いくつ?」
パーキングエリアで姿を現した時の思いつめた様子とは打って変わって、声を上げて笑っている麗菜さんを見ながら、わたしは栄輝に訊ねた。
「二十八歳」
「嫌いになったの?」
年齢については即答した栄輝だったが、この質問には口ごもる。
「父の葬儀に、親戚の子どもが来てて」
しばらく歩いたところで、栄輝が話しはじめた。わたしは黙って、その続きを待つ。
「みんなちゃんと座ってるんですよ。びっくりした」
栄輝も小さい頃、同じように親戚の葬儀に連れていかれた。ずっと走りまわっていたことを覚えている。最終的に「おとなしく座っていなさい」と忠雄さんに押さえつけられて、それが嫌で泣いて暴れたことも。
押し殺した声で、お前がちゃんとしてないとお父さんがみんなに文句を言われるんだぞ、と栄輝を叱った。
「ねえ、こういうのって、遺伝するのかな」
「こういうのって?」
じっとしていられないこと、周りの子が普通にできることができないこと、と栄輝はひどく早口で言った。遺伝なんかしないよ、とは言えなかった。よく知らないけど、する可能性はじゅうぶんあるのだろう。
「遺伝したら、だめなの?」
わたしの問いに、栄輝は「そりゃあ」と声を裏返らせた。
「そりゃあ、そうでしょ。母だって苦労してた。ぼくみたいな、ぼくみたいな子ども……あなたも知ってるんじゃないんですか」
「苦労ねえ」
わたしは前方の八重子さんを見た。思い出せるのは楽しそうな顔ばかりだ。ただ、それは「だからだいじょうぶだよ、八重子さんはあなたのお母さんになれて幸せだったはずだよ」と言う根拠にはならない。八重子さんの苦しさは八重子さんにしかわからない。
ただ、栄輝が麗菜さんにたいして「母親のような苦労をさせたくない」と思い、それを理由に別れを選んだというのならば「ずいぶん先回りするね?」という話ではある。
「それとも、傷つきたくなかったのかな、ただ単に」
「なに? なんの話?」
わたしが考えたことの後半だけ口に出したために、栄輝は混乱している。
「うん。納得いく別れ、なんてないのかもねって話」
「わけがわからない」
「いいよ、わからなくて」
恋人でも、それ以外でも、誰かと別れた時には心には穴が空く。あるいはふちが欠け、ひび割れる。
もとのかたちには戻らない。
八重子さんたちとこうして再会しても、同じことだ。わたしの心は、もうけっしてもとのかたちには戻らない。
かなしいことだとは思わなかった。傷こそが、欠損こそが、その人をその人たらしめる。
八重子さんが立ち止まり、こちらを振り返った。
「あのね、栄輝。聞いて」
八重子さんが、なにかを伝えようとしている。それを察したように離れていく暖や麗菜さんとは逆に、栄輝は八重子さんに向かって歩いていく。
「聞くよ」
「大宮さんがお骨を持ち出した時……たの」
強い風が吹いて、言葉が肝心なところで途切れた。
「いえ、むしろ願っていた。どうかこれを運び出して、わたしの目に見えない、遠い場所に連れて行ってと、祈るみたいに思っていた」
「なんだよそれ」
「手放したいのよ」
八重子さんの声はいまや、叫び声に近かった。
「お願い。もう、わたしを解放して」
は、と栄輝は声を裏返らせ、激しく噎せた。
「勝手なこと言うなよ! 自分が勝手に、勝手にがんじがらめになったんだろ」
ふざけるな、と絞り出すように言い、その場にくずおれる。麗菜さんがあわてたように駆け寄ってきて、背中をさすっている。
八重子さんはこちらに背を向け、河川敷へと続く階段をおりていく。その気になれば追いつけるが、距離を保ったままその後を追った。振り返ると、暖と目が合った。こちらはまかせろ、と言うように一瞬栄輝たちを振り返ってから、大きく頷く。
八重子さんは草を踏み分け、歩き続けた。振り向きも、立ち止まりもしなかった。時折大きく肩が上下した。目的地は、たぶんない。でもどうしても前に進まずにはいられないような、どこか切実さのにじむ背中だった。
どれぐらい、そうやって歩き続けただろうか。八重子さんの身体が大きく傾いた。駆け寄って、その背中を抱きとめる。
「鳴海さん」
八重子さんはわたしが後ろからついてきていることに気づいていなかったようだ。驚いたように見開いた目に、わたしの顔がうつっていた。
「わたし」と、八重子さんは震える声で言った。
「言えたでしょう、ちゃんと」
「言えましたね」
「勝手なこと言うなよ、だって」
「まあ勝手なのは、ほんとうにそのとおりなので」
八重子さんが「勝手なこと」を言うために費やした長い長い時間を思った。耐え続けた痛みを思った。
「ねえ、こうしてると、あのオクラホマミキサーを思い出すわね。あれ、どんなふうだった?」
わたしは八重子さんの肩と腕を支えた姿勢のまま「そうですね」と応えた。
「ね、ちょっとやってみない?」
「ここでですか?」
嘘でしょ、とたじろぎつつも、八重子さんの手を取った。こうなったらもう、とことんつきあおう。
「左足から、二歩進むんです。つぎは右足から」
「そう。そうだったわね。思い出してきた」
犬を連れた人や、そろいのジャージを着た中学生たちが不審そうにじろじろこちらを見ている。河川敷でオクラホマミキサーを踊っているおばさんとおばあさんがいたら、わたしだってじろじろ見てしまうと思う。
栄輝が見たらきっとまた呆れるか、怒るかするだろう。なに考えてんだよ、どうかしてるよ、ふざけるなよ、と言うかもしれない。そのとおりだ。わたしたちは今、どうかしている。知らない街の河川敷で、なにひとつ解決していない問題をぜんぶ放り出して踊っているのだから。
心はもとのかたちには戻らない。過ぎた時間も、もう戻らない。だったら今だけ、ふざけて踊るぐらい許してほしい。そう呟いて、わたしは八重子さんをターンさせるために、腕を高く持ち上げた。