こんなに立派な家だっただろうか。南雲家を見上げながら、わたしはしばらく考える。はじめて来た時には「そんなに大きな家じゃないな」と思ったような気がする。いやあの時は、「いったいどんなお屋敷だろう」という期待のような、おそれのようなものを抱いていたせいで拍子抜けしただけなのかもしれない。
目の前に立つ南雲家は、たしかに大きくはない、だが重厚な面構えの、立派な家であることには違いない。二十歳のわたしは大きさばかりに気を取られていたけれども。『三びきのこぶた』の末っ子の家のように頑丈そうだ。煉瓦の家で、三匹はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。でも南雲家の人びとはどうだっただろうか。
インターホンを鳴らす前に、玄関のドアが開いた。事前になぐも製菓の公式サイトで写真を見ていたので出てきた瞬間に、栄輝だとわかった。わたしに向かって会釈をする。
栄輝は二階の窓からわたしの姿が見えたのでおりてきた、と言った。
「それで、すぐにドアを開けたんですか?」
なんと不用心な。あやしいセールスや勧誘の人間かもしれないではないか。
「歩きかたを見て、あなただとわかったんです」
わたしの歩きかたは、そんなにも特徴的なのだろうか。幼児の頃の記憶を一瞬でよみがえらせるほど? 近づいてみると、栄輝は暖よりも背が高かった。あんなにちっちゃかったのに、とうっかりウザい親戚みたいなことを言ってしまう。
「すみません、まだ断片的にしか思い出せなくて、あなたのこと」
「それは、そうでしょうとも」
無理もない。わたしは覚えているけれども。片時もじっとしていることができなかった。隙あらばピアノの練習から逃げようとしていた。タコのすべり台が好きだった。いちじくが嫌いだった。何度注意してもわたしを「鳴海」と呼び捨てにした。うちの子になればいい、とわたしに言った。
「でも覚えていることもあります」
「そう」
「鉄棒を教えてもらったこととか。ぼくはあなたのおかげで逆上がりができるようになったんですよね」
栄輝は記憶違いをしている。それはわたしの夫の功績だと伝えると、栄輝は片眉を上げた。
「この家に男を連れ込んでいたという話も聞きましたけど、まさか……」
連れ込んでいた。おやおやちょいと失敬だね? と言いたいが、ここは慎重に会話をすすめたい。
「逆上がりの練習のために連れてきただけです。みんながいる時にね」
「ほんとうに?」
「八重子さんたちの留守中に男を家にひっぱりこんでよからぬことをしていたとでも思ったんですか?」
「よからぬことってなんですか」
「さあ。今想像してるようなことでは」
栄輝は「想像なんて」と言いかけて咳きこんだ。耳が赤く染まっている。小型犬を連れた女性が通りの向こうから歩いてくるのが見えた。ご近所に知られたくないのか、栄輝は慌てたように「とにかく、とにかく」と、わたしを家の中に招き入れた。
玄関には腐った水の臭いが漂っていた。大きな花瓶にいけられた百合の花がくったりとうつむいている。通された和室に設置された祭壇を見て、なにかが足りないような気がした。でも、それがなんなのかはわからない。
遺影には、まだ元気だった頃の写真を使用したようだ。わたしの記憶にある姿と寸分違わぬ忠雄さんの笑顔がそこにある。いやどうだろう。笑顔なんか、ほとんど見たことがなかったかもしれない。
香典袋を置き、線香を上げ、両手を合わせる。お悔やみの言葉を述べようとしたわたしの言葉を遮って、栄輝はわたしに居間へ移動しないかと提案してきた。
居間のL字型のソファーは、以前とは違うものだ。テレビも、いくつかの家具も、昔と違う。忠雄さんが倒れた日のことを思い出さずに済みそうだ。
「家政婦さんには、しばらく休んでもらっていて」
自らお茶を淹れるつもりらしく、栄輝は居間を出ていった。ひとり残されて、無遠慮に室内を見まわした。一見片付いているように見えるが、よく見ると郵便物が束になってカゴに押しこまれていたりカレンダーが先月のままだったりと、生活の混乱ぶりがうかがえる。
やがて、栄輝が戻ってきた。色の薄い紅茶が、ティーカップではなくコーヒーカップに入っている。
「八重子さんは?」
栄輝は答えず、ソファーのLの端も端の、わたしからもっとも遠い位置に腰を下ろした。
大人になって、ちゃんと座っていられるようになったらしい。しかし、よく見るとスリッパをはいた左右の足がぱたぱたと小刻みに動いている。もしかしたらそれは、多くの人の眉をひそめさせる動作かもしれない。でもわたしにとっては、しみじみとなつかしい動作だった。
テーブルに無造作に置かれたスマートフォンが鳴り出した。電話番号とともに女性の画像が表示される。「れなれな」という登録名も、見るつもりはなかったのだが、ばっちり見えてしまった。
栄輝はスマートフォンを見もしない。
「出ないんですか?」
「ええ、出ません」
れなれなって誰? 恋人? なんで出ないの? けんかでもしてるの? などと、おばさん力を発揮して質問してみようか。あるいはわたしは席を外しますのでどうぞ電話に出てくださいなと提案してみようか。逡巡しているうちに音がやんだ。
「八重子さんは?」
わたしたち以外の人間の気配がまるきり感じられない。
「今は寝室で休んでます」
昨日、また夜中に家を出て行ってしまって、とやや小さな声で栄輝は続けた。
「二度目?」
「三度目です」
「忠雄さんが亡くなってから?」
栄輝の返事はない。指がテーブルの上で鍵盤を叩くように休みなく動き続けている。
「骨が盗まれてから」
「え?」
骨が盗まれたんです、と栄輝は繰り返す。さきほど祭壇を見た時におぼえた違和感の正体がやっとわかった。足りないものは、お骨だったのだ。
「どういうことですか?」
「父には、もうひとつ家があったんです」
「それは、八重子さんと結婚する前からつきあっていた女性のお家ということ?」
栄輝の目が一瞬、まるく見開かれた。
「母は、そんなことまであなたに話してたんですか?」
栄輝はいったいいつ、そのことを知ったのだろう。子どものうちに知るのと、大人になってから知るのと、どちらがより残酷だろう。
「わたしが八重子さんに聞いたのは、そういう女性がいる、ということだけです」
よくよく聞けば、「女性がいる」なんていうものではなかったらしい。二重生活、という言葉を栄輝は使った。ふたつの家庭を行き来しているような状態だったと。栄輝はその女性を「大宮さん」と姓で呼んだ。
「父が倒れた後、大宮さんが家に来たんです。あとは自分が面倒を見るから離婚してほしい、とその人は言いました。あなたたち夫婦は利害関係によって結ばれているのかもしれないけど、自分と忠雄さんは愛情で結ばれている、もうその人を解放してください、と」
穏当な相槌が思いつかず、結果として「うわあ」と声を漏らすという、最悪な結果になった。
「母はその要求を突っぱねたんです。この人はわたしの夫だ、と。そして二十五年間、父の介護を続けた。どうしてだと思います?」
「それは、もちろん忠雄さんのことを愛していたからでは」
愛、という使い慣れない言葉を用いたせいで、口がむずがゆくなった。
「違いますね」
栄輝の声が大きくなる。
「ぜんぜん違います。愛とかじゃない。母には父が必要だったんです。社長の座に置いておく必要があった。すくなくとも、ぼくが会社を継げる年齢になるまで」
ひどいのはどちらなんでしょうね、と栄輝が息を吐く。
「お母さんのしたことはまちがっていた、と思ってるんですか?」
わたしはほとんど色つきの湯のような無味無臭の紅茶を飲みながら訊ねる。ぼくは、と言う栄輝の声は震えていた。