九月もなかばを過ぎたというのに、夏の暑さがいつまでもしつこく居座っていた。アイスコーヒー一杯でいつまでも粘る客みたいだなと思ったら、十代の頃アルバイトしていた喫茶店に関するさまざまな記憶がよみがえった。ろくでもない客ばかり来る店だった。お冷のグラスに角砂糖を溶かしてちびちび啜る爺さんとか、ホール係の尻はいくらでも触っていいと思っているおっさんとか。
朝晩はずいぶん過ごしやすくなったとか秋の虫が鳴いているとか言ったって、暑いことにはかわりない。わたしはロッカーの扉を拭く手を止めずに、空いているほうの腕で額の汗を拭った。暑くて寒くてしんどくて忙しない。清掃業務っていうのはそういうもんさ、という思いはあるが、だからといって気が楽になるわけではない。上司のモリタは「この仕事のおかげで十キロ痩せた」と言っていた。「おかげ」とは、まったくおそれいる。
いつごろからかやたら感謝する人が増えたように思う。「出会いに感謝」とか「ご縁に感謝」とか、とにかくやたらめったら感謝する。でも労働に感謝する人間は、さすがにはじめて見た。ちなみにこの「何々を何々する人をはじめて見た」という表現、たいていの場合は対象にたいする呆れ、憐憫、嘲笑など、あまり愉快とは言えない感情をまとっているように思う。しかし、わたしの場合はほんとうに文字通り、そのままの意味で使用している。はじめて見た、という新鮮な驚き、場合によっては感動とともに口にしている。
モリタはわたしと違って心が美しい。たぶん、本気で労働に感謝しているのだろう。通り雨に降られても天に感謝するのかもしれない。おかげできれいな虹が見られました、通り雨に感謝です、とかなんとかSNSに投稿して、同じぐらい心が美しいフォロワーたちからいいねいいねされて、その「いいね」に感謝しながら月を眺め星に祈り、おだやかな気持ちで毎夜眠りについているのかもしれない。
この会員制の高級ジム『ヘルスアンドウェルネス』で働きはじめてもう五年になる。トレーニングルームおよびプールはホテルの最上階にあり、入会金はわたしの年収よりも高い。金持ちは泳ぐ。わたしは重たい水中専用の掃除機でプールの底のごみを吸う。金持ちはバーベルを持ち上げる。わたしは目を血走らせながら便器を磨く。金持ちはランニングマシーンの上で走る。わたしは交通費を浮かせるため、ふた駅分の距離を歩いて通勤する。不平等だ、などと文句を言うつもりはない。この世が不平等であることぐらい、小学校に入る前から知っていた。
気がつくと終業の時間を過ぎていた。急いで道具を片付け、従業員用のロッカールームに走る。着替えを終えて廊下に出たところで、モリタに出くわした。
「ちょうどよかった。田原さん、ちょっといい?」
「なんですか?」
わたしはおそらく、とっさに眉をひそめるかなにかしてしまったのだろう。
「ちょっと、そんな顔しないでよ」
モリタが悲しげに呻く。わたしは「すみません」と肩をすくめた。
心の中ではモリタ、モリタ、と呼び捨てにしているが、相手は直属の上司なので、ふだんはもちろん敬意をもって接している。モリタはわたしより四歳若く、双子の娘がおり、かつて落とした十キロの体重を管理職になってからの年月でしっかりと取り戻した丸っこいフォルムのボディを有している。
モリタはわたしを事務所に誘う。もちろん誘われなくても、どうせタイムカードを押すために行かなければならない。事務所には四つの事務机をくっつけた島があり、奥の衝立の向こうに合皮のソファーとガラスのテーブルがある。モリタはわたしにソファーをすすめた。客ではないので、お茶は出してもらえない。
「疲れてるだろうから、単刀直入に言うね。来月のシフト、ちょっと減らしていい?」
「シフトを減らす……? いったい、どうしてそんな非情なことを?」
いつのまにか自分の右腕に血が滲んでいるのに気づき、ソファーに血を落とさないように気を遣いながら訊ねる。仕事中、どこかで擦ってしまったのだろう。目にするまで気づかなかったのに、いちど傷を目にするときゅうに痛くなってきた。
モリタはこれ以上あなたを働かせると社会保険に入れなければならなくなるのだとか、他のパートとのかねあいが、とかなんとかもっともらしいことを早口でまくしたてた。それを聞いているとだんだん面倒くさくなってきて「あ、そうっすか。じゃあ辞めます」と言いたくなったけれども、未払いの家賃やその他諸々の支払のことを思い出し、口をかたく閉じた。
「でも、わたしにも生活というものがあるので。シフトを減らされるというのはちょっと」
「うん、わかってる。うんうんうん、わかってる、わかってるんだよ」
ぜったいわかってないだろ、と思うような早口だった。
「これ以上お給料が減ると、困るんです」
「うんうんうん、わかってるわかってる、でもね、こっちもね、余裕がないんですよね」
よほど必死なのか、モリタの額には汗が滲み、頬も赤らんでいる。モリタの言う「こっち」とは会社のことだ。モリタはすでに会社の一部なのだ。モリタが会社で会社がモリタで。『おれがあいつであいつがおれで』風に言ってみても、わたしの心は晴れない。状況も一切変化しない。
「そうだよね。田原さんも困るよね」
モリタはしょんぼりと肩を落とす。ぽちゃぽちゃとした体型で童顔というのはこういう時得だな、とわたしは思う。正当な権利を主張しているつもりが、いじめているような気分になってきた。
「わかりました。でも、減らすのはちょっとだけにしてほしいです」
わたしは壁のカレンダーと額に入った先代の社長の書『日々是好日』を眺めながら、ため息をついた。なにが好日だ、まったくよ。
『ヘルスアンドウェルネス』で働きはじめる以前は、商店街の惣菜屋に勤めていた。中年の夫婦が営む店だったが繁盛しており、従業員を六人も雇っていた。従業員は五十代の女性が多く、三十代のわたしは小娘扱いだったが、それが心地よかった。売れ残りのお惣菜を持って帰ることができるのもよかった。パートタイマー同士も仲が良く、平和だった。夫が厨房に立ち、妻が接客その他をとりまとめる。ずっとこの店で働きたい、そう思っていた。しかし妻が初老の客と道ならぬ恋に落ちてしまい、平和な世界とわたしの願いはもろくも崩壊してしまった。
ばれるのばれないのばれたの、別れるの別れないの別れられないの、すったもんだの末に夫が相手の男の家に乗りこんで包丁を振り回すことになった。けが人は出なかったが、噂が噂を呼び、客足は遠のいた。惣菜屋は閉店を余儀なくされた。
相手の男は毎日のようにハンバーグ弁当を買いに来ていた男だった。パートの従業員たちのあいだでは「ハン・バーグ侯爵」と呼ばれていた。灰色の髪に銀縁眼鏡、柔和な笑みを絶やさぬ上品な見た目の男であった。われわれパートタイマーにも親切だった。今思えば、愛人の前でいいかっこうをしたかっただけかもしれないが。爵位を与えられるだけのことはある。まあ、やっていたことは最低だが。
あの頃はよかったな。スーパーマーケットの惣菜売り場をうろうろしながら、わたしは過去の思い出をこねまわす。なにがいいって、毎日売れ残りを持って帰れたことだ。毎日毎日「今日の夕飯なんにしようかな」と頭を悩ませずに済むのがどれほど幸福だったか、失ってはじめて気づいた。
惣菜売り場のパックのほとんどに値引きシールが貼られているが、わたしの食べたいものはそこにない。正確に言うと、自分はなにが食べたいのかぜんぜんわからない。チキンカツの衣はしなびていて、しかも誰かが一度手にとってまた戻しでもしたのか、すみっコぐらしかよと思うぐらい端っこに寄っている。カルビ弁当の牛肉の脂は白くかたまって、見ているだけで胃がむかついてくる。豆腐、豆腐でいいんじゃないかな、と口の中で呟きながら惣菜売り場を離れる。
家では暖が米を研ぎ、わたしの帰宅時間に合わせて炊き上がるようにセットしてくれているはずだ。あたたかいご飯に豆腐をのせて、刻んだネギと鰹節をたっぷりかけて、醤油をじゃっとまわしかける、というのはどうだろう。暑くて食欲が出ない夏場の定番の昼食だ。それで腹を満たすには、今のわたしはあまりにも空腹過ぎる気がするが、ほかに思いつかないし、もうそれでいい。
だがあいにく、豆腐は売り切れだった。いつも買っているものより五十円高い豆腐なら残っているが、買いたくない。いや買えない。豆腐ってこんなに高かっただろうか。卵も野菜も肉もなにもかも、思わず値札を二度見どころか五度見してしまうような金額が記載されている。
豆腐の隣はチルド食品で、米も高いし麺類でもいいかなと眺めていたうどん玉の隣にしゅうまいのパックが並んでいた。安い。高級豆腐のせいで一時的に感覚がおかしくなっているのかもしれないが、十二個入りでこの値段はどう考えても安い。
安いしゅうまいはね、ごま油で焼くといいよ。いつか、誰かがそう言っていた。誰だっけ。あ、あの人か。惣菜屋の妻だ。その後彼女は結局侯爵夫人にはならなかったと聞くが、今頃どうしているだろう。