「だから、なにも心配しないで」
「でも、きっともうばれていますよね。『ミネおばさま』だって、わたしのこと」
三枝さんにも勘付かれていた。いずれ南雲家を訪れる人びとの知るところとなるだろう。
そうねえ、と八重子さんはわたしから視線を外す。
「ミネおばさまのこと、悪く思わないでほしいの」
あの人は、と遠くを見ながら言ってから、あの人だけが、と言い直した。
「唯一、子どもの頃のわたしを気にかけてくれたの」
わたしはずっと「見えない子ども」だったのよ、と八重子さんは笑う。ちっともおかしな話ではないのに。
「ずっと、透明人間みたいに暮らしていた。兄の陰で」
その兄が死んで、婿をとって会社を継ぐことになり、きゅうにいろんな人が集まってくるようになった。露骨に態度を変えた人がいる。心にもないおべんちゃらを言う人もいる。ミネおばだけは昔から態度が変わらない。定期的に訪ねてきておせっかいを焼く。八重子さんが誰かに傷つけられたり食いものにされたりするようなことがないように、するどく目を光らせている。
めずらしく、栄輝がわたしから離れて八重子さんの手をとった。あら、と驚いた声を上げた八重子さんは、その手を握り返している。
「でもね、鳴海さん」
八重子さんが栄輝に視線を向けながら、やわらかな声で言った。
「ミネおばさまがあなたを敵視するのは、わたしのせいなのかもしれない。わたしの、あなたへの複雑な思いに、ミネおばさまは気づいているのかも」
「複雑な思い、ですか?」
「あなたは若くて、かわいくて。母親のわたしよりもずっと栄輝になつかれている。いい人に来てもらえてよかった、と思いながら、同時にあなたを妬んでいる」
返す言葉がなかった。八重子さんのようになんでも持っている人がわたしを妬むなどと、想像もできなかった。
「あさましいでしょう。わたしは昔から他人を見上げてうらやましがってばっかり。お母さんはきれいでいいなあ、お兄ちゃんは頭がよくていいなあ、三枝さんは強くて力持ちでいいなあ、なんてね。わたしは、なんにもできない人間だから」
「自分のきれいじゃない気持ちに向き合える人は、あさましくないです」
「そうかしら」
「そうです」
力をこめて答えた。多くの人は、自分の心を直視しない。認めない。隠して、押さえつけて、それでも捨て去ることはできず、巧妙なやりかたで他人を傷つけてごまかそうとする。批難とか陰口とか意地悪とか、あるいは冷笑とか。
「それにしても、八重子さんはなにをどのようにして、自分は『なんにもできない』と判断してるんでしょう。やったことがないのとできないのは違いますけど」
八重子さんは驚いたように目を見開き、それからまた、俯いた。
「だってみんなそう言うもの。お前はほんとうにダメだねって」
「みんな? みんなって誰です」
兄、とか、と呟く八重子さんの声は今にも消え入りそうで、わたしは笑った。
「なんだ。死人じゃないですか」
しにん、と八重子さんは繰り返して、まばたきを繰り返す。
「ひどい言いかたねえ、かりにもわたしの、実の兄なのに」
「すみません。でも、人に『お前はダメだ』なんて簡単に言うもんじゃないでしょう」
「でもねえ、ほんとうにわたし、なにも知らないのよ。お勤めしたこともないし、ひとりで電車に乗ったことも……ほら、ねえ、あそこにあるあのレストラン、見える?」
八重子さんが通りの向こうで回転しているファミリーレストランの看板を指さした。価格帯で考えると、ファミリーレストランの中では高級な部類だ。わたしの基準で言えば、という話だが。
「すこし前にね、幼稚園の帰り道かしら。栄輝があそこに入ってみたいと言い出したの。でもわたし、どんなお店なのかもわからないし、なんだか緊張してしまって」
「じゃあ、今から行ってみますか?」
わたしは回転する看板を指さした。栄輝が「行きたい!」と飛びはねる。八重子さんは俯いて考えていたが、やがてきっぱりと唇を引き結んだ顔を上げた。
「そうね。あなたと一緒なら、きっとだいじょうぶね」
おおげさだな、と思ったが、八重子さんにとってはそれほどの大冒険なのだ。さきほどおにぎりを食べたばかりだが、走ったせいかすでに小腹が空いている。
店内に入り、ドリンクバーから比較的近い席に通された。八重子さんがさっそく、あれはなにか、とたずねてくる。
「ドリンクバーです。自分で飲みものを注ぎに行くんです」
「ええ? 自分で?」
「どれを何杯飲んでもいいんですよ、規定の料金を払えば」
そこからは質問攻めだった。卓上の店員を呼び出すためのボタンについて(まだ押しちゃいけない、と説明した直後に栄輝が押した)、メニューに載っている料理について。
わたしと八重子さんはドリンクバーに、ケーキをつけることにした。
「ぼくこれ。これとこれ、これも」
メニューの上にかがみこんだ栄輝がミックスピザとフライドポテトとチョコレートサンデーの写真を指さした。
「そんなにたくさん食べられないんじゃないかな」
「食べられるよ!」
栄輝が勢いよくボタンを押した。よせばいいのに、八重子さんはやってきた店員に栄輝が頼みたがったものをすべて注文してしまう。
わたしはふたりを、ドリンクバーにつれていった。
「ここでコップをとって、そう、それです。飲みものを選んで、ボタンを押す」
八重子さんは一瞬コップをうたがわしそうに見つめ、それからこわごわとオレンジジュースのボタンを押した。使い込まれた風情の機械がゴゴゴ、と唸り声を上げる。
「鳴海さん、へんな音がする」
「あ、そういうものなんで気にしないで……」
「あら! 出てきた! 出てきたわ、鳴海さん」
驚愕の表情で機械から注がれるオレンジジュースを見つめている八重子さんを横目に、わたしはアイスティーのボタンを押す。
めいめい選んだ飲みものを手にテーブルに戻ると、すでにケーキが置かれていた。八重子さんはオレンジジュースを飲み、チョコレートケーキをひとくち食べて、眉をひそめた。
「紅茶があったらよかったんだけど」
「ありましたよ、ちゃんと」
「ええ?」
そこでまたドリンクバーに引き返して、こんどはティーバッグを選んで湯を注ぐ方法を教えなければならなかった。
「鳴海さんは、ほんとうになんでも知っているのね」
「なんでもではないですよ。知らないことのほうがずっと多いです」
わたしはまたアイスティーを飲み、レアチーズケーキを食べながら考える。
「でも、知らないことを恥ずかしいことだとは思ってません。人に教えてもらえば済むことですし」
八重子さんは自分のことを、他人を見上げてうらやましがってばかりだと言ったけれども、わたしだって同じようなものだ。でもわたしなんかはただうらやましがっていても、なにも手に入らない。
注文したものがつぎつぎと運ばれてきた。栄輝はものめずらしそうに細長いフライドポテトを口に運ぶ。思いがけずおいしかったようで、それきり黙りこんで食事に集中している。
わたしも断りを入れてから、フライドポテトを一本もらった。八重子さんは黙りこんでしまった。視線は、店内をせわしなく行き来する店員にはりついている。
チーズケーキをひとくち食べて、栄輝に「そっちのサンデーから食べないと、アイス溶けちゃうよ」と助言した。甘いものを食べたらまたしょっぱいものが欲しくなる。フライドポテトに手を伸ばしたら、栄輝は自分の方に無言で皿を引き寄せた。一本ちょうだい、もうだめ、なんでケチ、と言い合っていると、八重子さんが「そうね」と言った。隣のテーブルにいた会社員風の男性がこちらを見るほど、大きな声だった。
「そうね。鳴海さんの言うとおりかもしれない」
「なにがですか? 栄輝がケチってこと?」
「違う。あなたさっき言っていたでしょう。やったことがないのとできないのとは違うって」
隣のテーブルの男性の視線をやり過ごすために顔を背けると、卓上の銀色のペーパーナプキンのケースに自分の姿が歪んでうつった。真珠のネックレスをつけっぱなしにしている。
「あ! これ、すみません」
急いではずそうとする。八重子さんが身を乗り出し、わたしの手を押さえた。
「そのままで。ね、あげるって言ったでしょう?」
あれはわたしを庇うための嘘だろう、と思ったが、八重子さんは「あなたにあげる」と真顔で繰り返す。
「もらえません、こんな高価なもの」
焦って、うまく留め金が外せない。狼狽するわたしの手を、八重子さんが存外強い力でふたたび押さえた。
「お願い。あなたに持っていてほしいのよ」
「どうしてですか」
「そうしたら、嘘がほんとうになるからよ」
八重子さんはそう言って、栄輝を愛おしそうに見つめた。栄輝は口のまわりをべたべたに汚しながらチョコレートサンデーを食べており、わたしたちのやりとりがまったく耳に入っていないようだった。あとでお腹をこわさないといいのだが。
「わかりました、じゃあ、持っておきます」
もらうとは言っていない。持っておいて、いつか返せばいい。これならわたしも嘘をついたことにはならない。いつのまにか、もうこれ以上、八重子さんに嘘をつきたくないと思いはじめている。
「さあ、次はなにを飲んでみようかしら」
八重子さんがやけにはりきった声を発して立ち上がる。ジュースとジュースをまぜることもできますよ、とわたしが言うと、八重子さんは「ええ?」と心底驚いたように目をまるく見開いた。