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 南雲家に子守りとして通いはじめて、一ヶ月が過ぎた。わかったことがひとつある。とにかくやたらめったら客の多い家だということだ。なにをしに来ているのかはわからない。ほとんどが親戚か会社の関係者、もしくはその両方を兼ねる人間らしい。昼間にやってくるのはおもに中年から老年の女で、皆同じような顔と体形、高級そうだが若干やぼったい服を着ており、なかなか見分けがつかない。ながながと居座っては八重子さんを相手に茶を飲み、べちゃべちゃ喋っていく。夜は夜で、忠雄さんが会社の誰か、あるいは会社の関係者を連れてきて、酒を飲む。
 通いの家政婦であるさえぐささんは家の人間よりもわがままな客人(茶がぬるいだの、なにか軽くつまむものがほしいだの、際限なく言ってくる)のために始終働きどおしの様子だ。八重子さんは「三枝さんがいてくれて、ほんとうに助かってるのよ」などとおっとりと言い、わたしは「助かってるどころか、あの人のおかげでやっとどうにかなってるって状態だろ」と思うが、もちろん言わない。
 八重子さん。初日に、「奥さま」ではなく名前で呼んでほしいと言われた。忠雄も「旦那さま」などではなく、忠雄さんと呼んでもいい(こちらは呼んでほしい、ではなく呼んでもいい、だ。要望ではなく、許可。あくまでも)わたしとしては「南雲さん」のほうがいいが、それだと夫婦のどちらのことなのかわからないから、とのことだった。
 栄輝が「ぼくも南雲だよ」と唇を尖らせると、八重子さんは「そうね、そうね」と目尻を下げて、息子を抱き寄せた。栄輝はすぐにその腕をすり抜けて、どこかに走っていってしまったけれども。
「男の子は甘えん坊だって言うけど、あの子はちっともぎゅっとさせてくれないの」
 八重子さんが嘆くとおり、栄輝はすこしもじっとしていない。にもかかわらず、八重子さんは客人が来ると栄輝を同席させたがる。それとも、客人の意向なのだろうか。
 栄輝はいちおう幼稚園生なのだが、ほとんど登園していない。他の子とも先生ともうまくやれないのだ。みんなと同じタイミングで、同じことができない。やっていることを邪魔されるとわめきながら暴れる。いきおいあまって友だちを叩く。
 そうした事情あっての「子守り」なのだが、わたしは現在、その務めを果たせていない。さきほど客人が来て、八重子さんが栄輝をむりやり客間に連れていってしまったからだ。取り残されたわたしはドアの前で両腕を組んで、忠犬よろしくじっと待つしかない。
 廊下にいても、話し声は一切聞こえてこない。拍子抜けするぐらい普通の家だと思っていたが、わたしの実家や今住んでいるアパートの壁やドアとはものが違うらしい。
 日曜の朝から押しかけてくるなんて、無粋な連中だ。今日は栄輝と逆上がりの練習をしようと約束していたのに。
 だが、ドアの前でじっとしていてもしかたがない。庭を覗くと、鉄棒に透明なしずくが連なっていた。庭の芝生や木々がしっとりと濡れている。明け方近くに雨が降っていた。雨音で目を覚まして、しばらくぼんやりと聞いていた。隣で暖がよくわからない寝言を言って、起きたら「こんなこと言ってたよ」と話してやろうと思っているうちにまた眠ってしまった。二度目に起きた時には、もう暖の寝言の内容を忘れてしまっていた。
 雨の匂いにはちゃんとした名前があると教えてくれたのは、たしかマスオだった。たくさん本を読んでいるせいか、マスオはへんなことをよく知っている。
 マスオには南雲家に雇われることが決まったその日に、バイトをやめると告げた。マスオは「エミリちゃんからぜんぶ聞いたよ、とんでもないことをするね。どうせクビになるだろうから、ロッカーの私物はそのままにしておいていいよ」と言った。さてはわたしにやめてほしくないんだね? と確認すると、渋々といった様子で頷いた。
「きみはクリームソーダをつくるのが、誰よりもうまいからね」
 庭に出て三枝さんに貸してもらった雑巾で、鉄棒を拭き上げる。一週間前に忠雄さんが「懇意にしている工務店」に発注してつくらせた特製の鉄棒で、低いのと高いのがある。庭にはもとからブランコがあったのだが、ブランコだけでは栄輝はすぐに飽きてしまう。むりやりじっとさせるより、身体を動かして発散させるほうがいいんじゃないですかね、とわたしが言っただけで、翌日にはもう工務店に連絡していた。
 南雲夫妻は、けっして浪費家ではない。服も地味だし、食べているものだってわたしが育った家とそう変わらないように見える。だが使うべきところには金をつかう、と決めているらしい。
 たたたっと体重の軽い人間の足音が聞こえたと思った次の瞬間、背中に衝撃が走った。ものすごい勢いでタックルしてきた栄輝を受け止めながら「脱走してきたの?」と声をかける。
「脱走だ!」
「なかなかやりますね、坊ちゃん」
 見ると、栄輝は靴を履いていなかった。真っ白な靴下が、みるみるうちに地中の水分を吸い、茶色く染まっていく。
「靴下脱ぎ、競争スタート!」
 叫ぶなり、わたしは靴と靴下を脱ぎ捨てた。濡れた芝生が足の裏を刺す。つめたさに身震いしながら、もたもたと靴下を脱ぐ栄輝を見守った。
「鳴海ずるい! ずるした!」
「ずるしてない。あと、鳴海さんだから。呼び捨てはやめてくださーい」
 ギャーギャーとうるさい栄輝を鉄棒につかまらせた。今日は逆上がりだよ、と言ったのに、前まわりをはじめた。ぐるんぐるんと、勢いをつけて何度もまわる。「あらあらあら」と声がして振り返ると、今日の客人が立っていた。杖に身体を預けて、ふうふう息をしている。あれだけ太っているとただ家の中から庭に出てくるだけでも大仕事らしい。
「栄輝ちゃん。そんなにまわったら、バカになっちゃうわよ」
 バカ、のところで一瞬わたしを見る。あとから出てきた八重子さんが困ったように微笑んでいる。
「元気がありあまっているんですよ、ごめんなさいね、ミネおばさま」
「ミネおばさま」は八重子さんの言葉に耳を貸す様子もなく、「栄輝ちゃん、おばさまにピアノを聞かせてくれるお約束だったでしょう?」と話しかけている。たった今わたしの脳内辞書の「猫なで声」の例として、彼女の声が保存された。栄輝はものすごい勢いで前まわりを続けている。
「そんなんじゃあ一年生になれないわよ」
 栄輝の動きがぴたりととまった。大人の話などまったく耳に入っていないのかと思ったが、いちおう聞こえていたらしい。干した布団のように身体を折ったまま、じっと地面を見つめている。「ミネおばさま」が「知り合いのお孫さん」について話しはじめる。なんでもねえ、栄輝ちゃんみたいに落ち着きのない子で、授業中に歩きまわっちゃうんですってよ。授業中によ? 考えられないでしょう、自分の思い通りにならないとねえ、かんしゃくおこして泣きわめいたりして。でもそういう子、増えてるんですって! 男の子だから、元気がいいのはいいことだけど……いえね、うちはふたりとも娘でしたからね、そこらへんは勝手が違うのかもしれないけど、でもこれはね、しつけの問題なのよ。いい? 育てたように子は育つってことよ。ほんとうにね、もちろんね、元気があるにこしたことはないのよ。でもね、来年から小学生でしょう? どうするの八重子ちゃん、あなた……。「ミネおばさま」、略してミネおばはまだ喋っていたが、そろそろ本気でめんどうくさくなったので、途中から聴覚をシャットダウンした。
「栄輝くん、『一年生になれない』っていうのは、あれは大人がよく言いがちな嘘ですからね」
 小声でささやくと、栄輝が布団状態のまま「そうなの?」と問い返して来た。
「そう、義務教育だから。来年の四月になれば、自動的に小学一年生になってしまう」
 かわいそうに、とため息をつく。わたしは学校が嫌いだった。大嫌いだった。
「かわいそうなの?」
「小学校って、つまんないところだから」
「それも嘘だ!」
 栄輝が地面に飛びおりた。
「みんな言うぜ、小学校は楽しいところですって」
「わたしの言うことと『みんな』が言うこと、どっちが正しいか、自分の目で確かめてみてくださいねえ」
 ミネおばが、そこでようやく気づいたように「裸足じゃないの」と悲鳴を上げた。
 わたしはすかさず栄輝を小脇に抱きかかえ「裸足で育った子どもはそうでない子どもよりもIQが高いという説があります」とでまかせを言って庭から走り出た。栄輝がきゃっきゃと笑い、足をばたつかせる。通り過ぎた直後に「育ちの悪い人を」云々、と言ったのが聞こえた。それって、わたしのことだろうか?

 

(つづく)