『セーヌ川』を出て、そのあとどうしたのかは、やっぱり覚えていない。ところどころ、穴が空いたように記憶が抜け落ちている。アパートに戻った時にはもう暗くなっていて、暖と宏海がほっとしたような、すこし怒ったような顔で出迎えてくれて、「何回も電話したのに。出ろよ」とわたしを叱った。
すでに夕飯の支度がととのっていた。ホワイトシチューとエビピラフという献立で、なぜかそんなことだけはっきり覚えている。宏海は「おれも野菜を切るのを手伝ったよ」と得意げな顔をしていた。
わたしは三枝さんから聞かされたことを、ちゃんと泣かずに説明できた。
「あんたはクビにならなくて、ほんとうによかったよね」
そんなふうに、宏海に笑いかける余裕すらあった。
宏海を雇っている工場の社長は、例のコンビニの一件をすべて聞いた上で、「腹の立つこともあるだろうが、今目の前にあるものごとに一所懸命向き合うしかないんだ」とはげましてくれたという。
寮に戻った宏海は、「金を貸してくれ」と言わなくなった。その代わりのように、わたしたちのアパートに連日訪ねてきては、暖の本を読んでいくようになった。寮に持ち帰って読んだら先輩や同僚たちに茶化される、と言っていたが、本音は別のところにあったのだろう。暖と一緒にいる時の宏海は、実姉であるわたしと接する時よりもずっと弟らしい顔をしていた。
「あっけないもんだな」
エビピラフをかきこみながら、宏海はそんなふうに言った。
「なあ、金持ちって薄情だな、暖さん」
宏海の口調ににじむ安堵に気づきながら、それでも、長いあいだなぜ宏海がそこで安堵したのか、わからずにいた。十数年後、親戚の通夜振る舞いの席で、宏海自身の口から聞かされるまでは。すこし酔った宏海は二歳の息子を膝に抱き、その小さな口にすこしずつ煮物のかけらを運びながら、「おれ、姉ちゃんがあっち側のひとになっちゃうんじゃないかって、不安だったんだよね」と語った。
あの通夜に、宏海の妻は同行していなかった。ふたりめを妊娠中だったから。
わたしは「なに言ってんの」と笑った。「あっち側」になんかいけるわけがないのに。
宏海は今も同じ職場で働いている。今では三人の子どもの父親だ。酔った時でもなければ、めったに昔の話などしない。
仕事帰りにいつも寄るスーパーマーケットの前に、一台のベンチがある。買いもの帰りのお年寄りが座って休んでいるのを、よく目にするが、自分が座る機会は一度もなかった。
今日は、でも、そこに腰をおろしてみた。電話をかけるというそれだけの行動をおこすための覚悟が決まるまでにどれぐらいの時間が必要なのか、自分でもよくわからなかった。
今朝、出勤前にスマートフォンで「なぐも製菓」を検索すると公式サイトが見つかった。現社長の名は南雲栄輝となっていた。顔写真も掲載されていた。あの頃の面影がある、と言えばあるし、ないと言えばない。目元があの頃の八重子さんに似ているような気がする。
スマートフォンをとりだし、着信履歴から栄輝の電話番号にかけた。コール音を五回数えたところで、低い声がした。「はい」でもなく、「もしもし」でもなく、その声はわたしに向かって「母なら、帰ってきましたよ」と告げた。
「いつ?」
電話の向こうで、ためらうように息を吐く音が聞こえた。
「そちらに電話をかけたあと、すぐに」
「そうですか」
「あの、昨日は」
また息を吐く。それから「失礼なことを申し上げて、すみませんでした」とやや小さな声で続けた。失礼なこと。泥棒呼ばわりしたことだろうか。
「動揺していたんでしょう、きっと」
父親が亡くなり、その後に母親が突然いなくなったのだ。さぞかし動揺していただろう。申し訳なさそうな声を聞いたら、訊ねようと思っていたことの諸々がひっこんだ。あとはもう、彼らの問題だ。それじゃあ、と切ろうとしたら、栄輝が「あの」と言うのが聞こえた。
「はい」
「あの、母は」
そこでふたたび、沈黙が流れる。
「はい」
「母は、毎年手帳を買うんです」
その話がどう展開していくのかまるで想像がつかず、黙って続きを待った。
忠雄さんのリハビリに関する記録のためだという。その手帳には、その後すこしずつなぐも製菓の経営に関する記述が増えはじめた。
「経営?」
「そうです。母が会社に関わるようになったので」
社長の名は忠雄さんのままだったが、身体の自由がきかない彼にかわって八重子さんが仕事をつとめていたという。三年前に栄輝が社長の座に就くまで、そんな状態が続いた。
「母が、自分には会社に関わる権利がある、と言い出したんです。ぼくが中学生の頃でした。介護だけでも手いっぱいだったはずなのに。ずいぶん反対の声も上がりました。でも母はいろんな人と闘って、その権利を得ました」
わたしの目の前を、柴犬を連れた女性が通り過ぎる。リードをポールにつないで、女性は店内に向かう。自動ドアが開いた瞬間、店内の音楽が聞こえた。
「ぼくが社長になった時に過去の手帳をすべて見せてくれたんです。どの年の手帳にも、あなたの電話番号が書かれていた。最後のページに、かならず」
栄輝はわたしの名を覚えていなかった。ただ、子どもの頃のある時期に一緒に過ごした相手のことは覚えていた。「靴下脱ぎ競争」と呟いて、かすかな笑い声のような、ため息のような音を漏らした。
「母はあなたの名は『お守りみたいなもの』だと」
それ以上のことはあまり話してくれなかったけど、という話を聞きながら、わたしはポケットをさぐり、ハンカチを引っぱり出して、両目に押しあてた。わたしは時折低く相槌を打ちながら、声を出さずに泣き続けた。
「でも、親戚の者が、あなたは泥棒だと」
「ああ。『ミネおばさま』、でしたっけ?」
栄輝はわたしの問いには答えず、「悪いことをしたから子守りをクビになったと聞かされました」と続けた。
「どっちを信じればいいんでしょう。彼らと、母と」
しばらく悩んでから、「わたしと」と口にした。
「はい?」
「わたしと会って、決めてください。どっちを信じるかは」
沈黙が流れる。わたしは息をつめ、膝の上で濡れたハンカチを握りしめたまま、栄輝の次の言葉を待った。