しゅうまいの入った袋をぶら提げて、家に帰る。わたしと暖の住む家は一戸建ての借家で、同じような家が四軒、川沿いに並んでいる。玄関の引き戸を開けると同時に、「おかえりー」という声が聞こえた。
暖は居間の畳に胡坐をかいたかっこうで洗濯物を畳んでいた。日雇いの警備の仕事から帰ってすぐに風呂に入ったらしく、まだすこし髪が濡れている。隣に座って手伝おうとしたが、「手を洗ったほうがいい」と制された。石鹸を泡立てながら「新しい仕事どうだった?」と問う。泡の飛沫が腕に飛び、仕事中にうっかりつくった擦り傷に染みた。
「なんか、すんごい人とペアだった。工事現場だったんだけどさ」
「どう『すんごい』の」
「百歳ぐらいに見えた。仙人みたいでかっこよかったよ」
仙人は働かないだろうけど、もしかしたらほんとに百歳かもね、と言いながら、百歳になってもまだ働かなければならない世の中だとしたらやりきれねえよなあ、というようなことを思った。
「おかずをね、買ってこようと思ったんだけどさ、自分がなにを食べたいのかわかんなくて。選べなくて。しゅうまいだけでいい? 焼くと皮がカリっとしておいしいらしいよ」
「そうなの? じゃあ、おれ焼いとくから、鳴海ちゃん、お風呂入っておいで」
「じゃ、お願い」
洗濯物の山から自分のパンツとTシャツをつかみ、風呂場に向かう。シャワーを浴びて出てくると、すでに茶碗や箸がテーブルにセットされていた。暖は鼻歌を歌いながらフライパンに油をたらしている。「ごま油で」と指定するのを忘れていた。今更言ってもしょうがないので、黙っていた。
借家は築四十年の木造で、今時の間取りではなかった。台所は広く、居間は畳敷きだ。居間の奥の寝室も和室で、その隣には物置にするしか用途のなさそうな窓のない四畳半の部屋が続いている。台所と居間を区切るように置いたダイニングテーブルの上に個包装のおかきがひとつ、のせられていた。なぐも製菓のアーモンドおかき。ロングセラー商品だ。
「それ、仙人のひとがくれた。食べていいよ、おれいらないから」
「あー。じゃあ、ごはんの後でもらおうかな」
わたしは椅子の背もたれに片腕をかけて、しゅうまいを焼く暖の後ろ姿を眺めた。
暖は美しい男だ。わたしのひとつ年上だから今年四十六歳なのだが、出会った頃から今日までずっと、美しい。
職場で、いろいろな身体を目にする。男の身体、女の身体。太った身体、痩せた身体。暖は特別なトレーニングなど一切していないにもかかわらず、ひきしまった身体つきをしている。ミルクチョコレートのような肌色と濃く長い睫毛と、なにより骨格そのものが、と考えていると、暖がこちらを向いた。「なに見てんの」と薄く笑う。
「いつまでも絶えることなくいい男だなと思って」
「うん。自分でもそう思う」
暖は謙遜をしない。けれども、ひけらかしもしない。へりくだらない。威圧しない。そのせいだろうか、いやもちろんそれだけではないと思うが、男社会ではうまくやれないことが多い。
男の集団というのは、ひとたび「こいつは/おれたちの/仲間ではない」とみなされると即自分たちの群れから追放してしまうものらしい。暖はこれまでに、何度も転職したが、たいていは人間関係が原因だった。
暖は基本的に「耐える」ということをしない。おそらく、そういうところも同性の嫌悪感を煽る理由のひとつかもしれない。ちょっとでも「嫌だな」と思ったら、さっさと離れてしまう。潔い生きかただが、収入は安定しない。
「いただきます」
「いただきます」
両手を合わせ、箸を手にとる。焼いたしゅうまいは皮がかりっと仕上がっていておいしかった。思わず顔を見合わせ「いけるね」と言い合う。
「これからは、かならず焼くようにしようよ」
「そうだね」
酢醤油を垂らしてみたら、さらにおいしくなった。高い米をつかっているわけではないが、ごはんも炊き立てでつやつやぴかぴかしていて、とてもおいしい。
この暮らしを「貧しくても幸せ」などとは、口が裂けても言えやしない。でも食事を終える頃には気分も「ま、どうにかこうにかやっていくしかねえよな!」と思えるぐらいに前向きになった。あと、誰かに「口を裂くぞ」と脅されたらさすがに「嘘です! ごめんなさい、幸せです! 贅沢言ってすんません」と言ってしまうかもしれない。
口が裂けても。あらためて考えてみると、すさまじい表現だ。
「そういえば、来月からシフト減るみたい」
「そうなの?」
暖が一瞬箸を宙に浮かせて、ふっと眉をひそめた。
「うん。短期バイトしようかな」
「そんなに働いたら、鳴海ちゃん死んじゃうよ」
「あのね、働かなくても死んじゃうの」
暖とは三十歳の時に結婚した。指輪も買わず、式も挙げなかった。婚姻届を書いて、市役所に出した帰りにケーキを食べた。十八歳の頃からのつきあいだし、今更、という感じもしたけれども、結婚しておいたほうがいろいろ便利だと周囲の人が言うので、そうした。
子どもについてはおたがい積極的に欲しいとは思っていなかったが、もしできたらうれしい、と暖は言っていた。でも、できなかった。結果的に子どものいない夫婦となったわたしたちだが、まあこれでよかったんじゃないか、と思っている。というか、よくなかったとしても、これがわたしたちの人生だ。
スマートフォンが鳴って、おたがいに「電話じゃないの」「いやそっちのが鳴ってんでしょ」と言い合う。畳の上で振動していたのはわたしのスマートフォンだった。知らない番号が表示されていて、手にとったと同時に切れた。と思ったら、またかかってきた。
「いい電話だと思う? 悪い電話だと思う?」
「賭ける?」
賭けたとしてもわたしたちの財布はひとつなので金があっちからこっちに移動するだけなのだが、いちおう頷いておく。わたしは悪い電話であるほうに百円を賭けた。畳に腰を下ろし、通話ボタンを押す。
「もしもし」
男の声だった。声の調子から年配の男ではないと思われる。かといって若者というわけでもなさそうだ。
「え。ええと、山口鳴海さんの携帯でよろしいですか」
男は一瞬口ごもったのちに、わたしの旧姓を口にした。
「そうですが」
「あの、母がそちらに行っていませんか?」
間違い電話だろうか。失礼ですが、と言いかけたわたしの声を、男は「失礼しました。なぐもえいきと申します。あの、覚えてらっしゃいますか」と遮る。
南雲栄輝、という漢字に変換されるまでにしばらく時間がかかった。テーブルの上のおかきの袋に目を向けた。
「あなたのいこいのひと時に。この番組はなぐも製菓の提供でお送りしました」
一時期は、テレビでもラジオでも頻繁に耳にしていた会社名だ。今さっき、わたしはおかきの袋を見て「なぐも製菓の商品だ」と認識したにもかかわらず、彼らのことをまったく思い出さなかった。
「栄輝、さん?」
あの頃のように「栄輝」と呼びそうになって、あわててさんをつけた。
「はい」
おひさしぶりです、と言ったが、それ以上言葉が続かなかった。栄輝はなにも言わない。昔懐かしい知り合いと無駄話をするためにかけてきたわけではなさそうだ。そういえば、母がどうとか、さっき言っていた。
「八重……お母さんがどうかしたんですか?」
「家にいないんです」
会社から帰ってきたらいなかった、家の周りを捜したが見つからない、というようなことを、栄輝は感情の読み取れない早口で説明した。
「だから、もしかしたらあなたに会いにいったんじゃないかな、と思って」
わたしが栄輝とその母である八重子さんに最後に会ったのは、もう二十五年も前のことだ。わたしの電話番号はその頃使っていた二つ折りの携帯電話の番号を引き継いでいて、だから連絡先として残っていたとしてもべつに不思議ではないが、八重子さんが家にいないという理由でわたしに電話をかけてくるのは、どうにも不自然だった。
「会いにくるわけないでしょう」
わたしには二度と会わないと、他ならぬ八重子さんが言ったのだ。
栄輝がため息をつくのが聞こえた。
「でも、あなたは母の」
言葉が途切れ、しばらく沈黙が続いた。あなたは母の、なんなのだろう。そう思った直後に栄輝が「あなたは母の、大切なものを奪った人間だから」と吐き捨てた。
「あなた、泥棒じゃないですか。だから取り返しにいったのかと思ったんですよ、昔あなたに盗まれたものを……じゃあ、母はそっちには行ってないんですね?」
ただならぬ気配を察知して、暖が隣にやってきた。わたしの手をとり、心配そうにのぞきこんでくる。
視界が一瞬まっくらになり、またゆっくりと光が戻ってきた。スマートフォン越しに、栄輝の押し殺したような、やや苦しげな息遣いが聞こえてくる。食べかけの夕飯をのせたテーブルがやけに遠く感じられた。