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 やわらかいもの。シュークリーム、ショートケーキ、スフレチーズケーキ。うなだれる八重子さんの横顔を見つめながら、わたしは「あと、八重子さん」と心の中でつけたした。八重子さんの心。この状態が続いたら、この人のやわらかい心はじきにぺしゃんこに潰れてしまうのではないか。
 八重子さんが例の洋菓子店で働きはじめて二週間が過ぎた。と言っても週に三日の勤務だから、六回しか出勤していない。そう、たったの六回だ。なのに八重子さんの顔つきは日に日に暗くなっていく。
「どうしてもできないの、わたし」
 なんと、ケーキをトングでつかめないらしい。すぐに潰れたり、デコレーションの部分を損なったりしてしまう。その他にも、ケーキを入れるための箱をうまく組み立てられなかったとか、焼き菓子の箱を包装紙でつつむ方法を教わってメモまでしたのに再現できないとか、さまざまな困難に見舞われている。
 今日の八重子さんは、朝いちばんにお店に行ってケーキを十種類ばかり買ってきた。トングを借りてきて「練習しなきゃ」とはりきっていたのだが、初っぱなからチョコレートケーキを皿の外に倒してしまい、もう泣きそうになっている。
 鳴海さんやってみて、と渡されたトングで、ケーキをひとつつかんでみる。たしかにふにゃっとしていてつかみにくかったが、二、三度皿から皿に移動させてみたらなんとなくコツがつかめた。
「やっぱりすごいのねえ、鳴海さんは」
 八重子さんがあまりにも素直に感心するので、かえって心が痛む。コツはつかめたが、うまく言葉で説明できない。
「もう一回、やってみましょう。こういうのは、慣れです」
 八重子さんは頷いて、トングを握りしめる。意を決したようにトングでつかんだシュークリームから、びよんとカスタードクリームがとびだした。八重子さんが「ああ」と悲痛な声を上げる。
「だいじょうぶ。もう一回」
「ママ、がんばれ」
 わたしの傍らで、栄輝が拳を天井につきあげる。栄輝は先週ついに逆上がりをマスターしただけでなく、なんと幼稚園にも行った。たまたま機嫌が良かったのか、他の子が気を遣ってくれたのか、大きなトラブルもなく一日過ごせたという。これは栄ちゃんにとっては大きな進歩よね、と喜ぶいっぽうで、八重子さんは自分自身の「できなさ」に打ちのめされている。
 忠雄さんはというと、あまりこの状況を歓迎していないようだった。なにもそんなよそで働かなくても、会社の手伝いでもしたらいいじゃないかと言い、八重子さんが「それではだめなの」と拒むと「そうか」と納得したらしいのだが、その後なぜかわたしにたいする態度が極端によそよそしくなった。わたしが八重子さんをそそのかしたとでも思っているのかもしれない。
 一時間かけて練習したが、八重子さんのトングさばきはなかなか上達しない。
 無残な姿になったケーキを前に、八重子さんはしょんぼり肩を落とす。
「ごめんなさい、鳴海さん」
「謝る必要なんてないです。で、このケーキって食べても、構わないのですか?」
「だめよ、ぐちゃぐちゃになっちゃったから」
「味は変わりませんよ」
 わたしは皿にショートケーキをとり、大きく口を開けて食べてみせた。
「うん、おいしい! だいじょうぶですよ、ケーキがどんな姿になったってわたしが引きうけます。むしろ大歓迎です」
 胸を叩くと、やっと八重子さんが笑ってくれた。
「そうね。食べないと、もったいないわよね」
 八重子さんと栄輝もめいめいフォークをとって、ケーキを食べはじめた。この店のケーキはかなり小さめで、いい材料をつかっているらしく甘さはしっかりとあるけれどもしつこくないので、二つでも三つでも食べられる。彼らが二つ、わたしが三つ食べ終えたところで、八重子さんが「ねえ、鳴海さん」とややあらたまった口調で切り出した。
「どうしても気持ちが明るくならない時、あなたはどうしてるの?」
 そうですね、とわたしはしばらく考えてから、好きなもののことを考えます、と答えた。泣きそうになった時や、なにもかもどうでもよくなった時には、暖の肩甲骨のかたちとか、笑うと片頬にだけできるえくぼのことを考える。もしくは、遠い昔に買ってもらった、白いふわふわした猫のぬいぐるみのことを考える。瞳は青く、赤い首輪がついていた。
 祖母にもらったおこづかいで買ったアイスクリームのことを考える。いちごのソースがかかっていた。お母さんにもお父さんにも内緒だよ、と渡されたおこづかいだ。宏海を連れて、アイスクリームショップに行った。宏海はいちごのソースだけをスプーンで掬って、「見て、姉ちゃん」と蛍光灯にかざした。宝石みたい、宝石よりきれい、と本物の宝石なんか見たこともないくせに笑い合った。
 あれはわたしの人生の中でもっとも美しい瞬間のひとつだった。誰がなんと言おうと。
「八重子さんにはありますか?」
 そうねえ、と小首を傾げて考えていた八重子さんは「あったわ」と手をぱちんと鳴らした。
「なんです?」
「あのね、わたし、とっても好きな映画があるの。『プリシラ』っていうんだけど、観たことある?」
 わたしはその映画のことを知らなかった。というかこれまで生きてきてほとんど映画というものを観たことがなかった。テレビでやっているのを、たまに目にするぐらいだ。
 それはどんな映画なんですか、とわたしが問うのと、ケーキに飽きた栄輝が「お庭行こ」とわたしの腕を引いたのがほぼ同時だった。
 栄輝はいきなり駆け出す癖があるので、常にすぐ追いかけられるように構えていなければならない。すみませんあとで、と八重子さんに断って、わたしたちは庭に出た。
「公園行く!」
 庭に出るなり栄輝が騒ぎ出す。
「庭って言ったのに!」
 コロコロ変えちゃってさあ、と文句を言いながら公園に向かった。栄輝お気に入りのタコのすべり台で存分にはしゃがせ、砂場の砂をやりすぎだろと思うぐらい深く掘ったあと公園全体を鬼ごっこという名目で五週ばかし走り、さすがに疲れ果てて帰ってきたら、今度は八重子さんが目を輝かせて駆け寄ってきた。
「鳴海さん、わたしね、すごくいいことを考えたの!」
 なんですか、と問うわたしの声は、自分でも笑いそうになるほど疲れ切っていた。

「それで、お泊まり会?」
 わたしに訊ねる暖の声に、あたたかな笑いが滲んでいた。
「そう。八重子さんは『パジャマパーティー』って言ってたけど」
 暖はキャベツに包丁を当て、ぐっと力をこめて真っ二つに割った。帰宅したら、すでに夕飯の準備がはじまっていた。キャベツがめちゃくちゃ安かったんだよ、とうれしそうだった。
 八重子さんは一生に一度でいいから「パジャマパーティー」なるものをやってみたいと憧れていたのだが、諸々の事情(家族からの行動制限や、親しい友人がいない等)により、かなわぬ夢とあきらめていたという。
 わたしは小学生の頃に何度か「お泊まり会」を経験している。いずれも友人宅にわたしが行くかっこうで、逆は一度もなかった。よその家では夕飯のあとに果物が出るとか、家族がそれぞれ違うシャンプーを使っているのだとか、そういうことのひとつひとつが新鮮だったことを覚えている。
「八重子さんにとって、鳴海ちゃんは友だちなんだね」
 なんと答えていいのかわからなくて、そのキャベツどうするの、と話題を変えた。
「焼くんだよ。キャベツのステーキ」
 高校生の時にスーパーマーケットの青果売り場でバイトをしていて、先輩主婦が「じっくり弱火で焼くとすごく甘くておいしいのよ」と教えてくれたという。わたしたちは「よその人」が教えてくれた知識を煉瓦のように積み上げて自分たちの生活を守ってきた。そのことに、あらためて力をもらう。親も家も関係なく、わたしたちはわたしたちの人生をつくりあげていける。

 

(つづく)