最初から読む

 

 ストロベリー、ライム、レモン、ミルク、ミント、グリーンアップル、グレープ。

 バッグから取り出した「フルーツのど飴」の袋に書かれた商品説明を、くりかえし読んでいる。背後でくりひろげられている会話を耳に入れないように。わたしは部外者だから。でもせまい車内だ、どうしたって耳に入る。

「あの時言ってくれたこと、ぜんぶ嘘だったってこと?」

 ストロベリーライムレモンミルクミント。

「ちょっと待ってよ、それって栄輝くんにとって、私はピグミーマーモセット以下ってことになるよ」

 そうは言ってないよ、と栄輝が弱々しく否定している。

 パーキングエリアに突如現れたいそかわれな。漢字で書くと磯川麗菜。さきほど名刺を渡されたので漢字がわかった。彼女はわたしたちに「いきなり押しかけてすみません」と存外冷静に謝罪したのち、名刺を差し出した。なぐも製菓広報、と書かれていた。

 八重子さんが「ちゃんと話をしなさい」と麗菜さんを車に乗せてから一時間、最後部座席に陣取ったふたりの会話は時にウェットに、時に謎めいた方向に転がっていく。ピグミーマーモセット以下ってどういう意味?

 ふたりの会話は基本的に麗菜さんによる「別れたい理由がわからないから、なにか問題があるのならちゃんと話してほしい。理由はなんなのか」「ずっと一緒にいたいというのは嘘だったのか」という追及を栄輝がはっきりせぬ物言いでごまかそうとする、ということの繰り返しで、埒が明かない。

 一時間が経過したところで、わたしはついに「フルーツのど飴」に意識を向けようという努力を放棄した。かたわらの八重子さんを見やる。目をかたくつむっている八重子さんは、眠っているわけではないのだと思う。暖は特に動じていない様子で、冷静に運転を続けている。わたしよりも心が強いから、というわけではなく、わたしよりも更に栄輝とのかかわりが薄いからだろう。

 彼らの会話を整理すると、麗菜さんがなぐも製菓に入社したのは五年近く前、栄輝との交際がスタートしたのは一年ほど前、ということになる。結婚の約束をしていたのだが、忠雄さんの葬儀の直後にとつぜん栄輝から一方的に別れを告げられた。その後電話にも出てもらえず、悩みに悩んで、今日ここに突撃した、というわけだった。栄輝が電話を無視する様子を、わたしは一度目撃している。

「麗菜、ちょっと落ちついて……」

「落ちついてるよ!」

 親の前でこういうやりとりをするのは、かなりきついものがあるだろう。そのことについては同情するが、まあしかし、おめえが蒔いた種だよな、という思いもある。なにがあったのか知らないが、結婚の約束まで交わした女に一方的に別れを告げた後に連絡を無視するなんて悪手もいいとこだ。

 わたしはいったんバッグにしまったフルーツのど飴の袋に手をつっこんだ。ミントだった。吉、ということにしておこう。

 車はいつのまにか高速をおりていた。信号待ちで振り返った暖が八重子さんを呼び、なにごとかを囁いた。八重子さんが同じく小声で応じる。

 暖は前方に見えるファミリーレストランの看板を指さし、「そこに入りますね」と言った。

「なんで?」

 車が駐車場に入った時、栄輝が途方にくれたような声を上げた。

「食事休憩だよ」

 暖が短く説明する。

「このタイミングで?」

「おれ、お腹空いちゃって」

 八重子さんが栄輝を振り返る。

「あなたたちだって、痴情のもつれの最中であってもお腹は空くでしょう」

 痴情のもつれ。わたしが日常会話で一度も使ったことのないフレーズが飛び出した。なに言ってるの、とたじろぐ栄輝を、八重子さんがまっすぐに見返す。

 再会してからずっとずっと、今にも消え入りそうな風情だった八重子さんの態度がみょうに堂々としてきた。いったいどうしたというのだろう。

 店内に入ると、暖はメニューを小脇に抱えて近づいてきた店員さんに向かって右手の指を三本、左手の指を二本立てて見せた。

「三名と二名です」

 栄輝と麗菜さんは厨房近くの二人掛けのテーブルに、わたしと暖と八重子さんは窓際の四人掛けのテーブルに通された。かなり距離が空いていたので、もうこれで「会話を聞かないようにする」という努力をせずに済むと思ったらほっとして、強烈な空腹を感じた。

 八重子さんは注文用のタブレットを興味深げに眺めている。

「今は、こんなふうになっているのね」

「そうですね。けっこう増えてきましたね、こういう店が」

 暖が八重子さんに注文のやりかたを説明している。八重子さんの細い指が何度も、めずらしげにハンバーグとデザートのページをいったりきたりしている。どうやら、この操作を楽しんでいるらしい。

「世の中は、どんどん変わっていくのねえ」

 八重子さんは、「あまりお腹が空いていないから」とサラダを選んだ。わたしと暖はピザとパスタを半分ずつわけあうことにした。

「ちゃんと注文できたのか、不安ね」

「だいじょうぶですよ、ちゃんとできてます」

 だいじょうぶ、と言われた瞬間、八重子さんの表情がわずかにほころんだ。「あ」と思った時にはもう消えてしまっていたけれども、たしかに喜びが垣間見えた。

 むこうのテーブルでは、栄輝と麗菜さんがうつむきがちに話し合っている。

「以前から彼らの関係を知ってたんですか?」

 運ばれてきたピザをとりわける。のびたチーズをフォークで巻き取っていた暖が、八重子さんに訊ねた。

「本人たちから聞いたわけじゃないけど。会社の中のことだし、いろいろ耳に入ってきてはいた。栄輝も浮足立ってたし」

「浮足立ってたんだ」

 地に足がついていないとはこういう状態を言うのかと八重子さんはしみじみ感心したという。「れなれな」という呼び名からもそれはうかがえる。

 社長と社員ではあるが、たがいに独身だ。なんの障壁もない。ただそうは思わない人間もいる。例の親戚役員の中には麗菜さんの「育ち」を理由にふたりの交際に反対する者もいた。まだそんなことを言ってんのかよ、と呆れながら、わたしはフォークにパスタを巻きつける。

「八重子さんはどう思っていたんですか?」

「このまま結婚してくれたらいいな、と思ってた」

 意外な言葉に、思わずじっと顔を見てしまう。だって、と身を乗り出す八重子さんの頬がかすかに赤みを帯びている。

「誰かを好きになったり、誰かに好かれたり……あたりまえじゃないのよ。そういうことに一生縁がないまま死ぬ人だっているの。なのに栄輝は、なにがあったか知らないけど急に別れるなんて……わたし、怒っているのよ。すごく」

「まあでも、気持ちが変わることはあると思うので」

 暖は栄輝をかばうような言いかたをする。

「わかってますよ」

「だけど一方的に別れようって連絡して、その後逃げまわるとかはだめですよね」

 わたしが口を挟むと、八重子さんは「そう、そういうことが言いたかったの」とまじめな顔で頷いた。

「怒ったら、なんだかお腹が空いてきちゃった」

「このピザ、ちょっと食べませんか。それとも、なにか追加で注文しますか」

「じゃあ、すこしいただこうかな」

 八重子さんは皿にとりわけたピザを口に運ぶ。これおいしいわねえ、と感心したように呟いた。

「ね。なかなかいけますよね。もう一枚頼みません? わたしも食べたいし」

「そうね」

 すでにやりかたをマスターしたらしく、タッチパネルをすいすいと操作する八重子さんを見ながら思う。

 この人を元気にするのは、誰かが優しい言葉をかけることでも、そっと寄り添って手を握ってあげることでもなかった。

 わたしはいつも、まちがう。八重子さんはわたしが思っているより、ずっと強い人なのに。いや強いから現実に向き合えるんじゃなくて、向き合うたびに強さを取り戻す人なのかもしれない。

 わたしがそばにいてもいなくても変わらなかった。わたしがこの人にしてあげられることなんか、昔も今も、なにもなかった。

 

(つづく)