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「いったい、どういうことなの? こんなところに入りこんで、なにをしているの? なんとか言いなさい!」
 喋っているうちに興奮してきたのか、最後あたりは咆哮に近かった。栄輝が両耳を押さえて、ぎゅっと顔をしかめている。大きな声が苦手なのだ。この家に通いはじめた頃は、南雲家の人は誰も怒鳴ったり叫んだりしないのだなあ、お上品な家というのはそういうものなんだろうか? と思っていたのだが、のちに栄輝への配慮であると知った。
 ミネおばはすでにコートを着込んでいる。もう帰るところだったのだろう。最後に栄輝に挨拶を、と二階に上がってきたにちがいない。
 騒ぎを聞きつけた八重子さんが姿をあらわす。ミネおばはわたしを指さしながら、自分が目撃したことをまくしたてた。頬が紅潮し、息がひどく荒かった。おばさま落ちついて、となだめる八重子さんの声はほとんど耳に入らないようだった。
 言い訳しなければと思う。する必要なんかないとも思う。人のものに勝手に触ったのは事実だ。盗むつもりなどこれっぽっちもなかったとは言い切れない自分もいる。栄輝が出てくるのがあと数分遅かったら、わたしはほんとうにこのネックレスをポケットにいれていたかもしれないのだ。
 自分はぜったいに罪を犯さない。そう言い切ることのできる人が、わたしはうらやましい。どうしてそんなに真っすぐに、自分を信じられるのだろう。
 八重子さんが一瞬、わたしをじっと見つめてからミネおばに向き直った。
「誤解です。だってあれ、わたしがあげたネックレスですもの」
 ミネおばの口がぽかんと開いた。
「嘘でしょう?」
 八重子さんは「彼女に、あげたんです」と繰り返す。
「今朝がた、もうつけないからあげる、と約束したんです。わたしは、ほら、忘れんぼうでしょう? 約束して、そのまま忘れちゃうかもしれないから、自分で取りにいってね、寝室の鏡台にあるからって、そう言っておいたの。そうよね、鳴海さん?」
 ミネおばはひくつく唇を隠すように口もとに手を当て、わたしの様子を窺っている。八重子さんはなにも答えないわたしに近づいてきて、ネックレスを取った。留め金を外し、わたしの首にそれを装着しながら「それにこれ、イミテーションですよ。若い頃に自分で買ったんです。あの頃お友だちのあいだではやっていたの、わざとイミテーションをつけるの。ミネおばさまなら本物と偽物の違いぐらいおわかりになるでしょう? 近づいてよく見たら、きっとおわかりになります。こんなものを、わざわざ盗むわけがありません」
 ミネおばさまったら、うふふ、と八重子さんはすこぶる可憐に笑った。
 嘘だ。だってわたしの首にかかったそれはずっしりと重く、ひんやりしている。ほんものの真珠は重いのだといつか母が教えてくれた。ほんものをプレゼントしてくれるような男を選びなさいよ、イミテーションを買うようなケチな男じゃなく、とも母は言った。いらない、とわたしは思った。ほんものの真珠も、わたしになにかを買い与えて気をひこうとするような男も、いっさい必要ないと。
「あら、そう……」
 ミネおばは焦ったようにメガネをずりあげた。
「そうだったの」
 あわてたように頷き、一瞬、わたしにするどい視線を向けた。だとしても、あんたがろくでもない女だってことにはかわりないけどね、とその目は語っていた。ごめんなさいね、とミネおばは言ったが、それはわたしではなく八重子さんに向けられた謝罪だった。
「そういうことね。わかりました。八重子ちゃん。あなたの言いたいことはね、よくわかりましたよ」
 育ちの悪い人。さっき言っていたその言葉は、やっぱりわたしにたいしてのものだったのだ。履歴書に嘘を書き連ねても、態度や言葉遣いをどう取りつくろっても、全身から滲み出ているのだろう、「育ちの悪さ」が。
 でも、だからなんだ? という思いもある。だからなんだというのだ。なにを恥じる必要がある?
 ミネおばが帰るというので、玄関まで見送りに行く。彼女はわたしを無視することに決めたようだった。さよならもまたねもなく、玄関のドアが閉まる。八重子さんはドアノブに手を添えたまま、しばらくこちらに背中を向けていた。
「あの」
 八重子さんの背中に向かって声をかけたが、言葉が続かない。なにを言えばいいのだろう。かばってくれてありがとうございました、とか?
 八重子さんが息を吐き、背中が大きく上下した。振り返った顔は、頬が上気し、喜びに輝いていた。
「うまくいったわね」
 ちっともうまくいってなんかいない。八重子さんはミネおばがさっきの八重子さんの嘘を信じたと本気で思っているのだろうか? そんなわけがない。ミネおばはイヤな女(わたしにとっては)だが、馬鹿だとはとうてい思えない。さきほどの「よくわかりました」は、「わたしに嘘をついてまで、あなたはこの女をかばうのね。そんなひどいことをする子だったのね、よくわかりました」という意味ではなかったのか。すくなくともわたしはそう受けとめた。
「ママ、うそついた」
 栄輝がびしりと八重子さんを指さす。
「あげる約束なんかしてない」
 八重子さんが膝を折り、栄輝と視線を合わせる。
「ほんとうにそうね。ママはうそつきね」
 栄輝は抱きしめようとする母親をするりとかわした。玄関のドアの鍵をはずし、靴も履かずに外に飛び出した。
 わたしは栄輝の靴を持ってそのあとを追いかける。数メートル走ったところで、背後から八重子さんに呼ばれた。振り返ると、あとをついてきている。よたよたしていてあぶなっかしいが、栄輝をつかまえるのが先だ。
 全力で走れば簡単に追いつける。わたしは大人で、栄輝は五歳男子の平均よりも小さい。押さえつけることもできるが、そうはしなかった。どこまでも並走していると、栄輝が「ついてくるな!」と叫んだ。
「いやだ!」
 わたしも負けじと叫び返す。しばらく走りつづけたのち、ようやく立ち止まってくれた。あとすこしで交差点に出る、というタイミングだった。あぶないところだった、と額に滲んだ汗を手の甲で拭う。
 振り返ると、八重子さんがあとを追いかけてきていた。脇腹を押さえ、眉間に皺を寄せている。
「ママ、苦しそうだよ。ここで待っていよう」
 わたしが言うと、栄輝はむんと唇をへの字に曲げた。なんで外に出たの、と言いながら、ひざまずいて靴を履かせる。栄輝は答えなかった。
 母親が嘘をついたことにショックを受けたのか、あるいは。どうなの、と質問を重ねても、やっぱり黙っている。走っているうちに忘れてしまって説明できないのかもしれない。
 八重子さんがようやくわたしたちに追いついた。ぜいぜいと息をする合間になにを言うかと思えば「鳴海、さんは、足、が、速い……のね」とのことだった。
 足が速いと言われたのは生まれてはじめてだった。ものすごく遅くはないが、運動会で活躍した記憶もない。年齢と体力の差だろう、と思いながら、わたしは八重子さんの呼吸が整うのを待った。
「八重子さん。だいじなお話があります」
 栄輝は嘘に敏感だ。このようなことが続けばいずれ大人を信用できなくなってしまうだろう。
 八重子さんに嘘をつかせたのはわたしだ。この事態の責任は、わたしにある。
「こわい顔、鳴海さん」
 そう言いながら、八重子さんは自分の眉間のあたりを指でとんとん叩いた。わたしはいつのまにか、かたい表情になってしまっていたらしい。息を細く長く吐いて、気持ちを落ちつかせようとこころみた。
「いいお天気だから、お散歩しながら話しましょう」
 八重子さんが歩き出す。栄輝もわたしも、そのあとに続いた。
 このあたりは歩道が広いので歩きやすい。わたしは斜め前を歩く八重子さんに向かって口を開いた。
「あの履歴書、ぜんぶ嘘です」
 八重子さんは振り返らない。
「ぜんぶ?」
「名前と住所と生年月日以外ぜんぶです。幼稚園教諭の免許は持っていないし、大学も出ていません」
 栄輝は話がよく理解できないらしく、不審そうにわたしの顔と母親の背中を見比べる。そう、と、八重子さんが前を向いたまま言った。
「知っていました」
 エミリの両親から連絡があったそうだ。
 エミリの両親は、自分のかわりに自分の同級生を紹介する、という娘の話に疑いを持っていたようだ。人を使って調べさせ、わたしがたんなる高卒のフリーターであることをつきとめ、大あわてで南雲家に連絡した、という経緯だった。わたしが面接に行った日の前日のことらしい。つまりなにもかも承知のうえで、八重子さんたちはわたしを採用したということになる。
「どうして」
 履歴書の内容が嘘だということは八重子さんと忠雄さんしか知らない。「いくらなんでも経歴を詐称するような人はちょっと」と難色を示す忠雄さんを、まずは一度会ってみて、と八重子さんが説得した。これまでいろいろな人に来てもらった。非の打ちどころのない経歴の人ばかりだった。でもその人たちはみな栄輝を扱いかねてやめていった。
「わかる? わたしたちにはもう後がなかったというわけ」
 八重子さんがちらりとこちらを振り返る。それから、すこしさびしげに唇の端を上げた。
「すべて承知で鳴海さんに来ていただくことにしました、と先方にお伝えしたの」
 経歴詐称の件は内密に、と頼んだのだという。エミリが今日までなにも言ってこないところを見ると、「内密に」はかたく守られているようだ。

 

(つづく)