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 エミリがわたしのために用意した履歴書は、生年月日など以外はおおむねエミリの人生をそのまま記したものだった。教員免許状を見せろと言われるのではないかと案じたが、エミリは「だいじょうぶだって」と言い張る。
「だいじょうぶだよ。この履歴書があれば、信じてもらえるって」
 その気になればいくらでも嘘をつけるこの紙切れを、どうしてそんなに皆あっさりと信じるのだろう。
「あのね、鳴海ちゃんって、なんとなく品があるんだよね」
 エミリは腕組みして、わたしの頭のてっぺんからつまさきまで眺めた。他人からそんなふうに見られるのは慣れていない。思わずそっぽを向いてしまった。
「顔立ち……いや、雰囲気かな。黙ってたら、どこぞのお嬢さまみたいに見えるよ」
「黙って子守するわけにはいかないんだけど」
 まあ、ばれたらそれまでの話だよね、という結論に達した。
 履歴書と地図を手に、わたしは南雲家を目指した。
 なぐも製菓はおもにおせんべいやおかきをつくる会社だ。南雲屋という和菓子屋がそもそものはじまりらしい。代々その家の長男があとを継ぎ、数年前までは順調に代替わりがおこなわれていたが、何代目かの長男が急死してしまった。子どもはおらず、残っているのは娘のみ。
 そこで娘に婿をとらせ、婿を社長の座につかせた。そんなややこしいことをせずとも娘が社長になればいいではないかという疑問を口にすると、エミリは「わかってないね」と言いたげに首を横に振っただけだった。
 婿の名は南雲忠雄、妻の名は八重子。彼らのひとり息子の名は栄輝。順当にいけばこの栄輝が忠雄の次の社長になる、というわけか。
 どれほどの大豪邸なのだろうとわくわくしていたが、丘の上の住宅街にあるその家は拍子抜けするほど普通の二階建ての木造住宅だった。高級住宅といえばそうなのかもしれないが、わたしが想像していたような部屋がいくつあるかわからないとか敷地内で迷子になるとかいうようなお屋敷ではなかった。三角屋根の、飾り窓がついた、クリスマスケーキにでものっかっていそうなかわいいお家だ。粉砂糖をふりかけてみたい。
 インターホンを鳴らすと、はい、と女の声で応答があった。
「十六時に面接のお約束をしていました、山口鳴海と申します」
 ぶつ、という雑音の後に、「八重子さんはお庭のほうにいらっしゃいます」と声が聞こえた。じゃあこの人はなんなのだ。家政婦かなにかだろうか。
 門扉がかしゃんと音を立てる。ロックが解除されたらしい。一瞬驚いて後ずさりした自分が恥ずかしかった。
「玄関をぐるっとまわっていただくと、お庭に出られますので、そちらに直接来てほしいとおっしゃっています」
 言われたとおりに、庭を目指した。目が痛くなるほど青い芝生が続いていて、真っ白なブランコが設置されているのが見えた。
 塀に沿うように花壇があり、その前にひとり、しゃがみこんでいる女性がいた。「こんにちは」
 声をかけると、女性は驚いたように立ち上がり、なぜかおそるおそるといった様子で振り返った。わたしよりもずっと背が低い人だということが、その立ち姿によってわかった。
 ずいぶん地味なかっこうをしているんだな、というのが、南雲八重子の第一印象だった。綿のシャツを着て、化粧っ気はない。五歳の子どもがいると聞いていたからおそらく三十代、いや、ことによれば二十代ぐらいかと思っていたが、目の前にいるこの人はあきらかに四十代なかばだった。
「あの、わたし」
 名乗りかけたわたしの声は、背後から聞こえてきた絶叫によって遮られた。なにごとかと振り返ると、小さな男の子を抱っこした男が庭に入ってきたところだった。いや、あれは抱っこなんていうかわいらしいもんじゃない。男の子は激しく全身を揺らし、足をばたばたさせ、絶叫しながら抵抗している。南雲忠雄と栄輝だということはわかったが、もっと金持ちの親子らしく上品に登場すると思っていたので、しばらく口がきけなかった。
 南雲八重子同様、南雲忠雄も老けていた。五十代ぐらいじゃないだろうか。孫と祖父と言われたほうが、まだしもそれらしく見える。エミリが栄輝について「すごくわがままで手がかかる子」であるらしい旨のことを話していたが、目の前でかんしゃくをおこしているこのガキは「手がかかる」ってなレベルじゃねえぞ、と思う。
「あと三回すべり台滑ったら帰るって約束だったのに、泣き出しちゃって」
 南雲忠雄が頭を掻く。薄い髪が汗で頭にぺったりとはりついていた。その間にも栄輝は叫び続け、南雲忠雄は顔をしかめて耳を押さえている。
「栄ちゃん、泣かないで」
 南雲八重子は駆け寄っていって抱きしめようとしたようだったが、ばたつく足に蹴られた格好になり、小さくよろめいた。父親の両腕からずりおちた栄輝は、芝生に転がって泣き続ける。わたしはゆっくりと、彼に近づいていった。
 子どもは泣く。泣き止ませようとすると、よけいに泣きわめく。だが、永遠に泣き続けることはできない。
 南雲忠雄が不審そうにわたしを見、なにか言おうとするのを手で制した。わたしは栄輝の傍らにしゃがんで、相手の体力がつきるのを待った。南雲八重子がなおも栄輝を抱き上げようとするので「やめてください」と小声で制した。
「でも……」
「かまうと、もっと泣きます。普段もそうじゃないですか?」
 どうしてわかるの、と南雲八重子が言った。「あなたになにがわかるの」と反発しているわけではなく、本気で「どうしてわかるんだろう?」と驚いているらしく、目が真ん丸に見開かれていた。
 次第に栄輝の泣き声が弱まってきた。しゃくりあげるあいまに、横目でわたしを観察してさえいる。目が合ったので「今だ」と声をかけた。
「そんなにおもしろかったの? そのすべり台」
 栄輝の目尻に溜まっていた涙がこぼれて、芝生に落ちた。
「……タコのやつ」
 叫び過ぎて嗄れてしまったような声で、栄輝が言った。タコのすべり台のある公園なら、わたしも弟たちを連れていったことがある。
「知ってる。あれ、楽しいよね」
 栄輝が大きく鼻を啜った。汗で前髪が額にはりついてる。ひっ、ひっとしゃくりあげるたび小さな肩が揺れ、わたしはいつまでも泣き止まぬガキへの苛立ちと甘いような憐憫とを同時に味わった。
「すべり台が好きなんだね、栄輝くん」
「ちがう。ブランコが好きだよ」
 じゃあなんでそんなに泣いてんだよと思うが、口にはしない。にっこり笑って「へえ」と頷いてみせた。
「ねえ、栄輝くん。あそこにもあるね、ブランコ」
「栄ちゃん、じょうずだよ」
 栄輝がはねおきた。ブランコに向かって駆けていく。
「見ててね」
 わたしに向かって言い放ち、立ちこぎをはじめた。
「ほんとだ! やるね!」
 栄輝が真っ赤な顔をくしゃくしゃにして笑った。
「きみ、すごいなあ。あっというまに栄輝と仲良くなっちゃったね」
 かたわらで南雲忠雄が感心したような声を上げた。
「ねえ、八重子」
「ほんとに」
 南雲八重子はわたしと目が合うと恥ずかしそうに微笑み、夫にぴったりと身を寄せた。生まれてからずっと誰かに守られ、愛されてきた人間の仕草だった。
 わたしはおそらく、この夫婦に雇われるだろう。安堵と同時に、仄暗いものが胸に広がる。この感情をなんと呼ぶかは知っている。妬み、だ。もっとも醜い感情のひとつとされ、ひた隠しにされる。
 男は、女は、とよく言うけれど、女のすべてが同じ世界に住んでいるわけじゃない。この女は、わたしがどうあがいても足を踏み入れることのできない世界の住人だ。泣けるほど安い時給のためにコーヒーを運んだ経験など、きっと一度もないだろう。金持ちの家に生まれ、親や夫に守られてぬくぬく暮らし、自分が産んだ子どものあつかいかたも知らないこの女が、満ち足りた赤ん坊みたいな笑顔をわたしに向けた。
「これからよろしくね、山口鳴海さん」
 こういう女って大嫌い。そう思うのに、わたしは南雲八重子から目をそらすことができなかった。どうしてだかわからないけど、ずっと見ていたい。でも、見ているとひどく胸が痛くなる。
 涙が出そうになったのを、目を擦るふりをしてごまかした。

 

(つづく)