朝食を終えると、宏海はあんのじょう「仕事に行きたくない」とごねだした。でも、わたしも暖もそれを許さない。
「どうせクビになるよ」
トラブルをおこしてはやめさせられる。何度もそれを繰り返してきた宏海だが、だからと言って無断欠勤はいけない、と辛抱強く諭した。
「だとしても、行くんだよ。クビになるって言うなら、なっておいでよ」
「帰ってきたら、一緒に図書館に行こう」
わたしたちに送り出され、宏海はしぶしぶ出勤していった。何度も振り返るので、そのたび手を振らねばならなかった。
「あの子は、ちゃんと『子ども』をやれなかったんだよ」
言い訳じみていると思ったが、口にせずにはいられなかった。暖は宏海に手を振りながら「それは、鳴海ちゃんも一緒じゃないの」と言った。
「うん」
頷いてから、八重子さんも、と思った。状況はまったく違っているけれども、その点においては共通している。
「わたしも、行かなきゃ」
「うん。おれも」
交差点で暖とわかれ、わたしは南雲家に向かった。玄関のドアの前で、深呼吸を繰り返した。昨晩、八重子さんにろくに説明もせずに家を飛び出してしまった。
よけいな言い訳をしたり嘘をつかず、すべて正直に話そう。そう心に決めて、インターホンを鳴らす。ドアを開けてくれたのは三枝さんでも八重子さんでもなく、忠雄さんだった。
家の中はしんとしている。忠雄さんは冷ややかなまなざしをわたしに当てたまま「栄輝はいませんよ。ミネさんに預けました」と言った。
「今日は、きっときみは来られないだろうと思ってね。弟さんが逮捕されたんだろう?」
なんと答えればいいのかわからなかった。「逮捕」と口にする時の、忠雄さんの汚いものでも見ているような表情に臆したのだ。
「逮捕されたわけではありません。ただちょっとトラブルを起こして、それでちょっと、補導されたというか」
「とにかく、警察の厄介にはなったわけだ」
忠雄さんの声が一瞬大きくなったが、それから、自重するように小さく咳払いをした。中に入るように促される。
「八重子は、二階で休ませてます」
昨日、わたしが飛び出していった後、八重子さんは泣きじゃくりながら忠雄さんに電話をかけてきたらしい。どうしていいのかわからないの、と言っていたという。
「きみのことを心配して一睡もできなかったようだ。わたしも放っておけなくてね、急いでこっちに帰ってきたんですよ」
わたしは靴を脱ぎながら、謝罪の言葉を探したが、出てきたのはなぜか「ああ、女の人のところに行ってたんですよね」という非難がましい言葉だった。顔を伏せていても、忠雄さんが一瞬、ぐっと言葉につまったのがわかった。
「関係ないだろう」
「……そうですね。すみません」
居間に通され、ソファーに向かい合うかっこうで腰を下ろす。三枝さんが紅茶を運んできてくれたが、わたしとは一切目を合わせてくれなかった。
しばらく無言で向かい合っていた。冷めていく紅茶を見つめながらわたしが考えていたのは、八重子さんと栄輝のことだった。たぶん忠雄さんはこれからわたしにクビを宣告するつもりなのだろう。最後にせめてちゃんとさよならを言いたいが、この様子ではとてもじゃないが望めそうにない。
「八重子から聞いたのか?」
忠雄さんが忌々しそうにこめかみに手を当てる。
「なにをですか?」
訊き返してから、その質問が先ほどのわたしの「女の人のところに行ってたんですよね」という発言にたいするものだと気づいた。
「いいえ。あてずっぽうで言ってみただけです」
嘘はつくまい、と決めたそばからもう嘘をついている。でもどうしても、八重子さんから聞いたと言いたくなかった。
ふん、と鼻から息を吐いた忠雄さんがこめかみに手を当てる。ひどく顔色が悪いことに、いまさらのように気がついた。
「きみの目に、どう見えているのかは知りませんけどね」
でもね、の後に続いた声が、かすかに震えていた。
「これでもね、ぼくは八重子を愛しているんですよ」
ドラマや映画以外で「愛している」という言葉を耳にしたのは生まれてはじめてだった。この言葉を日常的に使う人って実在するんだ、と鼻白んだせいで、反応するのが遅れた。しかし忠雄さんはわたしの返事があってもなくても構わないようで、顔を背けたまま喋りつづける。
「はじめて会ったのはね、彼女が十五歳の時です。なんてかわいいんだろうと思った。もちろん、へんな意味じゃない。分家の三男坊のぼくからすれば、お姫さまみたいなもんだ。きみにわかるかな」と、忠雄さんはそこで言葉を切り、紅茶を飲んだ。
わたしは返事をしなかった。感情が昂ると一人称が「わたし」から「ぼく」になるんだなあと、どうでもいいことを考えている。忠雄さんは今やはあはあと肩で息をしはじめていた。疲れているのだろうなあと思い、その疲れの一因にわたしも含まれているんだなあとも思ったけれども、ふしぎと申し訳ないとは感じなかった。
「八重子はね……かわいそうな人なんです。女だから会社を継げない、と言われて、ずっと『いらない子』としてあつかわれて。会社のためとはいえ、こんな好きでもなんでもない冴えないおじさんと結婚させられてね。でもね、ぼくなりに守ってきたつもりですよ、家庭も会社も。ぼくは八重子ほど傷つきやすくて繊細な人を他に知らないから」
「それこそ、わたしには関係ない話です」
「あるんだよ。わかっているだろう、きみも」
「わかっているって、なにをですか」
「きみが来てから、八重子は変わった。いや、おかしくなった。きみは八重子に悪い影響を与えている」
バカじゃないの。最初に頭に浮かんだその言葉を口に出さずに済んだのは、今朝の暖が話していたことを思い出したからだ。器を溢れさせないように、必死に言葉を探した。
「八重子さんはたしかに、傷つきやすくて繊細な人です。でも、ただそれだけの人だとも思いません」
わたしの知っている八重子さんは、と続けたら、涙が出そうになった。
「あきらめない人です。自分の心を、まっすぐに見つめられる人です。傷ついて、落ちこんで、それでも前に進もうとする人です。わたしが来たから変わったわけじゃない。そういう人だったはず、あなたたちが知らなかっただけでね!」
結局、最後は叫び声になってしまった。
「きみが八重子のなにを知ってるっていうんだ?」
忠雄さんがソファーから立ち上がった。唇がわなわなと震え、顔面が蒼白になっている。
「知ってます。忠雄さんが知らない、たぶん一生知ることのない八重子さんを、わたしは知っているつもりです」
わたしのその言葉は、確実に忠雄さんを殴ったらしい。身体を大きくぐらつかせながら居間のドアに歩み寄り、縋るようにドアノブを掴んだ。
「帰ってくれ」
忠雄さんはたぶん、そう言ったのだと思う。その時のわたしの耳には「あえってうれ」と聞こえた。
駆け寄って、支える間もなかった。忠雄さんの身体が床に横倒しになり、わたしはぼうぜんとそれを見ていることしかできなかった。
物音を聞きつけた三枝さんがやってきて、ドアを開けた。ドアの先に倒れている忠雄さんに気づいて、小さな悲鳴を上げた。
「あんた、いったいなにしたの?」
それは質問というより、叱責のように聞こえた。「わかりません」と答える自分の声が、なぜかとても遠くから聞こえた。