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 勝手に連れてきただけだから、と再三言っておいたにもかかわらず、帰り際に八重子さんは暖に謝礼の入った封筒を渡していた。
「やったね。ごはん食べに行こうよ、鳴海ちゃん」
 帰り道を歩きながら、暖は封筒を街灯にかざし、透かし見ようとしている。
「いくら入ってると思う?」
「知らない。さっさと開ければ」
「わかってないな。どれぐらいかな、って想像するのが楽しいんだよ。ねえ、なに食べたい?」
「お酒」
 下を向いたまま答える。暖がちょっとびっくりしたようにわたしを見たのがわかった。
「お酒は食べものじゃないよ」
「だめなの?」
「いいけど、めずらしいね」
「なんとなく、そういう気分だから」
「生ビール」というのぼりがある、薄汚い店構えの食堂を、暖が「あそこでいい?」と指さす。入ったことのない店だったが、かまわない。
 店内は意外なほどに混んでおり、カウンターのまんなかあたりの中途半端な席しか空いていなかった。あまりお腹が空いていなかったので、注文は暖にまかせた。ジョッキがふたつと枝豆の鉢と、なんだかよくわからないものを煮込んだ茶色い料理の皿がつぎつぎと並べられる。
 ビールってすごくお腹がふくれるな、と思いながら、ジョッキの半分ほどまで飲みすすめた。暖はしきりに「ほら、食べな」「もっと食べな」と枝豆をすすめてくるが、どうしても食欲がわかない。目の奥が鈍く痛む。どうやら、すでに酔いはじめているようだった。
 でもちょうどいい。酔ってでもいなければ、話すのが難しい。
「八重子さん、あんたのことずっと見てたよ」
 わたしのその言葉に、テーブル席にいた男たちの笑い声が重なった。言ったとたんに後悔して、暖が聞き逃してくれたらいいと思ったのに、ちゃんと聞こえてしまっていた。
「そうなの?」
「うん」
「まあ、おれは顔がいいからね」
 冗談のつもりなのだろうが、まぎれもない事実であるゆえに、冗談が成立していない。
「八重子さんって、恋愛経験がないんだって。すごく憧れがあるみたいだった」
「憧れ? 恋愛に?」
「うん」
 わたしはまたビールを飲んだ。ビールは着実に減っていくのに、なぜかジョッキはどんどん重みが増す。カウンターに置いたら、ごつんと鈍い音がした。
「次行った時、八重子さんに言ってあげてよ、なんか」
「なんかって?」
 暖はおだやかに微笑んだまま、わたしに問う。視線はカウンターの奥に据えられていた。
「わかんない。きれいですね、とか。そういう、女の人が喜びそうなこと」
 もうやめよう、こんなことを言うべきじゃない、と思えば思うほど、わたしの口は勝手に動いた。
「べつに取り入れとか、そういうことじゃないんだよ。ただ、たださ」
「鳴海ちゃん」
 暖はいつのまにか、ジョッキを空にしていた。目の縁が赤くなっていて、知らない男のように見えた。
「いったい、なにが言いたいの?」
 口調のやさしさは、やっぱりいつもの暖だった。
 なにが言いたいのだろう。自分でもよくわからない。
「わかんない、ごめん」
「ごめん、じゃないよ」
 暖がいきなり立ち上がった。
「あっさり謝るぐらいなら、最初から言うなよ」
 口もとは微笑んだままだったが、とんでもなく怒っているのはあきらかだった。そのままどこかに行こうとするので「どこ行くの」と袖を引っぱる。
「トイレ」
 暖はわたしを見ずに言った。ぎゃははははははは。テーブル席でまた笑い声が上がる。別のテーブル席から「そんなこと言ってるからさあ、お前はいつまでたってもだめなんだよ」という声が聞こえた。自分に言われているような気分になる。そんなこと言ってるから。お前はいつまでたっても。だめなんだよ。
 わたしは、暖に否定してほしかったのだろうか。そんなことしないよ、おれは鳴海ちゃん以外の女なんかどうでもいいんだから、とかなんとか言ってもらえるとでも思っていたのだろうか。暖にそんなことを言わせて、八重子さんへの優越感に浸るつもりだったのか。
 違う、そういうことじゃない。
 はじめて会った時、わたしは八重子さんのことを誰からも愛されて育った人に違いないと思った。だっていかにも幸せな女に見えたから。苦労なんかひとつもしたことがない人だ、と決めつけた。でも知れば知るほど、第一印象からは遠ざかっていく。
 もし八重子さんがこのさき暖と関わることでなにか幸福な気持ちを、あるいは自信のようなものを手に入れられるなら、協力してあげたい。あらためて言葉にすると心底馬鹿みたいだけど、さっきまで本気でそう考えていたのだ。
 つむじに生暖かい息がかかる。泣いてんのぉ、おねえさん、という声が降ってきた。さっき笑っていたテーブル席の男たちだと、特徴のあるみょうに甲高いその声でわかった。
「彼氏にふられちゃった?」
 顔を覆ったまま「うるせえ黙れ」と答える。
「ああ?」
 肩を強く掴まれ、わたしは顔を上げて男を睨みつける。
「なんて?」
「うるせえ、黙れ、って言ったんだよ」
 わたしが立ち上がるのと、男の背後に暖が立つのがほぼ同時だった。
「すみませんね、この子酔っぱらっちゃって」
 暖はへらへらと笑って男をテーブルに押し戻すととってかえして、今度はわたしを椅子に座らせた。
 こわいとは思わなかったはずなのに、膝に置いた手は小さく震えている。
「鳴海ちゃん。言葉は、人の気持ちを試すために使っちゃだめだよ」
 情けなくて、恥ずかしくて、頷くことしかできない。
「おれ、悲しかったよ、すごく」
「うん」
「もうああいうこと、言わないでくれよな。二度と。ぜったいに」
「わかった。ごめん」
 わたしは暖の心を踏みにじった。謝っても、その事実は消せない。洟をすすったら、フゴッという豚みたいな音が鳴った。
 暖は笑って、枝豆の莢をわたしの唇に押しあてる。口を開けたら、つるりとした豆がふたつ、いきおいよく飛び出してきた。噛んで飲みこんだら、また新たな莢が唇に押しあてられる。
「そんなに食べられないよ」
「はやく食べて帰ろ。ここ、うるさすぎる」
 わたしたちはせっせと鉢や皿のなかみを片付け、同じアパートに帰った。順番に浴室を使い、抱き合って、眠った。翌朝にはもう、昨日の会話のことは忘れたように朝食の目玉焼きの黄身の半熟加減について語り合った。こんなにあっさり仲直りができたのは、暖が寛容だからだ。それぐらいのことは、もちろんわたしにもわかっている。

 いつものように南雲家に向かい、玄関の前で深呼吸する。風が湿った土の香りを運んでくる。また庭をいじっているのかもしれない。
 庭にまわってみると、やはり八重子さんは花壇の前にしゃがんでいた。
「おはようございます」
「ああ……おはよう」
 八重子さんは上の空だった。さきほどから意味なく土を掘り返しているように見える。
「朝食は済んだ? お茶でも飲まない?」 
 居間に入ると、絨毯の上に無数のパズルのピースが散らばっていた。栄輝が二種類の、ほとんど埋まっていないパズルを前にしゃがみこんでいる。集中しているらしく、わたしが入っていって声をかけても顔をあげない。
「二種類のパズルのピースをまぜこぜにしちゃったの」
 八重子さんが小さな声で言った。
「わざと難しくしたんですって。小さい子向けのパズルは簡単過ぎるからって」
「千ピースぐらいのやつを買ってあげたらどうですか」
 八重子さんは答えない。ソファーに腰を下ろすと、三枝さんが紅茶を運んでくる。八重子さんは自分の左手を右手で揉むような仕草をしながらしばらく言い淀んでいたが、ようやく決意したように口を開いた。
「鳴海さん、わたしね。もっと自分に自信を持ちたい」
 この導入からどのような話題が展開されるのか、まったく予想ができなかった。はい、と慎重にもう一度頷く。頭に浮かんでいたのは、やっぱり暖のことだった。いったい、なにを言い出すのだろう。
「働こうと思ってる」
「そうですか……え?」
「無理だと思う?」
 八重子さんの瞳が不安そうに翳る。いえ、と慌てて言った。
「いえ。いえ、いいと思います」
「ほら、角を曲がったところに、赤い屋根のお店があるでしょう? 紅茶とケーキのお店」
 店の入り口のところにはり紙がしてあったそうだ。昨日、わたしたちが帰ってからそこを訊ねてみると、今は担当者がいないので明日のこの時間に来てくれ、面接をするから、と言われたという。
「でも外で働くとなると、栄ちゃんをあなたにまかせきり、ということになってしまうでしょう?」
 だからいちばんにわたしに相談することにした、と八重子さんは言う。忠雄さんとか、もっとほかに相談すべき(というか、相談しないとあとあとうるさそうな)人がいるのではないかと思ったが、とりあえず「こちらは問題ないです、たぶん」と答えた。
「そうか、仕事ですか」
 はー、と息を吐いて、ソファーにもたれかかる。
「てっきり、暖の話かと」
 安堵のあまり、うっかりそう口走ってしまう。八重子さんは怪訝な顔で「あなたの恋人が、どうかしたの?」と訊ねる。
「いえ、昨日ずっと見てたし、あの、『素敵』って」
「ああ、うん。栄ちゃんって、なんて素敵な子なんだろうって。わたしね、見習わなきゃと思ったの」
 暖を見ていたわけではなかったのだ。というか、さっき聞き流しかけたが、八重子さんは暖のことを「あなたの恋人」と表現した。
 気づいていたのか。
「鳴海さん。ね、あなたもしかして、わたしがあなたの恋人に横恋慕しているとでも思っていたんじゃない?」
 おかしそうに口もとをゆるませる八重子さんに、深く頭を下げる。
「はい。たいへん失礼しました」
「馬鹿ねえ」
 八重子さんはとうとう声を上げて笑い出した。ひとしきり笑ってから、目尻ににじんだ涙をぬぐい、「恋愛はね、いらないのよ」と静かに言った。
「いらないんですか?」
「ええ。わたしに必要なのは、そんなものじゃないの」
 わたしはほんとうに馬鹿だ。なんにも見えていなかったし、なんにもわかっていなかった。
 その日、緊張の面持ちで面接に向かった八重子さんの帰りを待つあいだ、わたしはほとんどなにも手につかなかった。一時間もかからなかったと思うけれども、もっと長く感じられた。
「ただいま!」
 帰宅した八重子さんの上気した頬を見て、すぐに結果がわかった。
「採用されたんですね?」
「来週から来てほしいって!」
「やりましたね!」
 八重子さんはわたしの両手をとった。そのまま勢いあまって、ふたりしてその場で飛びはねる。サイドボードに並べられた酒瓶や意味不明な置物が揺れた。顔を上げた栄輝がぽかんと口を開けている。
 一日四時間、週三日のアルバイト。以前のわたしなら、ごっこ遊びだと馬鹿にしたかもしれない。でもこれは八重子さんにとっての大きな前進なのだ。百回でも千回でも飛びはねて祝福したい。
「いやだ! なにをしてるんですか、いったい」
 居間に入ってきた三枝さんが、呆れと驚きが入り混じったような声を上げた。

 

(つづく)