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 そんなわたしたちとは対照的に、前方ではしょっぱなからずいぶん話がはずんでいた。というかおそらく暖が努力してはずませている。
「いえ、今のほうが楽でいいです」
 どんな質問だったのかはよくわからなかったが、栄輝がそう答えるのが聞こえた。
「みんなと同じようにできない、って、学校なんかだとしんどいもんですよね」
 そうですね、と頷いた暖が、ふいにこちらを振り返った。
「暇じゃない? なんか観る? 宏海くんが、DVDいっぱいあるって言ってたよ」
 暖が、ちょっとそこ開けて見てもらっていいですか、と栄輝に声をかけた。栄輝が物入れを探る。DVDのケースらしきものがとりだされた。
「えっと、『映画ドラえもん のび太の日本誕生』、あと『それいけ! アンパンマン だだんだんとふたごの星』」
 すべてのタイトルを読み上げていくつもりだろうか。十年以上前に、宏海に「近所にあったレンタルDVDの店が閉店する時にワゴンセールで百円だったのをしこたま買った」というような話を聞かされたことがあった。
「『バットマン』もある」
「いつの? 誰がバットマンやってるやつ?」
 どうやら、わたしが小学生の頃に公開された『バットマン』のようだった。あたりまえなのかもしれないが、古い映画ばかりだ。
「『プリシラ』はない?」
 わたしはあの晩、最後まであの映画を観ることができなかった。かたわらで八重子さんがかすかに身じろぎするのを視界の隅でとらえる。
「プ、なに?」
 栄輝が怪訝な顔で振り返る。わたしはもう一度タイトルを繰り返した。聞きとれなかったのか、あるいはきゅうに面倒になったのか、栄輝はDVDのケースをわたしに差し出した。見たところ『プリシラ』はなさそうだ。『マディソン郡の橋』があったので、ぎょっとして急いでケースを閉じた。この映画だけはぜったいにだめだ。
 中年の男女が恋に落ちます、女には家庭があり、それゆえたった四日間だけの秘密の恋でした。けれども彼らが互いのことを生涯忘れず、それぞれに「自分が死んだら、橋の上から遺灰を撒いてくれ」と言い残して死んでいきます……というようなストーリーだったはずだから。
 これを「切なく美しい大人の恋愛」と受け止めることができるかどうかは人によるだろうなと、観た時に思った。のち、惣菜店で働くようになった頃にこの映画の話になった。わたしが「あの映画、苦手でした」と言うと、例の店主の妻に「それは鳴海ちゃんが若いからよ」と笑われた。「そういう恋をしてしまうことって、あるのよ」と。ハン・バーグ侯爵との関係は、彼女にとって「そういう恋」だったのだろうか。
 そういえばあの頃よく店主の妻から「まだ若いからいいねえ」、「若くてうらやましいわあ」と言われていたけれども、その時の「若い」にかぎっては、否定的なニュアンスがあった。人生経験が浅い、未熟である、などのマイルドな言い換えだった。そういう意味では、わたしはいまだ「若い」。
 というか、もしかしたら忠雄さんと相手の女性はこの映画を観たか、あるいは原作の小説を読むかしていたんじゃないだろうか。だから同じお墓に入りたいだなんて感傷的な遺言を残したのかもしれない。
 あるいはわたしが知らないだけで、意外と世間の人びとは「現世で結ばれなかった相手と、死後に同じ場所で」という願望を抱えて生きているものなのだろうか。
 そんなことを考えているうちに、眠ってしまったようだった。何度か名を呼ばれたようだ。ゆっくりと目を開けると、車の外、開け放ったドアに手をかけて、暖がわたしを見ていた。
「鳴海ちゃん、ちょっとここで、休憩するから」
 どこかのサービスエリアのようだった。トイレとか行っといて、と言われて、のろのろと車から出る。栄輝がすでに連れ出したのか、八重子さんの姿はない。
 尿意は感じないが、いちおうトイレにむかう。手を洗って出てきたところで、八重子さんを見つけた。ペットボトルの緑茶を手に歩いていき、ベンチに腰を下ろす。わたしも急いで飲みものを買い、そのあとを追った。
「八重子さん。隣、いいですか」
 声をかけると、無言のままだったが横にずれてくれた。八重子さんを見失わないように、ほんとうに適当に自動販売機のボタンを押したのだったが、どうやらわたしが買ったのはミックスジュースのようだった。やけに甘い、そして謎のとろみのあるミックスジュースで、どうがんばってもひとくちしか飲むことができない。ふたをきつく閉めていると、八重子さんがだしぬけに口を開いた。
「栄輝は」
 しかし、そこで言葉が途切れた。わたしはミックスジュースのラベルに印刷された原材料名や製造会社名などを熟読しながら、辛抱強く続きを待った。
「どうしてもお骨を取り戻したいのね」
「そうみたいですね」
「お骨なんてただの物でしかないのに。死んでしまったら、それで終わりなのに」
 どうも八重子さんは、栄輝ほどにはお骨を取り戻したがっていないようだった。
「あの子にとっては父親だし、お墓参りなんかもしたいのだろうし」
「八重子さんは、お墓参りをしたくない?」
 もしかして、お骨はむりやり持ち出されたわけではなくて、八重子さん自ら渡したものではないのか。話しているうちに、そんな気がしてきた。だとしたらわたしたちは大宮の息子に会ってなにを話せばいいのだろうか。やっぱり返してください、とか?
「鳴海さん」
「はい」
 八重子さんの膝がこちらに向いたので、わたしも同じようにした。結果、正面から見つめ合うかたちになった。
「わたしはね、忠雄さんが倒れた時、うれしかった。後遺症が残って、自由がきかなくなるとわかったときもね、すごくうれしかった。どうしてだと思う?」
 わたしの返事を待たずに、八重子さんは「これでもう、あの女の人のところには行けなくなるんだ、そう思ったのよ」と続けた。
「夫を独り占めできるとか、そういうことじゃないのよ。あのね、ざまあみろって思ったの」
 ざまあみろ。そんな言葉が八重子さんの口から発せられたことが信じられず、ペットボトルを取り落としそうになった。
 車のほうにむかっていた栄輝と暖がこちらに気づいて、歩いてこようとする。わたしはそれを、手で制した。たぶん、今ここで遮ったら、八重子さんは二度と話してくれない気がする。
「びっくりでしょう。あなたに『結婚する前からわかってた』と話したの、覚えている? 物わかりのいいふりをしてね、ほんとうはずっと腹を立てていたのよ。憎んでいたの。忠雄さんのことも、彼女のことも。憎くて憎くてたまらなかった。床に倒れているあの人を見て、はじめてそれを自覚したの。嗤ってやったの。身体の自由がきかなくなったあの人を、うまく喋れなくなったあの人を、わたしは嗤った。自由になんかさせてやるもんかと思いながら付き添っていた」
 驚いた? と問う八重子さんの、ベンチに置かれた手が震えていた。わたしはその手に、触れようとした。だからおそるおそる手を伸ばした。けれども触れることはかなわなかった。八重子さんが手を引っこめてしまったからだ。
「あなたに手を握って慰めてもらう資格なんかないのよ、わたしには」
 八重子さんが立ち上がる。わたしはあわてて、そのあとを追った。
「栄輝くん」
 車まであと二メートルというところで、ふいに甲高い声がした。髪の長い女性が近づいてくる。目の覚めるようなオレンジ色のフレアスカートにエメラルドグリーンのブラウスと真っ白なバッグを合わせていて、南国の鳥のように目立っていた。
「なんで電話に出てくれないの?」
 声をかけられた栄輝は、助手席のドアに手をかけたままぽかんと口を開けた。
「なんでここにいるの?」
 タクシーで追いかけてきた、と、南国の鳥は叫ぶように言った。栄輝は呆然としていたが、我に返ったように「暖さん、車出してください」と叫んだ。暖はポケットを探りながら、もたもたしている。どうやら鍵についているプラスチックのプレートがポケットから出た糸に引っかかっているらしい。
「待って、逃げないで」
「暖さん! はやく! お母さんたちもはやくこっちに来て!」
 もしかしてこの子、「れなれな」さんなんじゃないのかなあ、と考えながらわたしは、後部座席のドアが開くのを待った。栄輝はなぜこの人から逃げたがっているのだろう。ストーキングされていたとか、そういうことでもない気がする。れなれな(推定)さんは、いまにも泣き出しそうな顔で栄輝を見つめている。両足ががたがた震えていて、その場から一歩も動けないようだった。
「八重子さん、とりあえず」
 車に乗りましょうか、と言おうとして隣を見たら、いなかった。
 れなれな(推定)さんは「泣き出しそう」から「泣き出した」に変化していた。ぎゅっと握りしめた拳を片目に押し当て、肩を震わせている。八重子さんはいつのまにか、彼女の隣に立っていた。
「いそかわれなさん。ねえ、泣かないで」
 八重子さんが言った。やけに力強い口調だった。いそかわれな。それが彼女の名前らしい。ほらやっぱりね、と思いながら見ると、栄輝はうつむいた。
「悪いけど、わたしたち、今から行かなきゃいけないところがあるの」
「はい」
 いそかわれなさんは「わかってます」と泣きながら応える。
「だから、お話は車の中でお願いします。乗ってちょうだい」
 いそかわれなと呼ばれた彼女は、顎の下までしたたり落ちた涙を拳で拭い、目を見開いた。
「いいんですか」
 八重子さんが栄輝に向き直った。
「栄輝。この人とちゃんと話をしないのなら、わたしはここで車を降りる」
 は、という声が、栄輝の喉の奥から漏れる。わたしはわけがわからず、暖と顔を見合わせた。

 

(つづく)