鉄棒につかまった栄輝が地面を蹴り上げる。身体がほんの一瞬宙に浮いたが、すぐに足が地面に戻った。はあ、と小さな体から落胆の息が漏れる。
「あのね、腕をこんなふうに曲げてみて」
鉄棒に自らつかまってみせる暖を、栄輝が真剣な顔で見つめている。
「目線はおへそだよ」
「うん」
何度挑戦しても、わたしは栄輝に逆上がりを成功させることができなかった。それで、暖に相談したのだった。水曜日なら手伝いに行けるよ、と言われた。バイト先の自転車屋の定休日なのだ。
忠雄さんはすでに出勤し、家には八重子さんと三枝さんだけだ。幸運なことに、今日は客人の姿はない。わたしと八重子さんは並んで立ち、すこし離れたところからふたりの練習を見守っている。
八重子さんには、暖のことを一緒に暮らしている恋人だとは話していない。というか八重子さんはどんな関係かとひとことも訊かなかったので、言いようがなかった。
「べつに逆上がりなんてできなくたって」
わたしが最初に相談をもちかけた時、暖はそんなふうに言っていた。暖は小学生の頃、逆上がりも「はやぶさ」もほとんど練習せずにできたという。「はやぶさ」とはなわとびの二重とびとあやとびを組み合わせた高難易度の技のことだ。
「大人になったらどっちも役に立たないよ」
たしかにそうだ。大人は逆上がりをしない。跳び箱も跳ばないし、ソプラノリコーダーも吹かない。できないことはできないままでもいい、と言うのは暖のやさしさだ。
「それに、まだ五歳でしょ。できない子のほうがずっと多いんじゃない? 小学生になってからでも」
「それじゃ遅いんだよ」
わたしは栄輝に「できないことができるようになる」喜びを、知ってほしかった。いや知るべきだと思った。弟の宏海は、練習とか努力とかいったなにか小さなことを積み上げていくような行為がとても苦手な子だった。できないことをまったく気にしないというのならまだしも、人並み以上に傷つきやすく、自分のできなさを恥じて、その恥をごまかすために努力する者を嗤う。
ほんとうは誰かがそばにいて、絶えず伝えるべきだった。何回失敗したって、間違えたっていいんだと。辛抱強く、そう伝え続けるべきだった。でもあの子の周りの大人は誰もそうしなかったし、姉のわたしもその役割を果たすには未熟すぎた。
逆上がりでなくてもいい。なんだってかまわない。でも他の子ができないことが自分にできたら、栄輝はきっと誇りを手にする。ひけらかす必要はない。胸の奥で輝いていれば、それでいい。
「もう一回やろうか? 栄輝くん」
こんどはさっきよりも身体が浮いた。
「いいね。よくなってきた。あと五回やったら休憩しようか」
頬を真っ赤にした栄輝が首を横に振る。
「できるまでやる」
あ、と声が漏れた。栄輝は宏海のようにはならないかもしれない。できるまでやる、と自らの意思で言える子なのだ。
栄輝はまっすぐに暖を見ていて、暖もまた栄輝をやさしく見下ろしている。ふたりの動きに合わせて、八重子さんの視線も動く。心なしか、頬も上気している。
恋愛の経験すらないのよ、わたし。
あの日ファミリーレストランからの帰り道で、八重子さんはそう言った。誰とも恋をしたことがなく、三十代後半でいきなり忠雄さんと結婚した。
忠雄さんは遠い親戚で以前からなぐも製菓に勤めていたので存在は知っていたけど、そういう目で見たことがなかったから両親から結婚するように言われた時にはほんとうにびっくりしたという。
「でも恋愛って、べつにたいしたもんじゃないですよ」
わたしもたいして経験があるわけではないが、そう言わずにはいられなかった。「たいしたもん」に該当する恋愛だってもちろんあるのだろうけど、たいていの人たちは「なんかいいな」とか「ちょっとさびしいな」とか、へたすりゃ「最近ひまだな」ぐらいのノリでつきあったり別れたりしていると思う。
「素敵」
隣で、八重子さんが呟いた。視線は鉄棒のふたりに固定されたままだった。
「ほんとうに素敵ね」
相槌を打とうとして、うまく声が出せなかった。声が喉に引っかかってしまったみたいで、わたしは苦しい息の下で、八重子さんの言葉を反芻している。
わたしの恋人になる前、暖は二十歳近く年上の女の連れとして『セーヌ川』でコーヒーを飲んでいた。昼過ぎに現れる女は化粧気がなく、灰色のスウェットの上下を着ていた。ただ爪だけはいつもきれいに塗られているので、夜は華やかに着飾る職業だろうとマスオは推理していた。
女は店内で暖にべたべたするわけでもなく、言葉少なに煙草を吸っていた。二本目の煙草を消した後に、無造作に数枚の一万円札をむき出しでテーブルに置く。暖はそれを「ありがとう」と受け取る。それがお決まりのやりとりだった。マスオは「若いツバメってやつかね」とわたしに言った。当時のわたしは若いツバメという言い回しを知らなかったが、意味はなんとなくわかった。
それからまもなく女と暖は姿を見せなくなった。あのふたり来ないね、と噂していたある日、暖ひとりでやってきた。女といる時にはいつもコーヒーを飲んでいたのにクリームソーダを注文し、ほんとうはずっとこっちが飲んでみたかったんだよね、と笑った。
「あの女の人は?」
「ふられちゃった」
あっさりしたものだった。暖は「嫌いじゃなかったんだけどね、あの人のこと」とさらさらと、水の流れるような声で笑った。「好きだった」ではなく「嫌いじゃなかった」と、たしかにそう言った。
そこからどのようにしてわたしと暖が交際するに至ったかというと、それはもうごく自然にとしか言いようがない。長所なら、百個だって言える。でもそういう男だ、というのは、まぎれもない事実だ。嫌いじゃない、そんな程度の感情しか持てない女と寝て金を受け取る。そういうことができる男なのだ、わたしの恋人は。