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 家の裏にまわり、外の水道で足を洗う。冷たさに悲鳴を上げながら笑っていると、勝手口のドアが開いた。
「うるさいねえ、あんた」
 口をへの字に結んだ三枝さんが、わたしにタオルを投げてよこす。勝手口の上がり框に栄輝をこしかけさせ、足を拭いてやった。
「ちょうど三時ですね。今日はケーキがありますよ、栄輝さん」
 わたしを「あんた」と呼ぶ三枝さんは、栄輝にはさん付けだ。基本的に仏頂面だが、栄輝や八重子さんと話す時にだけ笑顔を見せる。ケーキ! と拳を天につきあげた栄輝は、ケーキの箱をのぞきこむなりつまらなそうな顔になった。
「これ、食べない」
 いちじくがのった、いかにも高級そうなチョコレートケーキだが、気に入らないらしい。食べると喉がちくちくする、と顔をしかめる。
「アレルギーなのかもね」
 食物アレルギーはない、と聞いていたが、あとで八重子さんに確認しておこうと思いながら、自分の足を拭いた。栄輝が流しの隅に置いてあった皿を指さした。おにぎりがふたつのっている。
「あれなに? あれがいい!」
「あれはわたしのお昼ごはんなんですよ、栄輝さん」
 朝のうちに昨日のごはんの残りを握っておいたのだという。手が空いたら食べようと思っていたのだが、忙しくてこの時間になってしまったのだそうだ。
「食べたいのなら、かまいませんけどね」
 栄輝にやさしく微笑みかけた三枝さんはわたしを一瞥して「あんたもなんか食べるかい」とややぞんざいに訊ねた。
「はい。いただきます」
「ケーキ?」
「いえ、わたしもおにぎりがいいです」
 三枝さんはなぜかにやりと不敵に笑い、炊飯器をあけた。三枝さんが小鉢に盛った鰹節に醤油をまぶし、それとちりめんじゃこをまだ湯気の立つごはんにさくさくとしゃもじで混ぜこみ、またたく間に均一な三角形のおにぎりをこしらえる。あざやかな手品を眺めるような思いで見守った。
「ほら、流しで手を洗って」
 台所には三枝さん用の小さな折りたたみテーブルがある。いつもそこで簡単な書きものをしたり、食事を済ませたりするのだそうだ。わたしが両手を合わせて「おいしそうですね。いただきます」と言うと、三枝さんがわずかにまぶしそうな顔をした。
「はじめて見た時は、がらっぱちが来たと思ったもんだけど」
 がらっぱちがなんなのか知らないが、よくない意味であることはわかる。
「でもタマジョってのはさすがに嘘だろ?」
「タマジョってなんですか?」
 玉菊女子大のことだよ、と三枝さんが鼻を鳴らし、わたしは口の中に残った米粒を咀嚼しながら、それがエミリが卒業したという、つまりわたしが自分の最終学歴として履歴書に記した大学名であることを思い出した。
「ああ」
 嘘じゃないですよ、と言うには、みょうな間が空きすぎた。もともと「ばれたらそれまで」という気持ちでここに来たのだ。
「そうです。嘘です」
「なんでそんな、すぐばれる嘘」
「そうでもしないと雇ってもらえないと思って」
「ばかだね、八重子さんたちはそんなこと気にしないよ」
 あたしは中卒だよ、と三枝さんは肩をすくめる。十六歳で住み込みの家政婦になり、数年勤め、その家からの紹介で、南雲家で働きはじめたという。
 八重子さんのことは四歳の時から知っており、結婚して「本家」から離れる際についてきたのだという。
「いわゆる『ばあや』ってやつですね」
「せめて『ねえや』だろうが、あたしだって昔からババアだったわけじゃないんだよ」
 三枝さんがわたしの腕を強くぶった。その衝撃で米粒が鼻に入ってしまい、しばらく痛みに苦しんだ。
「気の毒と言えば、気の毒な人なんだよ、八重子さんは」
 八重子さんの両親の関心は徹頭徹尾、八重子さんの兄にだけ向いていた、と三枝さんはため息をつく。
「あ、前社長の?」
「そうそう。長男だから、跡取りだからって」
 八重子さんは身体が弱く、学校を休みがちな子どもだった。大人になったらなったで、気分が落ちこむことが多く、「働ける状態ではなかった」という。縁談は数多く持ちこまれたがひとつとしてまとまらず、長いこと無為な日々を送っていた。
「とは言っても、本人は庭をいじったり本を読んだりして、それなりに楽しそうに見えたよ。こういう暮らしが性に合っているのよ、なんて言ってね」 
 しかし八重子さんの兄が急死し、急遽会社の後継者となることを余儀なくされた。婿に選ばれたのは遠縁の、十五も年上の忠雄さんだった。長年なぐも製菓に勤めており、会社の実情もよくわかっている。結婚した時点で三十八歳と五十三歳、子どもは無理かと思われたが、ほどなくして栄輝が生まれた。
 八重子さんの両親は栄輝の誕生後に相次いで他界している。現在は八重子さんと忠雄さんにすべてを任せるのは時期尚早、と見た親戚連中、役員連中が万事において口を挟むような状況で、ふたりはその対応に追われ必死である、というのが三枝さんの分析だった。
「ははあ」
 八重子さんも大変ですねえ、と言いつつ、心の中では、ぜいたくな悩みだよ、と思っている。おにぎりは香ばしく、ついふたつめに手が伸びる。すでに食べ終えた栄輝がわたしの腕を引っぱった。
「遊ぶ」
「わたしはまだ食べてるから遊べない」
 栄輝は「わかった」と頷くも、十秒もたたぬうちに「食べた? 遊ぼう」「なにして遊ぶ?」とたたみかけてくる。うんざりしながら、笑ってしまいそうにもなりながら、おにぎりの残りを口におしこんだ。
「三枝さん、ごちそうさまでした」
 わたしが言うと、栄輝も「ごちそうさまでした」と真似をする。
「お皿は置いといて」
 ありがとうございます、とわたしが言った時には、栄輝はもう台所を飛び出してしまっていた。
「かくれんぼ! 鳴海が鬼!」
「鳴海さんと呼びなさい!」
 栄輝は階段を駆け上がっていく。二階に隠れるつもりらしいが、二階は一階より部屋数が少なく、隠れる場所が少ない。さすが子ども、浅はかだ。階段下で十数え「もーいーかーい」と声を張り上げる。
 わたしは階段をゆっくりとのぼり、うーん、どこかなあ? とわざと頓狂な声で言いながら廊下を進んでいった。このあいだはそれを聞いた栄輝がこらえきれずに笑ってしまい、その声で隠れ場所がわかった。前回の失敗から学んだのか、今日はしんと静まり返っている。
 トイレ、納戸と順に見ていくが、栄輝の姿はない。忠雄さんの書斎はふだんから鍵がかかっているので、入ることができない。客を泊めるために使うらしい、普段は使用されていない部屋の押し入れを開けてみたが、ふとんなどが入っているのでここに隠れるのは難しそうだった。
 あとは夫妻の寝室だけなのだが、勝手に入るのは気がひける。しかし同時に、見てみたくもあった。三枝さんの話では「鏡ばりの、でっかいでっかいクローゼット」があるのだという。八重子さんは派手ななりを嫌うため、めったに身につけないけれども、庶民には手が出せないような高価なかばんや靴を持っているのだとうらやましがっていた。
 遊んでいるだけだから、と思う。かくれんぼの最中だから、うっかり入ってしまうのは、しかたがないことだと言い訳しながら、寝室のドアノブをゆっくりとまわす。
 大きなベッドが目に入る。いかにも重そうな房飾りのついたカバーがかかっていた。猫足の鏡台があり、そこに美しいなにかが置かれているのが見えた。
 真珠のネックレスだ。三連になっていて、中央にカメオが配置されている。留め金がきちんととめられた状態で布張りのしてあるトレイのようなものの上に置かれていた。しっとりと淡い輝きに吸い寄せられるように、そっと手にとってしまう。あ、とためらうほどに重かった。
 ばあ、と声を上げて、栄輝がクローゼットから飛び出してくる。
「なにしてるの?」
 なんでもないよ、と言ったが、栄輝はなおも同じ質問を繰り返す。そこでようやく、自分がネックレスを持ったままであることに気がついた。
「きれいだなって思って、勝手に触ってしまったの」
 よくないことだね、と続けたが、栄輝は返事をしない。わたしの手からネックレスを奪い取り、もう片方の手で、わたしの腕を強く引っぱる。あまりの勢いに、尻餅をついてしまった。
「なにするの」
「つけてあげる」
 栄輝はネックレスに留め金があることを知らないらしい。直接首にかけようとしてくる。むりやり押しこもうとするのだが、とうぜん頭を通らない。このままではネックレスが引きちぎられてしまう。
「わかった、わかったから。ほら、わたしがやるから」と手を差し出した。
「これはね、こうやるんだよ」
 床に尻をついたまま、留め金をはずしてみせようとしたが、はじめて見るような形状の留め金だったために、なかなかはずせない。苦心するわたしの頭上に「なにをしてるの」という金切り声が降り注いだ。
 おそるおそる目を上げると、ミネおばがたっぷりとした顎をひくつかせながらわたしを睨みつけていた。
「泥棒!」
 終わりだ、とわたしは思った。完全に、終わった。

 

(つづく)