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「わからないです。わからないけど、もっと違う生きかたがあったような気がします。家のために結婚した、好きでもない男の、自分を裏切った男の介護を二十五年も続ける以外の生きかたが」
 父親を「男」呼ばわりする栄輝の怒りが、父親にだけ向けられたものなのかどうかはわたしに判断がつかなかった。
「でも八重子さんはそういう生きかたを選んだ」
「自己責任ということですか?」
「そんな話はしてない」
 言ってから、「選んだ」という表現はたしかに違うなと思った。ショーケースの中のケーキを選びとるように結婚の継続を選んだわけではなかろう。
 八重子さんが離婚を拒んだ後も、忠雄さんとその女性の関係は続いていたという。さすがに家を行き来することはなくなったが、八重子さんの目を盗んで連絡をとりあっていた。なんと三年前にその女性が亡くなるまでというから驚きだ。
「父の遺言状に書かれていたんです。自分のお骨は南雲家の墓ではなく、その女性と同じ墓に納めてほしい。すでに墓の用意もしてある。自分は南雲家に、なぐも製菓に必要な駒として生きた。死後はせめて、愛する女性と同じ場所で眠らせてほしい。そう書いてあった」
 葬儀の後に、大宮の息子を名乗る男が家を訪ねてきた。忠雄さんと血の繋がりはないが「ほんとうの親父だと思っている」と語った。
 息子もまた遺言の内容を知っていた。栄輝の留守中にあがりこんできて、お骨を持ち去ったという。
「帰宅して、それを聞いてびっくりして。つい母を責めてしまったんです、なんでぼくに連絡しないんだって。母は傷ついたようで、それ以来口をきいてくれません」
 背後で、がたりと音がした。栄輝がはっとしたように身じろぎした直後に玄関のドアが開く音が聞こえる。弾かれたように立ち上がった栄輝は、すごい勢いで外に飛び出していく。わたしはあわててそのあとを追った。
 数メートル先に、小柄な女性の後ろ姿があった。栄輝が「お母さん」と叫ばなければ、それが八重子さんだとはわからなかった。白髪染めはしていないらしい。灰色の髪が風で揺れている。
 わき目もふらず歩いていく八重子さんが裸足であることに気づいて、わたしはとっさに家の中に引き返した。下駄箱を勝手に開け、てきとうな女性ものの靴をとってふたたび飛び出す。
 路上に戻ると、栄輝が八重子さんの両肩をつかんで揺さぶっているところだった。しっかりしてくれ、とかなんとか言っているのが聞こえる。
 八重子さんがふいにこちらを見る。わたしは思わず立ち止まった。
「八重子さん」
 名を呼ぶと、奥まった目がわずかに見開かれた。そのままくずおれそうになった母親を、栄輝が抱きとめる。
 出会った時には現在のわたしと同じ年頃だった八重子さんはきっかり二十五年分、いやそれ以上に年を取っていた。
「鳴海さん」
 声だけが、昔と変わらなかった。
 鳴海さん。
 鳴海さんはすごいわねえ。
 ねえ、鳴海さん。
 わたしの名を呼ぶ八重子さんの声が聞こえ、笑顔が浮かび、トングでつぶされたケーキの味や、真珠のネックレスのひんやりした感触、ドリンクバーの機械が立てる不穏な音、オクラホマミキサーを踊った時に見下ろした八重子さんのつむじの白さ、そんな断片的な記憶が波のように押し寄せて、すぐにまた引いていった。
 歩み寄って、足元に靴を置く。
「裸足で出歩くと、ケガしますよ」
 八重子さんが栄輝を見上げる。途方にくれたような顔をして、どうして、と呟いた。
 わたしはひざまずいて、八重子さんに靴を履かせた。
「どうして来たの、今頃になって」
「会いたかったからです」
 靴を履かせる時に触れた八重子さんの足首は、ひどく冷たかった。
「どこに行こうとしてたんですか?」
 八重子さんは黙っている。わたしはそのままの姿勢で、やわらかい革のフラットシューズにつつまれた八重子さんの小さな足を見ていた。
「わからないの」
 震える声が降ってくる。
「どこに行けばいいのかなんて、もうわからない、わからないんだけど」
 八重子さんが泣いている。そのことに気づいても、顔を上げることができなかった。なにか言うべきなのか、黙って肩を抱くべきなのか、そもそも八重子さんがわたしになにを求めているのかいないのか、それすらもわからないほど、二十五年という年月がわたしたちを容赦なく隔てていた。
「戻ろう、お母さん」
 八重子さんの肩を抱いて歩き出す栄輝のあとを、とぼとぼと追う。八重子さんは抵抗することなく、しかしひとことも口をきかず、家の中に入っていった。信じられないほど緩慢な速度で、階段をのぼっていく。すこし迷ったが、あとをついていった。
 八重子さんは、寝室のドアノブに手をかけながらわたしを振り返った。
「あなた、もう帰ってしまうの?」
「今日は帰りますが、また来ます」
 八重子さんは思案するように首を傾げてから、小さく頷いた。ドアが閉まる直前、床に積まれた介護用おむつのパックが見えた。もう来るなと言われなかったことに安堵して、わたしは息を吐く。そのまま、へたりこみそうになった。自覚している以上に緊張していたらしい。
「あの人、喋りましたね」
 栄輝が放心したように言った。
「そうですね」
 じゃあわたしはこれで、と帰ろうとすると、栄輝が「あの、もう一杯お茶を飲みませんか」と言った。しかし、もう色付きの湯は飲みたくない。
「わたしに淹れさせてくれるなら」
 台所に入らせてもらった。ここは家政婦さんの領分らしく、隅々まで磨きこまれている。
「家政婦さんって、三枝さんじゃないですよね」
「ああ、三枝さんはずっと前にやめましたよ」
 年齢的に亡くなっていてもおかしくないと思ったが、今なお健在で隣町のアパートでひとり暮らしをしているという。三枝さんは長くこの家に通っており、それゆえに、現在どんな家政婦が来てもしっくりこない状態が続いているらしい。栄輝にとっても、八重子さんにとっても。
「なんか違う、というか」
 なんか違うんですよね、と繰り返す栄輝の顔色がすぐれないことに、いまさらながら気がついた。聞けば、いろいろなことがありすぎて、ここ数日まともに食事をとっていないという。
 ガラスの食器棚に、パックのご飯が入っているのが見えた。おそらく備蓄用なのだろう。それを眺めているうちに、昔のことを思い出した。
「紅茶はやめて、おにぎりをつくりませんか?」
 わたしの唐突な提案に、栄輝は驚いたようだった。返事のかわりにお腹の鳴る音がして、わたしはそれを承諾と受け止める。
 パックご飯をレンジにかけ、そのあいだに食器棚の引出しを開けさせてもらう。いかにも高級そうな鰹節が出てきたので、それをボウルにあけ、醤油をまわしかけた。ちりめんじゃこがないのが残念だ。三枝さんにつくってもらった、あのおにぎりを再現したかったのに。
「おにぎり、握ったことある?」
「ないですね」
「やっぱり、そうか。でもね、簡単だよ」
 広げたラップフィルムの上にご飯をのせて「こうやるの」と握ってみせる。栄輝は「熱い」と小声で文句を言いながらも、見よう見まねでおにぎりを握りはじめた。
「そう。うまいじゃない」
 フン、と鼻を鳴らす栄輝は、しかしまんざらでもなさそうに、皿にのせた自作のおにぎりを眺めている。
 すこしずつ、時間が巻き戻っていく。もちろん気のせいだ。どんなに願っても、過ぎた歳月は取り戻せない。
「鳴海ちゃん」
 栄輝が、はっとするほど幼い声で、わたしを呼んだ。伏せた睫毛が濡れているのは、ごはんの湯気のせいではないらしい。
「今週末、大宮の家に行こうと思ってる」
 お骨を取り返しに行くという。大宮の息子なる男は現在は他県に住んでいる。この街からは、車で行けば三時間ほどの距離だろう。
「いっしょに行かない?」
 意外な申し出に驚いて、思わず顔をまじまじと見てしまう。栄輝はふたつめのおにぎりを握りながら、母はぼくとは喋らないし、と弱り切ったように呟いた。
「もう、どうしていいか、わからないんだよ」
「うん」
 わたしもつられて、弱々しい声を出してしまう。
「そうなんだろうね。でも、そんなに簡単に信用しちゃって大丈夫? わたしのこと」
 栄輝はすこし考えて、そうだよね、と頷いた。
「普通じゃ考えられない。よく知らない人を台所に入れたり、こんなことに誘ったり。でも、すでに普通じゃないことが起こってる。もう普通の対応なんかしてられない」
 たしかに骨を盗まれるというのは「普通じゃない」事態だ。
「目には目をっていうか」
 栄輝はおずおずとおにぎりを口に運び、泣くのをこらえているような、笑っているような奇妙な表情で続けた。
「泥棒には泥棒っていうか」
 わたしは手を止めて、しばらく考えた。考えなくても、返事はとうに決まっていたけど。
「わかった。行くよ」
 泥棒じゃないけどね、と念を押してから、わたしもおにぎりに手を伸ばした。

 

(つづく)