通りには、それらしき男たちの姿はなかった。マスオと喋っていたせいで出遅れたのに違いない。くそ、くっそ、と地団駄を踏みたい気分のわたしの目に、通りの向こうから歩いてくる暖の姿が飛び込んでくる。
暖は物憂げな表情で、両手を上着のポケットにつっこんで歩いていた。いや、自分の男かわいさからつい「物憂げ」とかっこよく表現してしまったが、あれはたぶん、単に眠いだけなんだろう。
わたしを見つけたとたん、暖の顔が陽が射したようにぱっと明るくなった。だが一直線に駆けてきた暖に、わたしは笑顔を向けることができない。
「女の尻触って喜んでそうな二人組とすれ違わなかった?」
「え、なんで? なんかあったの?」
ことの次第を話すなり、暖は「うわあ」と顔をしかめた。
暖は笑えることやふざけること、楽しいことが大好きで、あまり怒ったり不機嫌になったりしない。でも、他人が本気で怒っている時にはけっして茶化したりまぜっかえしたりしない。
「出入り禁止にしたほうがいいよ、そいつら」
「できると思う?」
暖がすこし考えてから「あのマスターに頼んで……」と言いかけるのを「無理無理無理」と遮った。
「無理かなあ」
「他人に期待しない、そう決めてる」
でもわたし自身にできることといったら今度そいつらが来た時にアクシデントのふりをして氷水をぶっかけるとかトレイを頭に落とすとかいう程度のことだ。そんな陰湿な嫌がらせみたいなやりかたでしか反撃できないのかと思うと、ふがいなさで耳から湯気が出そう。むしろ出したい。威嚇できそうだから。
暖は『セーヌ川』からすこし離れた自転車屋で働いている。自転車屋のご主人は五十歳で、八十三歳のお母さんとふたりでお店の二階で暮らしている。お母さんは暖をしょっちゅう二階に呼びつけては「肩を揉んでくれ」だの「書類の字が小さくて読めない、かわりに読んでくれ」だのと他愛ない頼みごとをし、終わると、ティッシュにくるんだ千円札を握らせる。
今日もそうして得た千円を握りしめて、暖は『セーヌ川』にクリームソーダを飲みにいくところだったという。
「今夜、ネストにでも行く?」
暖の言う『ネスト』とはクラブの名なのだが、口調があまりにものんびりしているので、森の中に立つ小屋の情景が浮かぶ。うさぎやリスが住んでいて、小さな小さなキッチンからは、どんぐりの粉をつかったクッキーを焼く甘い匂いが漂ってくる。黒すぐりのジャム、きのこのスープ、冬はふかふかの毛布にくるまってとろとろ眠って過ごす。
実際の『ネスト』は埃っぽく、薄暗い。音楽は小うるさく、トイレが汚く、当然うさぎもリスもいないが、そういう幻覚を見ていそうな客なら、たまに見かける。
「お金がないから行かない」
そう答えて、『セーヌ川』のドアを押した。お金があっても、あまり行きたくはない。わたしは踊らないし、酒も飲まない。暖とて同様だが、行けば知り合いか友人がひとりぐらいはつかまるし気晴らしぐらいになるだろう、という考えのようだった。
「お金がないって……ああ、来たんだ」
給料日はほんの数日前だったというのにもうお金がない理由を、暖はなんなく察したようだ。宏海が仕事をクビになるのは、これで何回目だろう。働き者ではあると思うのだが、どうも気が短いらしく、あちこちでもめごとをおこす。高校を中退したことをバカにされる、あるいはバカにされたと感じるともうだめで、すぐに手を出してしまう。
実家を出た今は、友だちの家などを転々としているらしい。わたしのアパートに住みなよ、と提案するのだが、いつもはぐらかされて終わる。
一度お金を渡しているところをマスオに見られた。
「鳴海ちゃん、きみ弟さんを甘やかしすぎじゃないかな」
マスオはいつになくきびしい顔をしていた。それぐらい、わたしにだってわかっている。だけど宏海は「金をせびる」以外の甘えかたを知らない。抱きしめようとすれば、あの子はわたしの腕をふりほどく。
暖はカウンターに座り、マスオに「クリームソーダください」とにこやかに言った。はい、と答えるのはマスオだが、つくるのはわたしだ。慎重にシロップを計り、氷を入れた細長いグラスに注ぐ。お待たせしました、とすまし顔でカウンター越しに暖に差し出した時、なんとか泣きやんだらしいエミリが近づいてきた。
いつのまにか化粧を直している。目が合うと、すこし恥ずかしそうに微笑んだ。あんたはえらいよ、と小声で言ってやった。いっぺん地べたに落っこちた気分を自分の手でひろいあげ、埃をはらって、ふたたび自分の胸に抱く。それって、とても骨の折れることだ。
「ねえ、今夜うちにおいでよ。暖くんも一緒にさ」
むしゃくしゃした時は派手に騒ぐにかぎる、とエミリは言う。わたしがなにか答える前に、暖が「いいね! そうしよう」と元気よく同意した。
じつを言うと、エミリはまあまあいい家のお嬢さんだ。と言いつつ、わたしは「まあまあいい家」がどのような家を指すのか、具体的には知らない。ただエミリが自分でそう言っていたので、そうなのだろうと思っている。
「お嬢さんかクソアマか、もしくはその両方」しか在籍していない女子高およびその付属女子大を卒業してからしばらく家事手伝いという名の無職ライフを満喫していたらしいのだが、とつぜんなにもかもが嫌になって家を出ることにしたのだという。エミリの両親は娘に「家を出てもよいが自分たちの目の届く場所にいてくれ」と懇願し、所有しているマンションに娘を住まわせた。
エミリの両親はエミリの『セーヌ川』でのバイトや品行方正とは言えない生活ぶりについて、「社会勉強」という名のもと黙認している。そうした生活も数年続けばたいがい飽きるだろう、とふんでいるのだ。
エミリはいずれ、父の部下か母の知り合いの息子といった男と結婚させられることになるだろう。エミリ自身はどんな人生を歩むにしろ四十歳になる前に死ぬと決めているから「どうでもいい、今のうちに人生を楽しんでおく」とのことだった。
わたしと暖がエミリのマンションに到着した時、すでに居間には複数の男女がいて、完全に酔っぱらっていた。ぜんぶで七名といったところか。知った顔もあれば知らない顔もある。テーブルには宅配ピザの箱や缶ビールが並んでいる。
けっこうなボリュームで音楽がかかっている。苦情とか来ないんだなあ、いいマンションは防音とかもばっちりなんだなあ、といつも思うことをまた思った。わたしの住むアパートでは毎日のように住人同士が騒音問題でもめている。「便座の上げ下ろしの音が乱暴すぎる」「そっちこそ、風呂での鼻歌をひかえめにしてくれ」というように。
ソファーにしなだれかかるようにして座っているエミリも、もうずいぶんできあがっているようだった。知らない女がわたしたちに飲みものをすすめてくる。わたしと暖が酒はいらないと言うと、知らない女は小馬鹿にしたように鼻を鳴らしながらセブンアップという炭酸飲料をくれた。
わたしはソファーの端に腰をおろし、テーブル上にあったポテトやピザの残りに手を伸ばした。「他人の食べ残しなんて」とは思わない。かたく冷たいピザをかじりながら、わたしはエミリにからまれて苦笑いしている暖を眺めた。
誰かがゲームをはじめ、数人がテレビの前に集まった。「ちょっとコンビニ」とかなんとか言って消える男女がいたり、飲み過ぎてトイレにこもる者がいたりで、気づけばソファーにはわたしと暖とエミリの三人だけになっていた。
「エミリ、水飲む? いや、飲みな。飲むべき」
冷蔵庫から出した瓶入りの、炭酸の入ったミネラルウォーターをグラスに注いで、エミリに手渡す。エミリはそれを半分以上膝にこぼしながら長い時間をかけて飲み干すと、ソファーに横たわった。スライムのように全身を弛緩させている。暖が立ち上がって、ステレオのボリュームを下げ、いったんソファーに腰をおろしたがずるずると床にずり落ちた。わたしもそうだが、ソファーのある家になど住んだことがなく、座り慣れていないのだ。
エミリスライムがソファー上をずるずるとはってきて、わたしの膝に頭をのせた。膝にかかる息が熱かった。
「鳴海ちゃん、わたし『セーヌ川』やめるかも」
今日のことが、よほどこたえたらしい。
「今度その客が来たら、わたしがぶんなぐってやるよ」
すこし考えてから「椅子で」とつけくわえた。素手では心もとない。
「違うの、親の知り合いのところにアルバイトに行かされるかもしれない」
「なに、親の知り合いって」
「なぐも製菓って知ってる?」
「うん。アーモンドおかきとかのメーカーでしょ。あれ、けっこう好き」
全国的に有名というわけではないと思う。このへんの会社だ、ということは知っている。スーパーマーケットでもよく商品を見かけるし、テレビコマーシャルもよく流れている。親の知り合いというのはそのなぐも製菓の社長夫妻だという。
五歳の子どものために子守をさがしている。わたしもこの時はじめて知ったのだが、エミリは件の女子大で幼稚園教諭の免許を取得したらしい。
「ふーん、時給いくら?」
エミリの髪に黄色いかたまりがついている、と思ったら溶けて固まったチーズだった。急いでとってやったが、どんなに丹念にティッシュで拭いても油は残る。
「時給じゃなくて日給」
日給の額を聞き、月いくらになるか暗算した。なんと、『セーヌ川』でもらうバイト代の三倍だ。床に足を投げ出して座っている暖と目が合う。暖はなにを思っているのか、そもそもわたしたちの話を聞いていたのか、あいまいに微笑んだだけだった。
「わたしが行きたいぐらいだわ、それ」
「でも、すごくわがままで手のかかる子らしいよ。だから雇っても雇っても、みんなすぐやめちゃうんだって」
やだやだ、とエミリが身を捩る。
「いいじゃない、お金いっぱいもらえるんだから」
エミリはわたしの大切な友人だ。でも、呆れたように「お金の問題じゃないんだってば」と言われた瞬間、はげしい憎悪に全身を焼かれるようだった。エミリはお金がないという理由で、なにかをあきらめたことがない。
「それにわたし、子どもって好きじゃないもん」
「え、でも幼稚園の先生になりたかったんじゃないの?」
「昔は好きだと思ってたの。でも勘違いだった。途中で向いてないってわかっちゃったの」
「まあ、わかるよ。わたしも子ども好きじゃない」
だがわたしは、好きじゃない相手の世話も平気でできる。お金のためなら。
「鳴海ちゃん、ほんとに行ってよ、わたしの代わりに」
エミリが身を捩り、仰向けの体勢になった。うるんだ目でわたしを見上げて、両手を合わせる。
「いいよ」
「ほんと?」
鳴海ちゃん大好き、とエミリが抱きついてくる。わたしはその重くて熱い身体を引きはがしながら「でもエミリの親はそれで納得するかな」と呟いた。エミリの親もそうだし、わざわざ幼稚園教諭の免許を持つ知り合いの娘を探すような金持ちが、どこの馬の骨ともわからぬわたしを雇いたがるだろうか。
「だいじょうぶ。大学の同級生の子が、どうしてもこのバイトを譲ってほしがってるって説明するよ。完璧な履歴書、わたしが偽造してあげる」
「それって、嘘つくってこと?」
「そうだよ。なに? べつに、いいじゃない」
鳴海ちゃんってほんとまじめなんだから、とエミリは笑い、満足そうに目を閉じた。