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 灰色のような、銀色のような、すこし青みがかってもいるようなふしぎな色をした宏海の車は、ゆっくりと走ってきて家の前で止まった。このワンボックスカーで、最近よくキャンプに行っているらしい。釣りをしたり、カレーをつくったりするような、そういうことに宏海はずっと憧れていたのだという。自分が子どもの頃に親にしてほしかったことをやっている、自己満足かもしれないけど、と言っていた。
 ほんとうはこの週末も、キャンプに行く予定だったのだと思う。だが、いきなり「よかったらうちの車、使う?」と連絡してきた。暖から話を聞いたのかと確認すると「ちょっと遠出する予定があって」としか話していないらしい。おそらく、なにか感じるものがあったのだろう。
「おれは姉ちゃんたちに借りがあるから」
 借りなんて、と言おうとしてやめた。身近な人間に「借りがある」と思い続ける人生というのは苦しいものだろう。わたしたちがこの車を使うことで、すこしでも宏海がわたしたちになにかを返せたと思えるなら、それでいい。むしろ、これからはもっと甘えてみようか。買い物に行った時に毎回小銭を出させるとか、一緒に食事をする時に微妙に高いメニューを注文するとか。
 車は洗車したてであるらしい。ボンネットに朝空が反射して、わたしの目を痛くさせる。運転席から降りてきた宏海が、暖に鍵を差し出す。「ぱぱ いつも ありがとう」と書かれたプラ板にボールチェーンを通した手作りキーホルダーがぶらさがっていた。
「中も、掃除しといたから」
 のぞきこんでみると、たしかにいつも後部座席に散乱している子どものおもちゃが見当たらない。
「ありがとうね、ここまで届けてくれて」
「気にすんなって」
「帰りはどうするの? 送っていこうか」
 いい、いい、と宏海は顔の前で大きく手を振って笑った。
「走って帰ってこいってさ」
 最近また太ったから、と腹に手をやる。宏海は妻から「運動しろ」とうるさく言われている。宏海の家まではそれなりに距離があり、走るというのはてっきり冗談だと思っていたのに、「じゃあ気をつけて行ってこいよ」と背を向けるなり、ほんとうに走り出した。ぼてぼてと音がしそうな、ずいぶん鈍重そうな走りかたではあったが。
「さあ、行こうか鳴海ちゃん」
「うん」
 わたしたちはこれから南雲家に向かい、栄輝と八重子さんを乗せて、ある町を目指す。忠雄さんの恋人のうまれ故郷である、海の近くの小さな町だ。県境をふたつまたぐことにはなるが、高速を使えば数時間で済む。
 遠出の目的は、もちろん持ち出されてしまった忠雄さんのお骨を取り戻すことだ。栄輝から頼まれたことを話した時、暖はすぐさま「おれも行くよ」と言った。行った先でなにがおこるかわからないし、男がもうひとりいたほうがいいでしょう、と。
 わたしと八重子さんは免許を持っていないし、栄輝が運転に疲れたら交代できるという意味でも、暖がいるほうがいい。そう説明したら栄輝もあっさり了承してくれたし、心なしか安堵しているように見えた。
 いちばん安堵しているのはわたしかもしれない。ひとりであの親子に同行するより、ずっと心強い。
 これまで自分の結婚は、暖に頼るためのものではない、と思っていた。ひとりとひとりの対等な関係なのだと。同じぐらい働いて、同じぐらい家のことをする。
 でも心のうちでは、ずいぶん暖を頼りにしていたようだ。南雲家に向かう車中、信号待ちのタイミングでそう話すと、暖は「それは、結婚した甲斐があったな」と笑った。
 世間一般の基準では、暖は「いい夫」ではないのかもしれない。なぜならば、男性が持っておくとよいとされるものをなにひとつ持っていないからだ。たとえば学歴とか社会的地位とか資産とか。でも、そんなのはわたしにとっては全部どうでもいいことだ。どうでもいい、と思えるような相手と結婚できたこと自体、とてつもない幸運だった。でもそれを今、南雲家に向かう道中で言うのは、なにかとてもひどいことであるような気がした。そうではない結婚がある、ということを知ったうえで、「でも自分はこんなにも幸運だった」と噛みしめているようで。
 栄輝と八重子さんは、家の前で待っていた。栄輝はややかたい表情でスマートフォンを弄っている。八重子さんは表情が抜け落ちたような顔で、手にした小さなバッグの持ち手を見つめていた。
 暖は栄輝がすっかり大人になったとか八重子さんが変わったとか変わっていないとかそんなことはいっさい口にせず、初対面の人間に出会った時のように、自分がわたしの夫であること、仕事で車の運転は慣れているので安心して任せてほしいということなどを、笑顔で説明した。栄輝はなにやら圧倒されたように「あ」とか「ええ」とか言い、まごつきながら暖に荷物を預けた。
「すごく感じがいい人だね」
 トランクに荷物を積んでいる時に、栄輝がわたしに耳打ちしてくる。
「うん」
「なんか、意外だな」
「どういう意味?」
 返事を聞く前に、暖が荷物を積み終えた。続いて八重子さんを後部座席に座らせ、わたしに隣に座ってはどうか、とすすめる。わたしは、そうした。
 座ったはいいが、なにを話せばよいのかわからない。今日はお天気でよかったですね、なんて言うのもばかばかしくてしらじらしい。略してばかじらしい。行楽にむかうわけでもないのに。
「八重子さんは、乗り物酔いとかするほうでしたっけ」
 だから、そんなことを口にした。八重子さんは黙って首を横に振る。
「じゃ、行きます」
 車がゆっくりと走り出す。暖が運転する車に乗るのは、じつは今日がはじめてだ。慣れた様子でハンドルをあやつる姿を鑑賞するのに忙しく、わたしは一瞬自分の置かれている状況を完全に忘れていた。
 そうだ、八重子さん。見ると、八重子さんは、ぼんやりと窓の外を見ていた。
「あ」
 ふいにか細く声を上げるので、驚いて背中をシートから浮かせる。
「なに? どうかしました?」
「あの花」
 街路樹に咲いた白い花を、八重子さんが指さす。またたくまに後方に遠ざかっていくその花を、首をのばして見た。
「あの花がどうかしたんですか?」
「なんという花なのかあなた、わかる?」
「わかりません」
 正直に答えると、八重子さんは「そう」と言った。なにやら、ずいぶんしみじみした口調で。
「鳴海さんでも、知らないことがあるのね」
 知らないことがあるどころか、知らないことだらけだ。
「ありますよ、いっぱい」
 八重子さんはまばたきをひとつして、また「そう」と呟いた。それだけの会話だった。でも気まずさが、いくぶん和らいだ。

 

(つづく)