のびたスウェットの襟もとに顎を埋めた宏海が、小さく息を吐いた。ファミリーレストランのテーブルに視線を固定し、わたしの顔を見ようとしない。前に会った時よりあきらかに、いたましいほどに痩せている。その顔を見ていたら、警察署を出てからずっと言おうと思っていた言葉の数々、おもに説教的な言葉がすべてひっこんでしまった。
「とりあえず、ドリンクバーだけでも先に頼む?」
わたし自身は空腹を感じていなかったが、メニューを広げて「宏海の好きなチーズハンバーグあるよ」となるべく普段通りに聞こえるように言った。宏海は夕飯を食べていないらしい。食べる前に問題を起こしたからだ。
警察からの電話ではなにがなんだかさっぱりわからず、誰かに怪我をさせたとかそういう話ではありませんようにと祈るような思いで南雲家を出たのだが、出迎えてくれた女性警官の話は、わたしが想像したものとはすこし違っていた。
宏海が勤めている工務店の近くのコンビニで、店員の女性とひと悶着あったのだという。宏海は以前からそこで昼食のおにぎりなどを購入していたのだが、その店員とは今回が初対面だった。五十代ぐらいのやさしそうな人だったそうだ。にこやかな、誰かを傷つけそうにはとても見えない人で、だから警戒心がゆるんだと、宏海はそんなふうに言った。
彼女は工務店から出てきた宏海がずいぶん若いことに驚いていた。高校を中退して働いていることがわかると、宏海が着ていたオレンジ色のスウェットの袖を軽くひっぱりながら、「こんな派手な服着てたら、悪いことできないじゃないの?」と笑った。
それだけと言えば、ほんとうにそれだけのことだ。でも宏海にとってはそうではなかった。悪いことってなんだよ、と彼女に詰め寄り、「たとえば、こういうことか?」と、商品を手に持ったまま外に飛び出した。後を追って来た他の男性店員と口論になり、その際、肩を小突く、怒声を発する、などしたらしい。それを見ていた女性店員がすっかり怯え、通報した、という経緯だった。
あんたがじょうずに受け流せば済むことでしょうが、などとはどうしても言えなかった。わたし自身、これまでどれだけ「じょうずに受け流す」ことを求められてきたことか。
「あんたが選ばないなら、勝手に注文しちゃうからね」
わたしは卓上のボタンを押し、店員が来るのを待った。かつて八重子さんたちと一緒にここに来たことを思い出しそうになり、メニューを熟読するふりをしてやり過ごす。幸福な記憶だが、今はわたしを元気づけてくれない。
店員にドリンクバーとチーズハンバーグのセットとミックスサンドを頼み、あらためて宏海に向き直った。
「気持ちはわかるけど、今回のことはまずかったと思う」
いきなり警察を呼ぶということは、相手方はかなりの恐怖を感じていたというのは確かだ。宏海は背はあまり高くないががっしりとした身体つきをしているし、目つきも鋭いし、その気になればドスの利いた声だって出せる。
「でも、あのババアが」
宏海が不機嫌そうに反論する。
「冗談だったらなに言ってもいいのかよ」
わたしは静かにメニューを閉じた。
「ババアって言うのやめな」
「金持ちの家に出入りして、お上品になったな、姉ちゃん」
「そうじゃなくて。汚い言葉を使うと、宏海が損するんだよ。ほらね、やっぱりこういうやつだった、って言われる隙ができてしまう」
「じゃおれは、どうすればいいわけ? この先一生、嫌なこと言われても我慢するしかないの?」
宏海が握りこぶしでテーブルをどんと叩いた。ななめ前に座っていた女の子のふたり組が怯えた目でこちらを窺っている。わたしはその、小さく震えているこぶしに自分の手を重ねた。
「そんなことは言ってない」
「じゃ、なに」
女性店員の「冗談」はたしかに感じが悪いが、決定的なことはなにも言っていない。宏海がいきなり感情を爆発させ、商品を持って外に出て、男性店員を小突いたのだと言われたら、反論の余地がない。「嫌なことを言われた」あとの選択肢が「我慢する」か「問題行動を起こす」の二択しかないのだとしたら、いつか取り返しのつかないことをしでかすに違いない。
「どうすればいいかは、正直わたしもよくわからない」
なぜなら、宏海に言ったことはそのまま日頃のわたし自身にも当てはまることだからだ。すぐに腹を立てて、言うべきではないことを言ってしまう。これまでおおごとにならなかったのは、周りがフォローしてくれたからだ。
「わかんねえのかよ」
宏海はふたたび下を向いた。チーズハンバーグのセットについているスープが先に運ばれてきた。「飲みな」と宏海の前に押しやる。
熱、あっつ、と顔をしかめながらスープに息を吹きかけている顔が、徐々に歪みだす。子どもの頃に何度も見た顔だ。転んだ時に。友だちに仲間はずれにされた時に。運動会に母が来なかった時に。「弟や妹の悪い見本にならないで」と言われた時に、泣くのを必死にがまんしている顔。
「姉ちゃんにもわかんないなら、おれも無理だよ」
おれバカだし、と宏海は続け、こらえきれなくなったように嗚咽を漏らしはじめた。あふれた涙が頬を伝って、テーブルに丸い雫が落ちる。
「すぐにカーっとなっちゃうんだよ、それじゃダメだってわかってるけど、でも」
「うん」
どうすればいいんだろうね、とわたしたちは言い合ったが、結局答えは出なかった。
ファミリーレストランを出た。宏海は今会社の寮に入っているのだが、帰りたくないという。おそらくコンビニの一件は社長にも伝わっているだろうし、どうせまたクビになると決めつけている。
わたしも、今更南雲家に戻るわけにもいかない。とりあえずアパートに連れて帰ることにした。
「暖には朝になったら説明するから、とりあえずこたつで寝てくれる?」
なるべく物音を立てないように、順番にシャワーを浴びた。歯を磨き終える頃には午前二時近くなっていた。
「姉ちゃん」
こたつに半身をつっこんだ宏海が、暗がりの中でわたしを呼ぶ。さすがに疲れて眠くなったのか、身体が前後左右に揺れていた。
「話は明日。今はとりあえず寝な」
「わかった。おやすみ、姉ちゃん」
ずっと昔に戻ったような、おさない声だった。今はなにも考えるな、と自分に言い聞かせながら、わたしもベッドにもぐりこむ。
朝、台所の物音で目が覚めた。二つ折りにした座布団を枕にした宏海はこたつに半身を入れた状態ですこやかな寝息を立てている。
暖はすでに着替えを済ませ、台所に立っていた。片手鍋の中では卵が三つ茹でられている。暖がわたしに気づいて「おはよう」と囁くような声で言った。
「おはよう。ごめん、昨日ちょっといろいろあって」
わたしも同じ声量で説明する。
「いろいろ。そうなんだ」
暖は「いろいろ」の詳細を訊こうとしなかった。
宏海と暖は何度か顔を合わせたことがある。たいていは宏海が『セーヌ川』までお金を借りに来た時だ。パンを焼き、からしとマヨネーズを塗り、ハムと薄く切ったきゅうりを挟む。そこにゆで卵を添える頃に、ようやく宏海が目を覚ました。
「すげ。喫茶店みたい」
目を擦りながら、しきりに感心している。
「わたし、喫茶店で働いてたから」
「おれ、喫茶店で働いてる鳴海ちゃんに伝授されたから」
わたしと暖がほぼ同時に応じたのがおかしかったようで、宏海はくくっと肩を揺らすと、こたつから出た。洗面所から聞こえる「タオル借りるね」の声が明るくて、すこし安心した。
朝食を食べながら、暖に宏海を連れてくるまでの経緯を説明した。ファミリーレストランで話したことも。暖はゆで卵の殻をむきながら聞いていたが、宏海のしたことについてもわたしの対応についても、とくにコメントしなかった。
宏海はおかわりしたパンに、こんどは自分でからしを塗りながら、視線をさまよわせている。どうも、本棚を見ているようだ。
本棚といってもカラーボックスをふたつ置いているだけなのだが、どちらもぎっしり本が入っている。ほとんどは古本屋の百円ワゴンで売られていたものだ。小説もあれば戯曲もあり、実用書もある。哲学書もあるのだが、難しくてさっぱりわからなかったと暖は言っていた。
「あれ、姉ちゃんの本?」
「違うよ。ほとんど暖が読んでるやつ」
宏海はパンを大きく噛みちぎって、「すげえ」と不明瞭な発声で言った。
「頭良いんだ」
「良くないよ」
暖が苦笑しながら、コーヒーを飲む。
「でもさ、なんのために読むの、本って」
宏海の素朴な問いに、暖はすこし考えて「器を増やすため」と答えた。
「おれはね、使える言葉を増やすのって、器を増やすことだと思うから」
大きすぎる感情を小さな器に注げば溢れる。言葉が増えると、いままでただ「むかつく」で処理していた感情を「こんなふうに言われて恥ずかしかった」「傷ついた」「みじめだった」「でもみじめだと認めたくなかった」「だから、強い態度をとった」と細分化できる。それぞれの器に注ぐことで、溢れ出すのを防ぐことができる。よく器が大きいとか小さいとかいうけれども、おれは自分はきっと器の小さい人間なんだろうと思ってる、でも小さい器をたくさん用意することはできるような気がしてる、と暖は言うのだった。
人は言葉で思考する。宏海は使える言葉が少ないから、なにか感情を揺らす出来事があったときに、その感情をうまく説明できず、短絡的な行動に走っている。その分析も、その分析にいたった経緯も、双方をよく知っているわたしには納得のいくものだったけれども、宏海にはどうにもピンとこないらしく、首をひねっている。
「そうかなあ。よくわかんねえ」
要するにおれは頭が悪いってことだろ、と続ける。また気分を損ねたのかと一瞬身構えたけれども、宏海はふー、とため息をついて、苦笑いを浮かべただけだった。
「あのさあ、おれにもできる? その、器ってのを増やすやつ」
「もちろんできるよ」
暖は真面目な顔で請け合う。即答だったが、いい加減に答えているわけではないことはわかった。
「ほんとかよ」
ふん、と鼻を鳴らした宏海は、すこし恥ずかしそうに俯いたのち、「じゃあさあ、なんかおれにも読めそうな本、教えてよ」と呟いた。