お泊まり会(パジャマパーティーと言うのはなんとなく気恥ずかしいので、八重子さんがどう呼ぼうとわたしはこちらの名称で行く)は、忠雄さんが二泊三日の出張に行った木曜日に決行された。最近冷たくされているので、顔を合わせずに済んでほっとしている。
栄輝はふだん夕方になると帰るわたしがいつまでもいるせいで興奮している。朝までいるのか、ほんとうか、パズルをするか、ぼくの部屋で寝るのか、と矢継ぎ早に質問を繰り広げる。
夕飯は三枝さんの手によるビーフシチューとサラダだった。食器を下げにいくと、三枝さんは換気扇の下で煙草を吸っていた。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
ん、と三枝さんが顎を上げる。
「泊まっていくんだって? 夜食を用意してくれって言われたけど」
「いりませんよ、そんなの」
「まあ、そうだね。ケーキもあるしね」
煙草をもみ消した三枝さんは唇の端をつりあげ、冷蔵庫を開けた。八重子さんが勤める洋菓子店の箱、大きさからしてケーキが十個以上入っていそうな箱が鎮座ましましている。夜も練習するつもりなのか、と軽くめまいがした。
「ねえ、気をつけなよ」
冷蔵庫のドアをしめた三枝さんが、わたしに向き直った。
「気をつける? どういう意味ですか?」
「わきまえろってこと。八重子さんはいい人だよ。でもね、あたしやあんたとは住む世界が違うんだから」
「わかってます」
ならいいけど、と視線をそらす三枝さんは、わたしの言葉を信用していないように見えた。
わかっている。わたしは八重子さんに雇われているだけで、けっして友だちなんかではないのだということぐらい。
わかっている。そのあと、何度も繰り返し思った。お風呂を借りる時も、まだ起きているとだだをこねる栄輝をなだめて寝室に連れていく時にも。自分に言い聞かせるように何度も何度も。
「鳴海、これからずっとここにいる?」
「ずっとはいないよ」
わたしはベッドの脇の、宇宙船のかたちのランプを眺めながら答える。壁紙は恐竜の柄で、本棚には図鑑や絵本がずらりと並んでいる。
「明日の夕方には帰るよ」
「なんで?」
「ここはわたしの家じゃないからだよ」
鳴海もこの家の子になればいいのに、と言う栄輝のまぶたが落ちかかっている。眠気と闘いながら喋っているらしく、なにを言っているのか、ほとんど聞きとれなくなってきた。
「おやすみ、栄輝」
やがて聞こえてきた規則正しい寝息をたしかめてから、忍び足で栄輝の部屋を出た。
一階に降りていくと、八重子さんがビデオテープを抱えていそいそと近づいてきた。
「さ、ここからは大人の時間ね!」
声だけでなく、全身が弾んでいた。正直言って栄輝の相手で疲れ果てていてはやく寝たいのだが、とてもじゃないが言えない。
映画は、ひとことで言うと三人のドラァグクイーンがプリシラ号というバスで旅に出る話だった。砂漠と濃い青空のコントラストが美しい。派手な衣装で踊る場面が何度も出てくる。いつしか、映画に引きこまれていく。前のめりで鑑賞するわたしを横目に、八重子さんがふふっと笑った。
「ね、素敵な映画でしょう」
オペラ? ミルフィーユ? と八重子さんが問う。いつのまにかテーブルにケーキの箱と皿がセットされていた。
「あ、じゃあオペラを」
なにげなく答えて、皿を受け取る。皿の上のケーキを見て、仰天した。長方形のチョコレートケーキが、そのかたちを美しく保ったまま皿に載っている。八重子さんは自分でも驚いているようで、目をまるくしてケーキとトングを交互に見つめていた。
「できてる」
「できてます」
わたしたちはなんだか信じられないような気持ちでケーキを見つめ、これまでといったいなにが違ったのだろうと話し合った。
「わからない。ほとんど無意識だった」
「リラックスしていたのがよかったのかもしれませんね」
「そうね」
八重子さんが頷いて、トングでまた新たなケーキをつかんだ。今度もまた、きれいに取り出せた。
「好きなものに囲まれてると、わたしはリラックスできるのね、きっと」
好きな映画と、と画面を指さし、好きな人と、とわたしに微笑みかけ、トングを置いて立ち上がり、なんだか踊り出したいような気分よ、と華やいだ声を上げた。踊っちゃいましょうか、と冗談のつもりで応じたら、八重子さんがわたしの両手をとって立ち上がらせたので、ひっこみがつかなくなった。テレビ画面を見やると、映画の中でも主人公たちが焚火のそばで踊っていた。
向かい合って立つ八重子さんの顔は、テレビ画面のほうに向いている。ああやっぱりきれいな人だな、とあらためて思う。皺もある。たるみもある。そのことと、きれいである、ということが矛盾なく共存する顔だ。
見よう見まねで両手をつないだままその場でくるくるまわったり、両手を波のように動かしてみたりしたが、傍からはただ手を繋いでくねくねしあっているようにしか見えないだろう。
「忠雄さんが見たら、きっと腰を抜かしちゃう」
「忠雄さんとは踊らないんですか?」
八重子さんの動きがきゅうに鈍くなる。
「そういうんじゃないの、あの人とわたしは」
忠雄さんはね、と八重子さんはうつむいて言う。
「うちの外に、いい人がいるから」
「え、それは、あの、浮気ってことですか?」
おのれ忠雄、といきり立つわたしを、八重子さんが「落ちついて」と宥める。
「わたしと結婚する前からの仲なんですって」
相手の女性は既婚者で、だから忠雄さん自身は長らく独身だったという。そこに八重子さんとの結婚話が、社長就任とセットになって持ち上がった。女性は忠雄さんと同じ年齢で、去年離婚が成立したという。八重子さんはそのあたりの事情を、よく家にくる親戚連中からすべて聞かされて知っているらしい。
「忠雄さんは、わたしと離婚する気はないと思う。会社のことがあるし、ね」
最初からわかってたのよ、わかっていたから、あなたが怒るようなことじゃないの、と八重子さんはおだやかな声で言うが、納得いかなかった。
「怒るようなことですよ、それは」
「それでも、怒らないで。わたしが納得しているんだから。ね、踊って、ほら」
八重子さんはわたしの両手をとってぶんぶん振るが、わたしはもうくねくねするのに飽きた。
「フォークダンスならできると思うんですけどね」
オクラホマミキサーなら、高校の体育祭で踊ったからなんとなく思い出せる。八重子さんはフォークダンスといえば「マイムマイム」らしく、「どうやるの?」と首をかしげている。
こうやるんですよ、とまずひとりで踊ってみせてから、八重子さんの背後にまわった。
「ここで次の相手と交代します。これ、男女でやるんですが、わたしの高校は女子のほうが多くて、わたしは背が高いほうだったからいつも男子の列に入ってました」
「そうなの。鳴海さんと踊れてうれしい女の子がたくさんいたんでしょうね」
そういえばたしかに、男子より女子にもてた。
しばらく踊っているうちにわたしの携帯電話が鳴り出した。知らない番号が表示されていて、無視してしまおうかと思ったけれども、結局出ることにした。知らない男の声が、わたしの名を口にする。警察署の者です、と男は言った。
話の内容がほとんど頭に入ってこない。いや、入っては来るのだが、理解が追いつかない。
電話を切ったわたしに、八重子さんが「どうしたの、鳴海さん?」と訊ねる。さんざんオクラホマミキサーを踊ったせいで頬が上気している。
弟が補導されたみたいなんです。その一言が、どうしても口に出せなかった。言ったら、この楽しい時間が終わってしまう。いや、楽しい時間をともに過ごしたいと思う、その願いこそがまちがっていたのかもしれない。だって八重子さんの住む世界とわたしの住む世界は、こんなにも違っているのだから。