目を開くと3羽のカラスがゴミ袋を突いているのが見えた。袋の中身が散乱し汁が垂れた路上にうつ伏せになっていた僕は、自分の身に何が起こったのか全くわからなかった。とにかく今どこにいるのか知りたくて人通りの多い道に出ると、すぐに『六本木駅』という文字が目に入った(その日まで僕は一度も六本木に行ったことがなかった)。通勤中のサラリーマン達が僕と目を合わせないようにしていることが痛いほど感じられ、とりあえず目が覚めた場所に戻ると、昨晩見たような気がするCLUBの入口があった。

〈入場すると日本人の客はほとんど見当たらず、すし詰め状態のフロアの先にお立ち台がある。僕は人混みをかき分けそこに上がり、衝撃を与えるとピカピカ光る『フラッシュカラフルもじゃもじゃヨーヨー』を両手につけ一心不乱に踊る。そんな僕を見て、肩をすくめて両方の手のひらを上に向ける外国人の姿が多々目に映った〉ということが脳裏に浮かんだ。そんなはずはないと思いたかったが、その時やっと自分の指にはめられたヨーヨーの存在と、靴が片足しかないことに気づいた。今から20年近く前の出来事だ。

 当時は繁華街にヘッドショップと呼ばれる専門店が点在していたり、道端で看板を立てて堂々と『合法ドラッグ』なるものを販売する輩がいたりした。芳香剤という名目で3,000円程度で売られていたその錠剤を軽い気持ちで購入し、はじめて摂取した時、今まで経験したことがないような体の変化を感じた。そしてそれに味を占め2回目に使用した際、先のような事態が起こったのだ。六本木からの帰り道、こんなものが街のそこらじゅうで合法で売られている現実に恐怖を感じた。やがて合法ドラッグは成分や形状や呼称を変え違法になったが、僕の中では毒を喰らった経験として今も強烈に記憶の中に残っている。

 現在、国立科学博物館で毒をテーマにした特別展「毒」が開催中だ(2月19日まで。以後、大阪に巡回予定)。“ヒトを含む生物に害を与える物質”を毒と定義するこの展覧会は、動物学、植物学、地学、人類学、理工学の各研究分野のスペシャリストが集結し、科博所蔵の膨大な標本資料などを基に、毒という形のないものを可視化することに成功している。当然僕が過去に喰らった一粒も本展が定義する毒に含まれるだろうが、僕のようにいらぬ好奇心に駆られずとも、本展を見れば毒はそこらじゅうにあり、人は毒に囲まれて生活していることがわかるだろう。

 ツツジやアジサイ、ハチやヘビなど日常生活の中で見かける動植物でさえ毒を持つものは多数存在する。それらの毒は人間にとってマイナスに働くものに違いないが、ある生物にとっては身を守るためや攻めるためになくてはならないものでもある。一方で水銀やアスベストなど、かつては人間の生体や社会の発展にプラスに働くと考えられていた物質が、後に毒性が認められるケースも少なくない。近年では現代人の生活に欠かせないプラスチックのごみが、生態系を含めた海洋環境を悪化させる物質として世界中で問題視されるようにもなった。

 人類が毒に気付き、狩りに利用するようになった最古の証拠は、推定約2万4000年前の『切れ目のある木の棒』(切れ目に付着した成分分析の結果)だといわれる。それから人間は毒と向き合い、数々の犠牲と知性によって構造に迫り、毒を避け、利用する技術を次々と編み出してきた。

 

ベニテングタケ

 

クジラの体内から見つかったマイクロプラスチック

画像提供:国立科学博物館

 

 先のプラスチック問題は放置すれば、人間を含む地球全体にとって取り返しのつかない事態を招くかもしれない。しかし本展でこれまでの毒と人間の関わりの歴史を見れば、毒は必ずしもマイナス要因ではなく、進化のきっかけを与える薬にもなり得ることがわかる。毒について思案することは人類がより良い生活を送るために必要不可欠だと考えるのは早計だろうか。

 僕自身にとって最高の薬であり最低の毒は酒である。これまでに数えきれないほどの楽しい時間と思い出したくない過去がある。ここ日本においては24時間どこでも買えることが憎らしいが、酒自体に罪はない。適量だと薬になるものも容量次第では毒に転ずるというだけだ。現在禁酒32日目。酒をやめて僕の生活は向上するだろうか。