京都に行く用事があるとき、僕にはどうしても寄りたい場所が3箇所ある。ひとつは伏見区深草にある石峰寺せきほうじ。もうひとつは大正から昭和にかけて活動した陶芸家・河井寛次郎の自宅兼工房だった『河井寛次郎記念館』。そして四条大宮駅からすぐの『立ち呑み 庶民』だ。理想は午前中に石峰寺に行って、お昼頃に河井寛次郎記念館をまわった後、まだ明るいうちから庶民でチューハイを呑んで、大ぶりの刺身とその日の感動を噛みしめたい。とはいえ、予定次第では全部はまわれない。そんな時、僕の中で最も優先度が高いのが石峰寺である。より正確にいうと、石峰寺の裏山にある伊藤若冲いとうじやくちゆうの石仏『五百羅漢』見たさに足を運びたくなる。

 今でこそ江戸絵画を代表する人気絵師の若冲だが、2000年に京都国立博物館で『没後200年 若冲』展が開催されるまでは、若冲を“ジャクチュウ”と読める人も多くはなかった。その後、2009年に当時新出だった『象と鯨図屏風』のお披露目の意義で、MIHO MUSEUMで開催された『若冲ワンダーランド』を観に行った時はまだ、『象と鯨図屏風』と若冲の傑作のひとつ『鳥獣花木図屏風』が隣り合う最高の展示構成にも拘らず、ほとんど観客がいない中で悠々と鑑賞することができた。それが2016年に東京都美術館で『生誕300年記念 若冲展』が開催された時は、念には念をで朝6時に足を運んだもののすでに行列。1ヶ月余りの会期中に約45万人もの観客が詰めかけ、「若冲ブーム」の本格的な到来を痛感させられた。しかしその“奇想の画家”に石仏の大作があることはまだあまり知られていないのかもしれない。というのも石峰寺の裏山で他の鑑賞者と出くわしたことがないからで、昨年末も貸切状態で異空間を満喫してきたところだ。
 

“京の台所”の救世主である若冲の絵は、錦市場の至るところで見られる。


 伊藤若冲は1716年、京都錦市場の青物問屋『桝屋』の長男として生まれた。23歳で父親の跡を継ぎ4代目桝屋主人となったが、40歳で弟に家督を譲り、以降「画業に専念するようになった」と伝えられてきた。85歳で生涯を閉じるまでに膨大な量の絵を残した若冲だが、1757年から10年の歳月をかけて描いた『動植綵絵』は特筆すべき成果で、現在では、「我が国の花鳥画の到達点」として国宝指定されている。40代から50代前半までを費やし、最高傑作を描き上げた若冲だが、脂の乗り切ったはずの50代後半には作画活動に関する情報がない空白の3年間がある。

 長らく40代以降は、屋敷に引きこもり作画三昧の生活を送ったとされていた若冲だが、近年、1771年から74年までの錦市場の動向を伝える『京都錦小路青物市場記録』という史料の研究が進んだことで、それまでの説が見直されるようになった。そこには商売敵の策謀により、市場の営業停止を命じた奉行所に対し、町年寄の若冲が忍耐強く闘い抜いた経緯が事細かに記されていたからだ。そして錦市場存続のために奔走し、解決にまで導いた若冲は、その後作画活動に再び打ち込むかと思いきや、奇抜なアイディアを実行に移すため石峰寺に足繁く通うようになった。

『伊藤若冲の墓』の看板を横目に、奥の細道を歩き朱塗りの門をくぐり抜けると、ポツポツと、と思うのもつかの間、次々と石仏があらわれ、気付いた時にはあらゆるところから見られている。およそ思いつく仏像よりもあまりにも単純で素朴だが、一体一体明らかに表情が違って面白い。写真撮影が禁止でお見せできないのが残念、でもない。見渡す限り緑に囲まれ、風に吹かれて木々が鳴る音しかない静寂の中で、これらと向き合った時に感じる迫力は、写真には絶対に写らないからだ。俗に五百羅漢と呼ばれるが、羅漢像だけではなく、釈迦の一代記までを演出したこの石像群のパノラマは、若冲がデザインし、石工に彫らせたものを配置してできている。

 数年に及んだ役人相手の命を賭した闘いの日々の影響があったのだろうか? なぜ突如として奇想の画家が石仏の創作に向かったのか本当のところはわからない。しかし若冲はこの異空間の製作中に起こった京都大火の罹災によって家産を失い、石峰寺門前に居を移している。そして後家となった妹と余生を送り、今もこの地に眠っていることから、もしかするとここは若冲が創造したユートピアなのかもしれないと考えるのは早計だろうか。
 

1800年9月85歳で亡くなった若冲は、石峰寺の墓地に土葬されている。