7月より大阪を皮切りに、東京、愛知を巡回する『展覧会 岡本太郎』が開催される。この岡本太郎の全貌を紹介する史上最大スケールの回顧展開催に合わせ、今月から『岡本太郎と岡本奇太郎』を3回に分けて書いてみようと思う。

 僕が岡本太郎と出会ったのは20年近く前、先輩から借りた『今日の芸術』という1冊の本が最初だった。ページを繰るたびに目からうろこが落ち、翌日には『自分の中に毒を持て』を購入し、2冊とも読み終えたころにはすっかり全身に毒が回っていた。太郎の本を読むまでの僕は、芸術は特別な知識を要する難解なもので、美術館などの非日常的な場所に足を運んで観る高尚な趣味だという先入観があった。当然専門的な美術教育も受けていないし、絵を描くこと自体得意でもない自分が作品を作ろうなど想像すらしなかった。それがまさか自分が全国各地の美術館を巡るようになり、アート作品をコレクションすることにハマり、挙句に美術作家として活動することになろうとは……。

 まさに人生を左右するほどの出会いから、岡本太郎美術館や岡本太郎記念館をはじめ、全国津々浦々に点在する太郎のパブリックアートを見て回った。さらには太郎が見た祭りや、「縄文の美」の発見者でもあった太郎を感じるために遺跡にも足を運んだ。その結果、僕は岡本太郎の作品が全然好きじゃないことがわかった。強烈に魅力を感じたのは太郎の言葉の力だった。

『今日の芸術』は芸術に一切関心がなかった僕が、芸術を自分事として捉える大きなきっかけになった。本当に優れた芸術は見る人を圧倒し、その人の生活自体を変えてしまうほどの飛躍的な創造であるべきだと太郎は主張する。それを満たすためには今まで良しとされてきたものに逆らう必要がある。そこで太郎が宣言したのが、「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」という芸術における根本条件だった。それは今まで考えられていた優れた芸術の条件とは相反するものだった。この言葉を受けて僕は、下手で汚くて気持ち悪くてもいいなら“なんでもええやん”と思ったし、実際太郎は絵は誰でも描けるし誰もが描くべきだと訴えている。そして「見ることは、創ることでもある」とも。

 例えば1枚の絵を10人が見た場合、それぞれの心の中には全く異なった10のイメージが浮かび上がる。各々の人格や精神状態によって見え方や捉え方は十人十色だ。1枚のその絵が駄作か傑作かは作家ではなく見る側が決めることになる。その時点で鑑賞者は価値を創造している。あとは創作者として思い切って自分自身のイメージをカタチにしてみるだけだが、その時に臆す気持ちがあったとしても、太郎が提唱する三原則が全てを正当化してくれるのだ。そうして僕は受信することや発信することに対して構えることがなくなった。文章を書くようになったのもそのころからだ。そして実際に表現してみると、新たな自分を発見しそれが生きがいにすらなることを僕は知ってしまった。これは絵画や文章だけに留まらず、音楽、演劇、ダンス等々、あらゆる表現活動は勿論、もっと広範囲にも影響を及ぼす話だと思う。

 

岡本太郎のように強烈に生きるには。その心構えが書かれている。
『自分の中に毒を持て』
(青春文庫)

 

60年近く前に発行された本だが、未だ古びない太郎による「芸術とは何か」。
『今日の芸術』
(光文社知恵の森文庫)

 

 太郎は本書で芸術は全ての人に絶対的に必要で、生きることそのものだと述べている。日々の服装や食事、趣味や職業などあらゆることを人は選択し、そうやって自分自身を創造すること自体も芸術である。その時に知識量や才能の有無や技術云々ではなく、その瞬間の自分をありのままにぶつけてみる。何事も自発的に全力で取り組めば生きていることを強烈に実感するだろうし、その結果つまずきそれを乗り越えていく時ならなおさらそうだ。なりふり構わない自分の姿を気付かせてくれるのが芸術であり、混迷の時代だからこそ生きがいに火をつけるべきではないだろうか。

 岡本太郎に人生を変えられた。それも超面白い方向に連れて行かれた。もしも今あなたが予定調和の毎日に退屈を感じているならば是非とも飛び込んでみてほしい。太郎の言葉に触れてからの僕は「まさかオレが!?」の連続の日々を送っている。