本来今月号の連載は、1954年に兵庫県芦屋市で結成された美術家集団・具体美術協会(具体)の大回顧展『すべて未知の世界へ―GUTAI 分化と統合』を紹介するつもりだったが、予期せぬ出会いがあり急遽変更することにした。

 前号で書いた僕自身の個展『SYSTEMATIC CONFUSION』(大阪・GALLERY4)のオープニングパーティを終え、実家のある兵庫県姫路市に寄った僕は、具体のことを考えながら自転車を漕いでいた。すると姫路城の前で何かが怪しい光を放っていたので、恐る恐る近寄ってみると、それは一風変わった形の自転車だった。自転車は3台あり、持ち主らしき若者たちもたむろしている。騒々しい音を立てながらその集団が走り出したので、僕は好奇心に駆られ彼らを追いかけることにした。

 馬鹿でかいスピーカーを荷台に積み、夜の城下町に明らかにそぐわない最新のEDMを爆音で響かせ、時には昭和生まれの僕には懐かしい6連ホーンの“ ゴッドファーザー ”を鳴らすギラギラの自転車。猛スピードで疾走する彼らは一体何者なのか。このまま追跡を続ければおやじ狩りに遭うかもしれないと一瞬頭をよぎったが見逃すわけにはいかない。10分以上追いかけ、ようやく信号待ちで止まった彼らに、「その自転車について話を聞かせてほしい」とお願いすると、「いいですよ」と快く応じてくれた。

 自転車が止められる場所に移動してもらい、いざ向き合った彼らは思った以上に若く、最年長の“ ゴッドファーザー ”尚香しようこう君が17歳、次いで14歳の海斗かいと君、最年少の葵十あおと君はなんと13歳だった。

 かつて実話誌の編集者だったこともある僕は、葵十君の暴走族風の族チャリ(改チャリ)やデコトラを模したデコチャリは取材で目にしたことがあったが、尚香君が乗っているタイプの自転車は見たことがなかった。

「これはスタンスバイクです」

 聞き慣れないその言葉は装飾的特徴を指すものではない。デコチャリや族チャリといった既存のスタイルに縛られず、感覚的に改造を進め、自らのスタンスを表明する「自分が好きなものを突き詰めた形」。それこそがスタンスバイクであり、尚香君自身が生み出したジャンルだという。

 尚香君が自転車を改造し始めたのは13歳の時。自転車通学の中学校に通っていた彼は、大多数がブリヂストン・アルベルトの自転車で通う中、家庭の事情もありただ一人中古のママチャリに乗り、みんなから馬鹿にされていたという。改造自転車にハマる少年たちのほとんどが、デコトラや暴走族への憧れからその道に入るのに対し、彼はただ蔑まれたくない一心で自転車に手を加えるようになった。やがて改造によって周りからの評価を覆し、一目置かれるようになると、ますます自転車改造にのめり込み、「今では自分の生きがいみたいなもの」になった。

 何の知識もないところから始まった改造は試行錯誤の連続で、失敗を繰り返すことで溶接の技術や配線の知識を身につけてきた。さらに彼のこだわりは車体やパーツ以外にも及び、荷台に積んだJBLのスピーカーや後方部に取り付けたモニターから流れる音源や映像まで自ら編集することも。総制作費は現在160万円を超え、改造費を稼ぐためのアルバイト先のコンビニにもこのスタンスバイクで通う。イベントや取材の時にだけ出すデコチャリや族チャリが多い中、尚香君のように日常の足として使う少年は稀有な存在だ。また多くの改造自転車に乗る少年たちは、バイクや車の免許取得を機に引退していくが、尚香君は「辞める理由が見つからない」という。

「大人しくなることが大人になることじゃなくて、何歳になっても僕はフレッシュでいたいんです」

 

尚香君のスタンスバイク(右)と葵十君の族チャリ(左)

 

「やりたいことがあるなら全力でやった方がいい」という尚香君(左)
※写真はともに仲間の楓雅君が撮影

 

 冒頭で触れた具体は、「われわれの精神が自由であるという証を具体的に提示」することを標榜し、創設者の吉原治良は「人のまねをするな、今までにないものをつくれ」という言葉でメンバーを奮起させた。しかし尚香君は美術の文脈など一切関係ない日常生活の中で、それらを体現していた。僕はすぐに担当編集者のTさんに連絡し、具体展への掲載申請を止め、彼らの青春について書くことにした。