10年前、2013年のこと──。
競馬風俗研究家の立川末広とテレビ局の廊下を歩いていると、向こうから、高名な男性霊能者が、静かにこちらへ歩いていらした。
そして、立川末広の顔を見て、ハッという感じで歩をとめると、身を低くして片膝をつき、敬意を示す口調でこう言葉を発したのである。
「お久しゅうございます………」
えっ。
何が起きたのか分からず、立川末広の顔を見ると、相手が低頭しているというのに傲然と構え、偉そうにこう言い放ったのだ。
「恙無いか」
「はい。お蔭様にて」
「何年ぶりかの」
「はい、341年ぶりかと」
「そうか。達者に暮らせよ」
「ありがとうございます」
男性霊能者は立ち上がると、深く頭を下げ、静かに去っていった。
さらにびっくりしたのは、ここから。
「きみ、知り合いなの、○○さんと」
「えっ、何ですか?」
「たった今、○○さんと話してただろ」
「またあ。会ったこともありませんよ」
「だって今、この場でふたりで話してたんだぜ」
「ホントですか」
「341年ぶりとか、訳のわからないことを言って」
「いやあ、まったく記憶にないです」
立川末広は、目がさめたばかりのような顔をして、そう言った。
こんなことが現実世界で起きるとはなあ。しかも、その場に居合わせて、つぶさに見物してしまった。
一体、341年前に立川末広は誰で、男性霊能者は誰だったのだろう。
2013年の341年前というと、西暦1672年、日本の年号では寛文12年である。
この年にどんなことがあったのだろうと、『読める年表 日本史』(自由国民社)にあたってみたところ、こういう人が亡くなっていた。
〈石川丈山(90)=寛文十二年五月。武将で詩人。三河出身、本名は孫助。大坂夏の陣では軍功をあげたが、まもなく武士を廃し、藤原惺窩に学び、詩作のうちに晩年をすごした。京都一乗寺山麓の庵は号の一つ。詩仙堂の名でよばれる〉
「立川君、石川丈山て、知ってる?」
「初耳ですね。でも、軍功をあげたり、一方で詩作にふけったり、文武両道の人ですね。その点では、オレと似てるかも」
「君が文武両道なんて、初めて聞いたぞ」
「じつは、高校のとき砲丸投げやってましたし、大学は文学部ですから、文武両道ですよね。もしかすると、その石川丈山の生まれかわりがオレなのかも」
「じゃあ、あの霊能者は、石川丈山に仕えていた人ということなのか」
「そうかもしれませんねえ」
石川丈山の肖像画でも残っていたら面白いなあ、案外、君と似てたりしてと、帰りに駅裏のスナックで大笑いしていたら、スナックのママが、
「詩仙堂、知らないの?」
と、怪訝な顔で言う。
「名前だけは聞いたことがあるような」
「あらあ。徳川家康伝とか読んでないの? 石川丈山は家康の臣下だったんだけど、戦功をはやる性格だったために、それを嫌う家康のもとを離れざるを得なかったのよ」
「こうと決めたら一直線というタイプですか」
「そうね。競馬でいったら、ブリンカー付けた馬みたいなものよ」
「詩仙堂、ママは行ったことは?」
「3回あるわ。こざっぱりした庭で、ししおどしの“カーン”という高い音がときたま聞こえてくる、そりゃあもう、いかにも武士がつくった庵という感じなのよ」
いまや、京都の人気スポットの一つなのだという。
そんなところに住んでた人の生まれかわりが、立川末広?
そんなこと、あるわけねえよな。
でも、テレビ局の廊下でのあの一件を思い出すと、「あるわけない」と否定することもできないような……。
ためしに広辞苑を引いてみたら、石川丈山は載っていた。
こんなに有名な人なのか。
まさかなと思いつつも、『日本大百科全書』(小学館)にあたってみたところ、なんと、石川丈山が載っているではないか。それも、相当詳細に。
そして、石川丈山が作り、人口に膾炙したという、「富士山」と題した七言絶句が紹介されていた。
仙客来遊す雲外の巓
神竜栖み老ゆ洞中の淵
雪はガン素(ガンは糸ヘンに丸)の如く煙は柄の如し
白扇倒に懸る東海の天
読み進むと、石川丈山は「六六山人」という号も使っていたという。
「やっぱり、そうですか。六六ですか」
聞けば、この2013年の3月に高松宮記念で出た枠連66というのを立川末広はとったという。──転生奇譚か。
【八百言】大穴・ロスと書いて、ダイアナ・ロスと読みます。 大穴・ロス(日・歌手)