戦後初めて、天皇賞の上位1、2着を、牝馬が独占してしまったことがある。
1953年5月5日の、春の天皇賞である。出走馬は8頭。
枠
1シユンオー 牡6歳
▲2キヨストロング 牡5歳
◎3レダ 牝5歳
4オールウェザー 牡6歳
5アサトモ 牡5歳
○6モリマツ 牡5歳
△7クインナルビー 牝5歳
8ノーベル 牡5歳
(年齢旧表記。◎○▲△は人気順)
8頭のうち、牝馬は2頭だけ。ところがその2頭の牝馬が、レダ1着、クインナルビー2着と上位を独占し、牡馬たちを一蹴したのである。
レースが行われたのは京都競馬場。この結果を見て、スタンドの記者席では、
「もし、この結果をエリザベス女王がお知りになったら、同性として私も全力を尽くしますとおっしゃるかもなあ」という声が出た。
そう、この天皇賞のちょうど4週間後に、エリザベス女王の戴冠式が迫っていたのである。
1953年6月2日――。
エリザベス女王の戴冠式の日のことが、『20世紀全記録』(講談社)に、時間を追って詳述されている。
《前年、父王ジョージ6世を継いで即位したイギリス女王エリザベス2世の戴冠式が、午前11時15分から、小雨降るロンドンのウェストミンスター大聖堂で行われた。
式典には世界74ヵ国の代表が出席、日本からは天皇の名代で皇太子が参列した。
17の儀式からなる式典は、午後0時30分からの戴冠の儀でそのクライマックスを迎えた。
白いテンの毛皮でふちどった真紅のローブをまとう27歳の女王の頭に、カンタベリー大主教が王冠をのせると、『強くあれ、神の道を歩め』の合唱が高らかに響き、ロンドン中の教会の鐘が打ち鳴らされて、礼砲がとどろいた。
すべての儀式を終えた午後2時50分、バッキンガム宮殿に戻る女王の馬車がウェストミンスター大聖堂を出発。近衛兵を先頭にした女王の行列は、長さ3キロメートル以上にも達した。石畳に野宿して場所を取った300万人の大観衆が、熱狂して『ゴッド・セーブ・ザ・クイーン』の大合唱。》
この日のことを回顧して、戴冠式でローブの裾を持っていたレディ・アン・グレンコナーは、英国のドキュメンタリー番組で、こう語っている。
「戴冠式を終えてバッキンガム宮殿に戻ってきた女王の、ローブを脱ぐお手伝いをしました。王冠を外された女王は、ソファーのところへやってきて、真ん中に坐り、わたしたちは両脇に坐りました。すると女王は、両足をはね上げたんです。わたしたちもみんな同じことをして、女王は笑っていました」
緊張と開放――。ほほえましい光景ではないか。
エリザベス女王は、この戴冠式のとき、第2次世界大戦で敵国だったとはいえ、日本の皇太子が余りに末席近くにいるのを「これは失礼にあたる」と思い立ち、すぐさま前列にあらためさせた。お互いに長い歴史を持つ、王室と皇室のあいだならではの気づかい。
のちに、皇太子のご子息(浩宮さま)が、留学先に英国をお選びになったのは当然のことのように思える。
エリザベス女王は戴冠式の夜、全イギリス連邦6億人の人々に向けて、ラジオでメッセージを送る。
「全精神を挙げて国民への奉仕に献身する」
「戴冠式は過ぎし帝国の象徴にあらず。希望の表明なり」
(『20世紀全記録』より)
結びの言葉となった「希望の表明なり」は、たちまち全世界の流行語となる。もちろん、日本でも。
たとえば、寄席ではこんなコントが。
「夕ごはんのおかずが、このメザシだけなの?」
「そう。大変なのよ、やりくりが」
「でも、一日中、働いてきたんだぜ。煮物くらい付けてくれよ。何でもいいから。希望の表明なり」
「じゃあ、もう少し稼いできてよ。希望の表明なり」
「頼むよ、エリザブス」
「あんだって! このバッテン野郎」
まさか、エリザベス女王とマウントバッテン(フィリップ公)に、このコントを告げ口した人はいないと思うけど。
エリザベス女王の競馬好きは有名だが、最初に紹介した1953年の春の天皇賞。
あのレースで2着に入ったクインナルビーは、その後、繁殖入りして子孫を残している。
クインナルビーの5代目の子孫にあたる馬は、競馬ファンでなくともその名を知っている。
「芦毛の怪物」と呼ばれた、あのオグリキャップである。
【八百言】モヤモヤさまぁ~ず2の田中瞳アナ、いいですよねえ。むきたてのゆで卵みたい。 福山美奈夫(作家)