「ねえ、今度、ふたりで温泉行こうよ」
スナックで、カウンターの隅の男が、小声でチーママに話しかけている。
「えー、ふたりでぇ……」
「そうだよ。ふたりに決まってるだろ。由布院あたり、どう?」
「そりゃあ、行きたいけど、もし奥さんにバレたりしたら大事よ」
「バレりゃしないって」
「うーん……」
と、そこへ割って入るママ。
「わたしも一緒に行ってあげる」
「なんだ、ママ、聞いてたのかよ」
「聞くも何も、わたしが聴力100って、前にも話したでしょ。みんな聞こえちゃうのよ。わたしをまぜておけば、バレたときだって、スナックの慰安旅行に付いていっただけって言い訳できるでしょ。安心よ」
「うーん……」
「部屋を2つとってくれれば、わたしは片方でひとりで寝るって」
「ママ、そんな寂しいこと言わないで」
「いいのよ、わたしはひとり寝に慣れてるから。由布院、いいわねぇ……」
かくして、ママさんは、客の不倫旅行の手助けを口実にして、まんまと由布院行きに成功してしまったのである。
タダで旅行するママさんのこの手口、
「わたしを“こみ”にしとけば安心よ」という決め台詞があるので、「わたしこみ」と客のあいだで呼ばれている。
相撲ファンはよくご存知と思うが、わたしこみというのは、相撲の決まり手のひとつ。広辞苑にも解説が載っている。
わたしこみ(渡し込み)=相手の片足(大腿部)を外側から抱えこむようにし、一方の手で相手の上体を押して倒すもの。
ママさんは昭和19年(1944年)の生まれで、本当にもういい歳なのだが、高校を卒業してすぐ、当時の花形だった銀座のデパートの呉服係に配属されたというのだから、相当に頭脳優秀であることは間違いない。
「わたしねえ、若いころから、わたしこみが得意だったのよ」
デパートの男性社員たちが麻雀大会の話をしていると、「わたしもまぜて」
麻雀なんて、ルールも何も、まったく知らないのに。
だけど、何とかなるもので、男性社員の誰かが後ろに付いてくれて、「左から6番目を捨てろ」「右から2番目を捨てる」「それ、ロン!」と、あやつり人形の親方役をやってくれて、負けても、その金額がチャラになるくらいみんなでご馳走してくれたというから、天生、男たらしのところがあるのだろう。
「麻雀パイをかき混ぜるとき、わざと大きくかき混ぜて、みんなの手と触れるようにするのよ」
「ええ」
「自分で言うのも何だけど、わたし、こんなふうに美人だから、それでもう、みんなイチコロ」
そのうち、和服をよく仕立てにくる上客に見染められて結婚。
「わたしが、相撲のわたしこみのように、足をすくって押し倒して、逃げられないようにしたのよ」
このスナックは、40年ほど前に、旦那が居抜きで買ってくれたのだという。
店の名前は「魅砂」
「居抜きで買って、店の名前もそのまま引き継いじゃったの」
「前のママさんの名前なんですかねえ」
「それは分らないのよ。だいぶ前の話だけど、幕内力士のところに女の子が生まれて、その子の名前が“魅砂”とあるのを、相撲雑誌で読んだことがあるの」
「砂に魅せられてという意味なんですかねえ」
「お相撲さんが、子供につけそうな名前よね。土俵が好きなのよねえ」
ただし、前のママさんの名前が魅砂だとすると、その魅砂ママはかなり魅力的な人だったらしく、
「魅砂、いる?」
そう言って訪ねてくる客が、店を引き継いだあと、しばらく何年もいたというのだ。
「わたしねえ、それを、魅砂いる攻撃と呼んだのよ」
ミサイル攻撃!
聞いていた女性客が、思わず噴き出してしまった。
ママさんは、相撲雑誌を読んでいるくらいだから、根っからの相撲好き。
このスナックでは、ママさんのほかに女の子がふたり働いているのだが、その子たちが風邪をひいて休んだりすると、客には、「○○ちゃんはきょう、休場」と言っている。
「きょうはさあ、○○ちゃんの代わりに、わたしがお相手してあげる」
「じゃあ、ママも飲んでよ」
「あら、いいの。じゃあ、いただくわ」
それでバカスカ飲んで、売り上げがドーンとアップ。
女の子の休場にかこつけて儲けるので、これは、客のあいだで「不戦勝」と呼ばれている。
このスナックは、ネット上では有名。伊勢神宮と富士山頂を結ぶ線の、その線上にある店のひとつとして、紹介されているからだ。先日は遠く和歌山から「うちも線上なんです」という来客があった。
【八百言】口だけ女急増中。「フェラだけなら……」。世界的傾向とか。 西山明(トレンド研究家)