三
森を進んでいくと、やがて目の前が開けた。
「おぉ」
思わず感嘆の声を洩らす。
見渡す限り、薄紅色の花で満たされている。
その上を、何千もの青い蝶が舞っていた。
生きる喜びを全身であらわそうとするように。軽やかに、それでいて群れとしての圧倒的な存在感を放って飛び回っている。
ふいに惣介は胸に込み上げてくるものを感じた。
瞬きを繰り返し、もう一度、花畑を見渡す。
あの時の四人が笑い合っている姿がよみがえった。
惣介が先頭を駆け、文七が遅れて続き、新之丞が後ろをゆっくり歩く。そんな三人の男たちを眺めながら目を輝かしているのは巴恵だ。
茫然と立ち尽くす惣介に、
「流されても、元に戻るのですね」
そう語りかけてきたのは清次郎だ。
「……い、今、なんと言った……」
惣介は、突然うつつに戻されたように振り返る。
「いえ、ここら一帯は洪水で流されたのだと、作造から聞きまして」
三年前、この花畑は川を破った濁流に飲み込まれた。それで芦田村に被害が生まれ、ついに耐えきれなくなった百姓は一揆を起こしたのだ。
その花畑が、こうして戻っている。すべてが元通りというわけではなかったが、蝶を呼び寄せるまでには回復したのだ。
「確かに……。確かに、戻っている」
嘆息する。息を吐きだした途端、どういうわけか自分の内側にほのかな熱が生まれるのを感じた。その熱はどんどん広がり、やがて隅々を満たすやわらかい灯火へと変わった。
青い群れを前に立ち尽くしながら、大きく息を吐きだした、そして清次郎に一歩近づいた。
「お前の祝言をいつにするか、そろそろ決めねばならぬな」
「なんですか、急に」
清次郎が慌てたように言う。早口だったが、別に怒っているわけではなさそうだった。そのことを惣介は感じ取る。
「年が明ければ雪乃も嫁に行く。本来ならお前が先に嫁を取らねばならないところ、のろのろしているから雪乃が先になってしまった」
「私は、出仕が決まったばかりでしたから……。それに勤めに慣れるまでは、と……」
「金吾も馬廻組への出仕が決まったのは年明けだったぞ」
「あれは親父どのも馬廻組で、そのおかげで馬の扱いを知っていましたし……」
「お前の親父も郷方組ではないか」
意地悪く言うと、清次郎は口をつぐんだ。惣介は、
(清次郎が村のことを知らぬのは、俺の責任だな)
申し訳ない気持ちを覚える。勤めに精を出し過ぎて清次郎と語り合う暇を作ってこなかった。惣介は清次郎にことさらやわらかい声で語りかけた。
「農業は楽しいか」
「えぇ、それはまぁ」
「それでいい。それでいいぞ、清次郎。農業は学べば学んだだけ収穫につながる。失敗することもあるが、その先で必ず成功が訪れる。やりがいのある勤めだ。俺ものめり込んだ」
「さようですか……」
「だが、あまりのめり込み過ぎると、俺みたいになるぞ。お前の母上にはずいぶん苦労をかけた。もちろんお前と雪乃にもな。甘えたい盛りに寂しい思いをさせた。その反省があるからこそ俺は思うのだ。佐保どのに同じような思いをさせるべきではない、とな」
「佐保は、ちゃんと理解しております。来年のうちにはどうにか形になるよう、私も私で考えているところです」
「お前はまだ十九だしな」
惣介は、これ以上清次郎を追いつめるのはかわいそうだ、と思った。清次郎は佐保を嫁にすると決めているのだ。それを確かめることができたのだから、これ以上とやかく言う必要はない。あとは、清次郎にとってよい時期が訪れるを待つだけだ。
(家族に佐保どのと金吾が加わるか……)
俺は恵まれているな。惣介は佐保に好感を抱いていた。西澤が死んだあと、仁田道場に移ってきた佐保は、今、流派の違う剣を必死に学んでいるところだと師範の仁田馬之助から聞いている。そのように努力できるところもいい。
また、金吾も惣介は気に入っている。友浦牢前で抱き合った清次郎と佐保を見て、金吾は佐保をあきらめたのだそうだ。だが、気落ちしている様子はあまり見せなかった。稽古に今まで以上に熱中し、それで気持ちの整理をつけたようだった。そして、傷心する自分に寄り添い、かいがいしく尽くしてくれた雪乃に好意を抱いた。二人はいつからか互いを思い合う仲になっていった。
「しかし、あれだな……」
両手を組んで伸びをしながら、清次郎に背を向ける。目の前では蝶の乱舞がいつ終わるともなく続いている。今、息子と二人でこの蝶の群れを見られることに、惣介は気持ちの高鳴りを感じずにはいられない。
「美津にもなかなか楽をさせてやれぬな。雪乃の祝言が終われば、それほど間を置かず、お前のほうも決まりそうだ。美津は張り切るだろうな。なんといっても我が子の祝言なのだ」
「いえ、どうでしょうか」
清次郎の声は冷静だ。
「母上は今、お忙しくされていますから」
「いや、忙しいか忙しくないかは美津には関係ない。祝言もあれこれ口を出してくるに決まっている。すでに、なにをどうするか、細かいところまで決めておるはずだぞ」
「さすがに、そこまではないと思いますが……」
清次郎が下を向いて苦笑した。
「ですが、それもいいと思います。母上は忙しくされている方がいきいきとされるようです。母上が喜ばれるのなら、いろいろ決めていただいたほうがよろしい。佐保にも金吾にも、私から伝えておきましょう」
「……そうだな。二人なら、理解してくれそうだしな」
妻のことを考える。確かに清次郎が言うように、美津は今、いきいきと毎日を過ごしている。
(なんせ、自分のやりたかったことに取り組めているのだからな)
自室で書物を開いたり、書き物をしたりして過ごす妻を思い出す。美津は、今、寺子屋の師範をしていた。相手は町人や百姓の子どもだったが、城下外れの称念寺で教える美津は充実した毎日を過ごしているようだ。かつて学問に情熱を注いだ美津は、いつか自分で教えたいと常々思っていたようで、それをこのたび、実行に移したのだった。
家族がそれぞれの考えを持って毎日を過ごしている。
(一家の父としてこれほど幸せなことはないな)
惣介は息を思いきり吸い込み、顔を上向けた。
そんな父を見て、なにを思ったのか、清次郎が頬を人差し指で掻きながら頭を下げた。
「父上、ありがとうございました」
「どうしたんだ、いきなり」
目を丸くして息子を見る。
「もう一年が過ぎました。ですので……。伝えなければならない、と思いました」
「どういう理屈かさっぱりわからぬが、なかなか律儀だな」
惣介は笑う。
「礼などいらぬ。親として当然のことをしたまでだ」
清次郎から顔をそむけたあと、頬を掻いた。つい息子と同じ行動を取ってしまい、やはり親子なのだと気づかされる。惣介は、さらにほころぶ顔を見られるのが恥ずかしくて、わざとらしく背を伸ばした。
「どれ、少し行ってみるか」
そう言って花畑の中ほどまで進む。
たちまち足元が薄紅色で満たされた。惣介が花の一部になったと、そう勘違いしているのか、蝶はどこにも逃げることなく舞い続けている。
(この光景を新之丞と文七にも見せてやりたいな)
ふと思う。
二十年の時を超え、またここに集うのだ。
それぞれが違った感情に支配されながら薄紅と青の群れに向き合うことだろう。
新之丞には新之丞の。文七には文七の思いがある。
その違いもまた、人生だ。
違った感じ方をすることこそ俺たちが生きてきた証だ。
惣介は息子がすぐ後ろに来るのを待って語りかけた。
「お前が言った通り、ここは一度流された」
清次郎が、はい、と答える。
「だが、花は、またこうして咲いている」
清次郎に向きなおる。
「それは、かつてこの場所で花が咲いていたからだ。三年という月日をかけて、荒れ果てた土地は花を育てるまで回復したのだ」
「はい」
「ここにある花は、あのときの花ではない。あのころの花とは異なっている。だが、突如としてここで咲いたわけではない。かつてこの地に咲いていた花があるからこそだ」
「はい」
「これからはお前らの時代だ、清次郎。お前らが自分らしく咲いてこそ、この藩のためになる。だが、その日が来るまでもう少し、俺たちも俺たちにできることを為そう、と思う。そうしてつなげていくことこそ、人が生きる意味なのだと俺は信じている」
惣介は清次郎に笑いかけた。自然で柔らかい笑みだと自分でも分かった。
「よく無事だったな、清次郎。戻ってきてくれて、本当にありがとう」
清次郎がうなずいた。唇を震わせていた。惣介は清次郎に歩み寄り、ぎゅっと抱きしめた。背丈は自分より高く、引き締まった体には若さを感じた。
途端に胸が熱くなる。
大きくなった、そう思う。
瞼に力を込めながら、惣介は息子の向こうに目を向ける。
青い蝶が舞っている。何千と舞っている。そこに新たな群れが交ざろうとしている。
(蝶は、どんどん増えていくだろう)
それが一つの時代が終わったあとの、その先を示しているようで、胸があたたかくなるのを感じた。
視線を上げると雲一つない秋晴れが広がっていた。どこまでも続く青い空に、惣介は束の間、目を細める。そのとき、胸元でなにかがうごめくのを感じた。いつの間に止まったのか一匹の蝶が衿につかまって羽を開閉していた。惣介はしばらくそれを見つめ、なにかを確かめようとするようにそっと手を伸ばした。蝶は惣介の手が近づいた瞬間、ひらりと離れ、今度は空に向かって飛んでいった。
(まるで俺から離れていったようだ)
その感覚は少しばかり不思議なものだったが、それ以上に快いものとして広がっていった。
青い蝶がひらりひらりと飛んでいく。どこを目指しているのかはわからない。群れから離れ、空の高みだけを目指しているように映る。その蝶の行方を追いかける惣介は、ふいに微笑を洩らし、青に飲み込まれずにあの蝶がどこまで飛んでいくのかを、きっと見定めてやろう、そう心に誓った。