第二幕 ~市原新之丞~
二人
一
「復讐? 復讐とはいったい……」
困惑する友を、市原新之丞は黙って見つめる。青春時代を共に過ごした懐かしい顔だ。時の経過は確かに刻まれていた。それでもこうして向き合っていると、二十年以上も昔、一緒に過ごした日々がよみがえってくる。
「俺には大切な人がいた」
新之丞は奥歯を噛み締めながら惣介に言った。惣介が一瞬目を丸くしたあと、
「大切な人……?」
と聞く。
「惣介にとって、それは家族かもしれぬ。だが俺に家族はいない。ずっと独り身で通してきたからな」
新之丞は胸をえぐるような痛みをこらえながら言葉を紡ぐ。
「あの二人の死が、俺に戦いつづけることを選ばせたのだ」
「あの二人とは……。まさか」
新之丞はうなずく。
「辰さんと巴恵。俺は二人の無念を晴らすために生きてきた」
「だが、辰さんと巴恵は……」
「二人は殺された。確かに殺されたのだ」
今までさんざん思い出し、そのたび復讐の決意を改めてきたのに、それでも、殺された、と口にした途端、胸が張り裂けんばかりに痛む。
(この痛みが、俺にとっては生きている証だった)
そう思いながら、新之丞は惣介を鋭くにらみつける。
「二人は犠牲者だ。特に巴恵……。巴恵はやつらに自死を選ばされた」
「な……。どういうことだ?」
惣介がおびえたように足をひく。自分が知らなかった事実を突きつけられることに潜在的な恐怖を感じたのだ。だが、惣介は踏みとどまるように、唾を飲んで喉を鳴らした。
「話せ! お前の知っていることすべてだ!」
叫ぶ。そんな惣介を見て、なぜだか新之丞は肩の荷がおりたような気になった。長年企図してきた柳沢の捕縛がかなった今、すぐにでも次の標的に向かわなければならないことは理解している。だがそこへ進む前に、このような気持ちになれた。そのことが自分を励ましてくれているような気がした。新之丞は、惣介と文七というかつての友が、二十年かけて進めた己の復讐に、偶然なのか必然なのか、こうしてかかわっていることに、自分でもびっくりするくらいの心強さを感じている。惣介と文七が一緒なら、どんな困難も乗り越えていける、そう思う。
「俺は急ぐ。それゆえ、ここでのんびり話すわけにはいかぬ。ついてくるか、惣介? 道々で話をしよう」
新之丞が言うと、惣介はためらいもなくうなずいた。旧友の反応を目にし、しばし茫然とたたずむと、ふっと鼻から息を洩らした。惣介らしいな、と思った。新之丞は、大目付の加賀山清兵衛を振り返って言った。
「加賀山どの。あとは任せるぞ」
加賀山は柳沢を立たせると、後ろ手に結わえた縄を握ってぐいっと持ち上げた。
「心得ました。こやつは大目付の役宅に連れて行きます」
「速やかにせよ。柳沢派の連中が動き出す」
「お任せくだされ」
加賀山は直立の姿勢で言った。だがすぐに、新之丞にうかがうような目を向けてきた。
「ご中老は? やはりおひとりで?」
「むろんだ。けりをつけてくる」
「我々も向かいます」
「ならぬ。大目付が動けばおおごとになる。俺ひとりで会った方が相手も油断する。そういう計画だったはずだ」
「されど……」
加賀山はためらうような顔をした。その瞬間、柳沢を縛る縄が緩んだが、すでに逃げる気力を失っているらしく、蒼白な顔をしてぶつぶつつぶやくばかりだ。新之丞は柳沢を一瞥したあと、加賀山に向きなおった。
「だが、森山文七は連れて行く。さすれば加賀山どのの顔も立つはずだ」
「別に顔などはどうでもいいのですが……」
加賀山はきょとんとしている文七を見て、再び新之丞に視線を向けた。だがすぐに自らを納得させるように膝を叩くと、
「そうですな。やはり大目付配下をひとりもつけぬわけには参りませぬ。ぜひ森山をお連れください」
と声を大きくして言った。
「それがしも?」
文七が不安げに言う。状況を理解できていないのは明らかで、面倒に巻き込まれることに対する警戒がにじみ出ている。
「そうだ、文七。お前も来るのだ。当然だ」
割り込んだのは惣介だ。惣介は文七の腕をつかみ、引き寄せると、
「お前も新之丞の話を聞かねばならぬ。さぁ、行くぞ」
進み始める。文七は、
「おい、ちょっと待て」
と言ったが、惣介が止まらないのを見て、
「わかった。わかったから、放せよ」
と腕を払った。自由になった文七は加賀山を振り返ると、
「これよりそれがしは市原中老の指示で動く。そういうことでよろしいですな」
と聞いた。加賀山が無言でうなずく。文七はなにか言いたそうにしたが、それを飲み込んで、惣介のもとに進んだ。
「行くぞ、惣介」
語気を強めて言う。新之丞は歩き始めた二人の背中を見ながら、やはり心強いな、と思った。残った者たちにもう一度任せる旨を伝えると、足早に友を追った。
田中林蔵の屋敷を出た。秋の田園風景が目に飛び込んできた。切り株だらけの田んぼ。空をすべるアキアカネ。赤や黄の落ち葉が風に乗って転がり、集落を流れる小川に落ちた。
「待て」
その小川の前で惣介が止まる。丸太が渡してあるだけの橋に膝をつくと、惣介は小川に顔を突っ込んだ。
「よし、これでいくらか気分が晴れた」
惣介が頭を振って水をまき散らす。陽を浴びた水滴が白くきらめいた。惣介は頬を両手で叩くと、
「これで冷静に話を聞くことができる。今日は予想外なことの連続だったからな。さぁ、話せ、新之丞」
うながした。どの時点で切り出そうかと思っていた新之丞は、惣介を見て小さくうなずいた。
「辰さんと巴恵は俺にとって特別な存在だった」
「いや、お前だけではないぞ、新之丞」
切り出した新之丞を、すかさず文七がさえぎる。
「俺たちにとってだ。俺たち三人とも、辰さんと巴恵と特別親しくしていた」
「そうだったな。俺たちにとって特別だった二人が死んだ。今から二十年ほど前のことだが、俺は、つい昨日のことのように思い出す」
「二人の死にはいずれもお前がかかわっていた。そう聞いた」
新之丞は文七を見たあと、小さく首を振った。
「確かに俺はかかわった。だが、俺がかかわるより前に二人は実質的に殺されていたのだ」
聞いて惣介が腕を組む。何事か思案をし始めたようだ。少しして口を開いた。
「辰さんが死んだのは大黒派が権力争いに敗れたからだ。そういった意味では、確かに新之丞が斬る前に死は決まっていたといえる。柳沢派だったお前は、討手を命じられれば断ることはできなかったはずだからな。……だが、巴恵は違うぞ。俺は茶屋町でお前たちを見たのだ」
話すうち惣介は早口になった。過去を思い出し改めて怒りを感じたのかもしれなかった。そんな惣介を文七がいさめる。
「まぁ、待て。順を追って聞くべきだ。まずは辰さんのことだ。巴恵のことは、それを聞いたあとだな。でなければ冷静に判断できぬ。辰さんのことは惣介もある程度納得しているはずだ。もちろん俺も仕方のないことだった、と思っている。そのことを聞いて、ひとまず全体を把握するのだ。俺たちが知らない藩の上のほうで行われていることをな。先ほどからの新之丞の言いまわしだと、辰さんと巴恵の死には権力者たちが関係している。そういうことだろう、新之丞?」
新之丞は文七と惣介を見比べた。文七は徒目付らしく、なにが隠されているのか見極めようとしている。そして惣介も惣介で憮然としながらも聞こうという姿勢で表情を引き締めている。二人を見た新之丞は息を吸い込んだ。胸が冷えた。今まで誰にも伝えてこなかった話だ。まさか、語ろうとしただけでこんなにも辛さが押し寄せてくるとは。
「では、辰さんのことだが……」
新之丞は声が湿っていることに気づき、一度言葉を切って、下唇を噛んだ。
「俺たちは辰さんのことを兄のように慕っていた。身近だったからこそ強く憧れる、そういう存在だったよな」
新之丞は手を開閉した。あのときの感触がよみがえってくる。赤木辰之進を斬ったときの感触だ。
二
赤木辰之進と新之丞は同じ町で生まれ育った。年齢は辰之進が六つ上。父が同じ普請組勤めだったため、幼いころから新之丞は辰之進のあとをついて回り、隠れ鬼や剣の真似事などをして一緒に遊んだ。辰之進が道場や学塾に熱心になると、さすがにいつも一緒というわけにはいかなくなったが、それでも辰之進の家に行って話をする関係は続いた。新之丞は辰之進の話を聞くことが好きだった。自分が辰之進と同じ歳ならどうするだろう、と夢想し、成長した自分を思い描いては胸を弾ませた。二人の関係は新之丞が十八になっても続いた。
そのころには、道場仲間の惣介と文七も辰之進のもとを訪れるようになっていた。辰之進は十六のころ病で父を失い、出仕も早かった。普請組見習いのとき才覚を認められ、その後数年して近習組への役替えが行われた。普請組から近習組への役替えは前例のないことだった。辰之進は出世の足がかりをつかんだ、と噂された。辰之進の出世は新之丞にとって自慢だった。そして、自分も、と、学問も剣も今まで以上に熱を入れて取り組んでいた。
新之丞たち三人は辰之進だけを目当てに赤木家に通っていたわけではなかった。辰之進には妹がいた。巴恵である。
三人よりひとつ歳下の巴恵は誰もが目をくぎ付けにされてしまうような見目麗しい娘だった。三人ともすぐそばにいる美しい巴恵に恋心を抱いた。特に新之丞は、同じ町で育ったということもあり、人一倍強い思いがあった。自分こそが巴恵を一番よく知っている、と新之丞は思っていた。巴恵を守るのは自分だ、そう信じていた。
あの日も、巴恵目当てが半分、辰之進の話を聞くのが半分といった具合で三人は赤木家を訪れたのだ。だが、赤木家に三人が集ったのはその日が最後になった。
赤木辰之進は茶を一口飲むと、ふむ、と言った。
「相手は柳沢か。確かに危ういな」
最近の辰之進は話しぶりにも立ち居振る舞いにも落ち着きが出てきて、ますます近習組らしくなってきている。新之丞は辰之進を見ながら、その堂々とした姿に胸の高鳴りを覚える。自分の将来を目の前にしているように思えて華やかな風が体内を駆け巡る。
「それで惣介、その後どうなったのだ? 身辺で気になることがあったか?」
辰之進が心配そうに尋ねる。惣介は、すねをぼりぼりと掻き、
「特になにもございませぬ」
と答えた。
「父上から、正しい行いだった、と褒められはしましたが、その後、柳沢からなにかしらの因縁をふっかけられたりすることもありませんでした」
惣介が言うと、辰之進は、さようか、と顎に手をやった。
十日前の川原での一件を辰之進に話したところだった。十日前、郷方組の父の使いで芦田村に荷物を届けることになった惣介は、新之丞と文七を誘って農村に出かけた。その帰り道、高田川沿いの茂みの陰で武士が百姓を打擲している場面に出くわしたのである。その武士というのが、名門柳沢家の当主、柳沢作兵衛と、その家士だった。相手が上士だと気づいた新之丞と文七は百姓を助けるのをためらった。だが、惣介はお構いなしに土手を駆けおりると、百姓を足蹴にする家士を殴りつけた。それから、落ちていた天秤棒を担ぎ、刀を抜こうとする相手を打ち倒してしまった。惣介の剣は仁田道場始まって以来の麒麟児と称されるほど抜けていた。
相手の柳沢は名門とはいえ無役だった。そのくせ自分に近しい者を集めては派閥のようなものを作り、筆頭家老の大黒典膳に対抗する姿勢を見せていた。その派閥には現職の家老や組頭といった執政衆も何人か交ざっていると聞く。先代の失敗により失った家老職に返り咲こうと柳沢は躍起になっていた。
その柳沢の家士を惣介は打ち倒したのだ。柳沢が家士に百姓を殴らせていたのは、城下に売りに行く瓜をよこせと迫り、それを、売り物だから、と断られたためで、そんな些細なことで激昂した柳沢に非があるのは明らかだった。だが、この際、理屈は関係ないのだ。家士を打ちのめした惣介に仕返しがくるのは当然である。柳沢は気が荒く、身分による差別意識が強いということで有名だった。心配した新之丞は、信頼する赤木辰之進に相談した。辰之進は柳沢が憎んでいる大黒派の人間だ。派閥に属する中で出世の足がかりを得て、今、近習組にいる。そんな辰之進であれば、柳沢の仕返しをかわす手段も思いつくのではないか、と思った。
「やっぱり柳沢の家士は平瀬で間違いなかったな。西澤道場まで行って確かめてきた」
黙り込んだ辰之進を見て、場をつなぐように文七が切り出した。辰之進は片眉を上げたが、再び考えに沈み、むっつりと押し黙った。
「わざわざ道場まで行ったのか? さすがは徒目付の倅だな」
からかう惣介に、文七は鼻の穴を大きくする。
「お前を思ってのことだぞ。襲われたりしたら大変だと思って……」
「相手が誰で、何人来ようが別にかまわん。俺は間違ったことをしておらぬ」
「正しい正しくないの問題ではないのだ」
文七が唾を飛ばす。
(そうか、平瀬だったか)
新之丞は顔を赤くする文七を見ながら、そう思った。百姓を足蹴にしていた柳沢の家士。どこかで見た顔だな、と気になっていたが、文七に言われて合点がいった。確か去年の奉納試合、西澤道場の次鋒として出場していたのが平瀬忠吾だった。派手さはないが確実に相手を追いつめていく、そんな剣を使う男だった。ちなみに、その奉納試合には惣介も仁田道場の代表として出場し、先鋒として鮮やかな勝利を手にしている。そんな惣介のことを、柳沢の家士である平瀬が覚えており、主人に伝える可能性は高かった。
「平瀬に会ったか?」
新之丞は声を低くして聞いた。文七は新之丞に目を向けると、いや、と首を振った。
「道場にはいなかった。だが、西澤道場のやつらから少しだけ話を聞くことができたぞ。まず、平瀬からなにがしかで力を貸してくれと頼まれてはおらぬか、そう聞いたら、ない、と言われた。話をした者、全員だ」
「惣介に仕返しをするなら西澤道場の仲間を誘う、そう思ったのだな」
「数をそろえて挑まなければ惣介にはかなわない。川原で打ちのめされている平瀬なら、そう考えるはずだ。柳沢も、道場同士の喧嘩に見せかけて仕返しするのではないか、そう思った。だが、そうではなかったみたいだ」
「考え方は間違っておらぬと思うがな。さすが徒目付の倅だ、文七。だが、となると、柳沢はなにか別の方法での仕返しを考えているのかな」
「あるいは……」
話に割り込んだのは辰之進だ。新之丞と文七が目を向けると、膝に手を置き背中を伸ばした。
「柳沢は殴りかかってきたのが惣介だとは知らぬのだろう? であれば平瀬は、あれは惣介だったと伝えておらぬのかもしれぬ。平瀬というのは、背の高い痩せた男だろう? 眉が太くて、なかなか整った顔立ちの……」
「そうです。きっとそれが平瀬です」
文七が答える。辰之進は文七をちらっと見たあと、
「であれば、その可能性は高い」
と言った。
「何度かかかわったことがあるのだ、実は。あれは柳沢にはもったいないような男だ。主人に忠実な一方、主人の立場が危うくなるときはいさめることができる。今回も百姓をいためつけるまでは人の目もないということで従ったが、惣介に見つかった以上、ことが大きくなるのを嫌って、なにごともなかったことにしようと決めたのではないか? それでも柳沢は、仕返しせよ、といきり立っただろうが、惣介が何者かわからぬ、と言って、それを探す労力の無駄を説き、思いとどまらせたと。仕返しなどみっともないだけだからな」
「ということは、惣介はもう心配ないと?」
新之丞が聞く。当の惣介はと言うと、すねをさすりながら、最初から心配などしておらぬがな、とからから笑っている。新之丞と文七は同時に溜息をついた。辰之進がそんな惣介を見やってから口を開く。
「平瀬と聞いて、少し安心した。逆に十日もなにごともなかったということからも俺が言ったことは間違っていなかったのではないかと思うぞ。本気であれば、速やかに動いたはずだ。それこそ西澤道場の門人を総動員してでも、惣介をやっつけようとする。平瀬はそれよりも大黒さまとの争いに集中すべきだと考えたのだ」
「しかし、それで柳沢は納得しますかね?」
「柳沢もバカではない。一度冷静になって考えれば、自分が今、なにをすべきかわかるはずだ」
新之丞は、
「ところで、辰さん」
と身を乗り出した。この際、大黒と柳沢の対立をもっと深く聞いてやろう、そう思っている。
「実際のところ、柳沢は大黒さまにとって脅威となりうるんですかね?」
新之丞が姿勢を改めると、辰之進は片眉を持ち上げ、急に真顔になった。
「それは脅威だろうな。柳沢家は名家だ」
「ですが、大黒さまは筆頭家老で、執政衆は大黒さまに好意的な方たちばかりだと、以前、辰さんが言っておられたはずです」
「いや、そこは人だ。好意的と言っても、それぞれにそれぞれの思惑がある。柳沢につく方が利が多いと思えば、そちらにつく者も出てくる」
「金ですか?」
「金を撒ける家柄ではあるな、柳沢は。だが俺が言う利とは金のことだけではないぞ、新之丞。人が権力を欲する根本のところだ」
「人の上に立てるから……」
「そうだ」
辰之進は目を光らせた。
「他の者を従わせることができる。これほど気持ちのいいことはない。そうして人の上に立てば、金もおのずと入ってくる。まことに権力とはよくできたものだ」
「辰さんもそれを求めているのですか?」
新之丞はじっと辰之進を見た。憧れの辰之進の汚れたところなど見たくはない。
「ないとは言えぬな」
辰之進は新之丞を見返したあと、苦笑して言った。
「近習組に移り、禄も増えた。俺を見る目が変わっているのも感じる。それを快く思っていないと言えばうそになる。だが、それだけではないのだ。それだけではないのだよ、新之丞」
「と言いますと?」
「俺は俺が正しいと思ったことを為すために、出世を目指している。いくら高邁な思想を持っていたとしても、力がなければ果たすことはできない。俺は福備藩士の暮らしをもっと豊かにするために出世したいのだ」
辰之進が胸を張って言った。
辰之進を見ながら新之丞は息を呑む。藩主が幕府の老中を務める福備藩では、江戸でのかかりが多いために慢性的な赤字を抱えている。それを少しでも和らげるために藩は俸禄の借り上げを行っているのだったが、ただでさえ実入りの少ない下士の暮らしはたちまち困窮した。結果、どの家でも内職をすることが当たり前になり、中にはそれでも追いつかずに商人から借金する家まであらわれている。新之丞の家も借金こそなかったが、家族で内職にいそしむ日々は同じだ。惣介も文七も、おそらく似たようなものだろう。武士としての誇りを打ち砕かれる毎日だ。
(希望がない)
と新之丞は現状を憂えている。どれだけ働いても暮らしが一向に上向かなければ、働く気力もうせてしまう。士風も退廃していく。貧困と怠惰が城下に蔓延するのは目に見えている。
それを解消したいという辰之進の思いは、新之丞にはひと際立派に見えた。自らの才覚で普請組から近習組に異動しただけでも憧憬に値するのに、さらに自分たち藩士の暮らしまでよくしたいという志を持っている。さすがは辰さんだ、という思いが溢れ返る。
「辰さんには本当に感心させられるな」
不意に惣介が言った。いつの間にか前のめりになって聞いていた惣介は、目の前の茶をがぶりと飲み込んだ。
「藩士のために出世を目指すなんて、なかなかできることではない。まず、己の志をしっかりと抱かれているところがすごい、と俺は思うぞ」
「治安もよくなるだろうしな」
文七が言う。
「罪を犯す藩士が増えている。ほれ、この前もあっただろう。紙問屋の大和屋が襲われた事件だ。あれも下手人は藩士だった。とらえたのは俺の親父だ」
「その事件、俺も聞いたぞ」
辰之進が目を大きくする。
「文七、どうしてあのようなむごたらしい事件が起きたのだ?」
聞かれた文七は徒目付の父から聞いた話を、大げさに話し始めた。文七の話はだいたい誇張して語られることが多かったが、このときばかりは、新之丞たちは真剣に聞いた。借金で首が回らなくなっていたところ、たまたま茶屋町で豪遊していた大和屋を見つけて襲った藩士の話は、妙に胸に迫ってくるものがあった。