四
百姓との交渉はうまく行った。玄庵が直接出向いたことで百姓たちは感激し、すでに取り決めていた事柄を二年以内に実施することで妥結した。話し合いに臨んだのは百姓側は豪農の田中林蔵である。また、芦田村の庄屋の作造という男もついてきた。二人が言ったことを白紙の文書に書いて林蔵に渡し、林蔵からは約束を交わしたことを証書として出させた。
こうして百姓たちは帰っていくことになった。だが、最後に新之丞は交渉にあたった二人を呼び止めた。ある事柄を協議しておきたいと思ったのだ。新之丞が向かうと、二人も伝えたいことがあったようで、
「ちょうどよかったです」
と頭を下げた。
新之丞は、
「まずはそちらの話を聞こう」
とうながした。語ったのは作造だ。
「どうか、加瀬惣介さまをお助けください。加瀬さまが止めに入ってくれたのに、わしらは応じることができませんでした。そんなわしらを見て、加瀬さまはおっしゃいました。確かに俺の説得で引き下がってもお前たちの苦しみは取り除かれぬ。どうせなら城下まで進み、それ相応の立場にある者と交渉を行った方がよい。そう助言してくださったのです。いつもわしら百姓のことを考えてくれました。これで加瀬さまが罪を得れば、わしらはとんでもない過ちを犯したことになります。どうか、加瀬さまだけはお助けください」
新之丞は胸を打たれた。実際に百姓が城下に侵入すれば、惣介は責任を押し付けられ、首をはねられていただろう。にもかかわらず百姓を通したその心意気に感動した。
(ひょっとすると)
惣介が先に説得を試みていなければ、交渉はもっと難しいものになっていたかもしれない。新之丞が出向いたとき一揆勢はいくらか落ち着きを取り戻していた。興奮した状態で押し寄せていたら、玄庵が来る前に武力衝突が起こった可能性もある。
「加瀬のことは善処する」
作造を見返して答える。
「処罰はされるだろう。だが、なるべく軽微なもので済むよう、拙者は持てる力のすべてを注ぐつもりだ」
「よろしくお願いします」
作造と林蔵が深々と頭を下げた。二人の様子に、新之丞は惣介に対する羨望を感じた。
「こちらからも頼みがある」
言うと、柳沢は二年後に約束を果たすつもりがないこと、また、多部玄庵もそれを了解していることを語った。二人はにわかには信じられないといった表情をしたが、新之丞が細かく説明すると今度は怒りをあらわにした。今までの交渉はなんだったのだ。百姓たちを呼び戻し、再び城下に迫ろう、そう気色ばんだ。
「お前らとの約束は拙者が果たす」
新之丞は言った。その声の強さに、林蔵と作造ははっと息を呑み、身を縮めてかしこまった。
「そのためにはお前たちにも手伝ってもらわねばならぬ」
自らが頭に描く計画を伝える。林蔵も作造も、その大掛かりすぎる話にしり込みしたが、それでも新之丞が根気強く語るうち、次第に自分たちなりの気付きを述べるようになった。
こうして二年後の計画が成立したのである。機を見て、百姓一揆を偽装するというものだった。
「なにとぞ拙者を信じてもらいたい。拙者は加瀬惣介の幼きころからの友だ」
頭を下げると、作造が、
「あっ……」
と言った。顔を上げた新之丞に、
「いえ、ふと昔のことを思い出したもので。さようですか、加瀬さまのご友人でございますか」
なぜか頬をほころばせてくる。
「私は一度、市原さまにお会いしたことがございます。二十年ほど前でしょうか。川原で、私は柳沢家老とそのおつきの方を怒らせたことがございました」
首をかしげた新之丞だったが、ふいに当時をありありと思い出して目を丸くした。
「あのときの……」
作造が笑みを浮かべて深くうなずく。あの川原でのできごとがこうしてつながった。新之丞は、やはり作造の力も加えながらこの物語を終結させねばならない、と思った。
「私は信じたい、と思うのですが……」
作造が林蔵に顔を寄せて小声で言った。林蔵も同意した。こうして新之丞の計画は二年後の実行を目指すことが決まった。
五
老人からは薬の匂いがした。二十畳ほどのだだっ広い部屋の奥、ちんまりと座る老人は、空咳を繰り返したあと、湯呑の茶をすすった。
「ついに動かれましたな、中老どの」
湯呑を置いた老人に、手を振って応じる。
「中老になって、まだふた月。その呼称には私自身慣れておりませぬ。今まで通り話しかけてくれたほうが、気が楽です」
「さようか。では、今まで通り市原どのと呼ばせてもらおう」
老人は白眉の下の目を新之丞に注いだ。なにかを見極めようとするようなまなざしを新之丞は冷然と受け止める。今まで情報を集めることで独自の地位を築いてきた男だ。人と話をするときは、自然と気迫を放ってしまようだ。
「朝早くからお訪ねして申し訳ございませぬ。今日は、栗山どのに相談したいことがございまして」
「加瀬の倅の件か……」
栗山が溜息交じりに言う。だが、表情には柔らかいものが混じっている。できの悪い息子の世話を喜んでいる、そんな様子だ。
「昨日、柳沢が襲った久保派の若手の会合。そこに加瀬惣介の嫡男、清次郎なる人物が交ざっておりました。それがしも、今朝、耳にしたのです」
「なんとも数奇な巡り合わせじゃ。まさかここで加瀬がかかわってくるとはの」
「惣介と私は過去に因縁がございます。私のほうはどうってことないのですが、惣介はいまだに根に持っておるやもしれませぬ。突飛な行動に出る恐れがあります」
「あれは考えるより先に動いてしまう男だ」
栗山は楽しそうに相好を崩す。
「加瀬は二年前に農政から外された件も市原どのの仕業と考えておる。だが、あれは仕方がなかったことだ。加瀬がいては、おそらく途中で気づかれてしまう。なにやら勝手に動き回ってこたびの計画を台無しにしただろう。あいつは百姓に一揆をけしかけるなど、けっしてできぬ」
「惣介がいないおかげで、私は郡代のあいだ百姓たちと何度も会って合意を得ることができました。あとは、決行を待つだけです」
新之丞は遠い目をした。この二年間を振り返る。
二年前、百姓一揆を鎮めた新之丞はすぐに、かつて郡代を務めた栗山兵右衛門を訪ねた。それは、表向きは、郡代に昇る前に勤めの内容を教授してもらうためで、だが、実際の目的は別にあったのである。栗山はかつての筆頭家老大黒典膳の下について働いた男だった。ただ、赤木辰之進のように大黒派に公然と属していたのとは違い、陰に潜み、あくまで中立を装いながら支えてきたのである。栗山の役目は藩士、特に執政の動きをつかむことだった。
栗山は大黒失脚後も処刑されることなく、とどまり続けた。そして、それまで自分が派閥内で担ってきた役割を、今度は自分を生かすために使い始める。執政の誰とも深い付き合いはせず、そのくせ郡代に就いてからは情報の出し入れを行い、存在感を増していった。そのくせ大黒の意志を果たすため、いつか訪れるであろう機会をひたすら待ち続けたのである。
新之丞に近づいたのは栗山の方からだった。新之丞が勘定奉行助役だったときの上役、かつての勘定奉行である田島五郎右衛門からの推挙があったからだ。実は田島も栗山同様、隠れて大黒派に属していた男のひとりだったのである。田島は栗山とは違って謹厳実直を押し出すことで、大黒失脚後の藩政で中立を守り通してきた。だが、それでは今の地位を守るばかりで、執政に食い込むことは難しい。そこに新之丞があらわれた。新之丞に対して田島は因縁を感じた。かつて弟のようにかわいがった赤木辰之進から、よろしく頼む、と言われていたのである。田島は辰之進が斬られてからというもの、新之丞の動きをひそかに観察し続けてきたのだった。
緻密な仕事ぶりと、出世のためなら冷徹になれる性格を知った田島は、確かに新之丞であれば福備藩を変えてくれるかもしれない、と考えた。ただ、それでもやはり信じきるまでは至らなかったのである。自分たち旧大黒派の意志を背負わせるに足る人物だろうか。念入りに見極めなければならなかった。
だが、新之丞は田島を感服させたのである。自身が勘定奉行になるため、田島の弱みをでっちあげ、その証拠をそろえて提出してきた。田島は新之丞の底の深さに戦慄を覚えた。完敗だ、と思った。自分が新之丞の作り上げた罪によって切腹させられるかもしれなかったが、それすらもすがすがしく思えるほどだった。結局、田島の切腹は栗山が奔走することでまぬがれ、上総の山奥に追放されることになったが田島は、新之丞こそ藩を変える男になれる、と確信しながら上総に旅立ったのである。
上総に向かう前、田島は心情を栗山に吐露したうえで新之丞のことを推挙していた。そして栗山も栗山で、新之丞を慎重に調べ、加瀬惣介に話を聞きながらその人となりを見極めていったのである。栗山は新之丞の過去を探るうち、どうやら復讐のために出世を望んでいるのではないか、と見当をつけた。巴恵という赤木辰之進の妹のことまで洗いざらい調べた。
新之丞の行動がすべてそこにつながっていることに気づいた栗山は、ついに新之丞に会うことを決めたのである。隠居してすぐのことだった。
「うまく動かせば、加瀬は戦力になるかもしれぬ」
栗山は腕を組むと、考えこむようにして言った。
「できれば惣介は巻き込みたくないのですが」
新之丞が言うと、栗山はなにかをはかるような目を向けた。
「加瀬の純粋さを思うと、確かに辛い思いをするかもしれぬ。息子をだしに、だますことも後ろめたい。だが、やはり加瀬は力になる。あいつは過去に剣で名をはせたことがある。いっときは、加瀬にかなう者は家中に見当たらないと言われたほどだ。それだけでも武器になる」
「惣介の強さは私が一番知っております」
「なにより加瀬は百姓から好かれている。二年前に農政から離れたが、それでも百姓たちが惣介を思う気持ちに変化がないことは、郡代を勤めた市原どのならお分かりのはず。こたびの計画は、百姓たちの働きにかかっている。いざというとき、加瀬の存在は役に立つはずだ」
ふたりは黙って見つめ合った。庭の鳥のさえずりが大きくなる。新之丞はふと思い出し、湯呑を手に取った。
「惣介の倅の裁きが五日後に決まりました」
「うむ。それくらい早いほうがよい。柳沢は焦り、こちらの考えた通りに動くしかなくなる」
「久保外記はどういたしましょう」
新之丞は二年前に中沢織部が切腹したあと家老に昇った名家の御曹司の名前を出した。今回の件は、久保がどう動くかにもかかっている。
「たいしたことはできぬだろうが、それでもあまり派手なことはしてほしくないな。柳沢派と一戦交えるなどという思い切ったことになれば、それこそ元も子もない」
「栗山どのなら釘を刺すことができるのではございませんか」
「そうさなぁ……」
栗山は顎髭を撫でたあと、急にニヤリと笑みを浮かべた。
「加瀬を泳がしてみては、と久保に提案してみるか。……いや、我ながらいい案だな。加瀬は市原どのへの個人的な思いもあって、必ずや動くはずだ。その途中で久保に会わせ、その力を借りながら、この件に深くかかわっていくよう仕向ける」
新之丞は押し黙った。栗山はぶつぶつとひとりごとを繰り返している。
「……わしもどこかで加瀬に会わねばならぬな。いや、ひょっとすると今日あたり訪ねてくるかもしれぬ。久保を頼るよう、うながしてみるか」
「三浦さまにも文を出しました。十日ほど前です」
新之丞が言うと、
「さようか」
栗山は細い目を数回またたいた。急に思考を中断されて、現実に引き戻されたという感じだった。栗山は、人情に厚い男だったが、計略にのめり込み過ぎてしまうところがあった。今まで情報を扱う役割を担ってきたからこそ、そういう考え方をしてしまうのかもしれない。
「これで三浦さまが江戸の殿を動かされる」
栗山が目頭を揉みながら言う。
「すべてが終わったあと、福備はかつてないほどの混乱に見舞われる。それを鎮めるお方は殿以外におらぬ」
「三浦さまが江戸家老になられたことといい、久保が意外にもこの二年で柳沢と渡り合えるまで力を蓄えたことといい、すべてがいい方向に向かいました。やはりここで決着をつけるしかございません」
江戸家老の三浦もまた大黒の意志を継ぐひとりだ。そのために江戸で出世を果たし、家老に昇進した。並々ならぬ努力があったはずだ。それでも成し遂げたのは、ひとえに福備の悪を取り除くためである。それは先代藩主政友の悲願だった。生涯を江戸で暮らした政友は死の直前になって福備の現状に気づいた。自分も放置し続けた責任がある以上、取り除かなければならないと考えたが、病に冒されていたせいで果たせなかった。政友亡き後、大黒がその意志を継ぎ国元で勢力を伸ばしたが、あと一歩というところで失脚した。その後、二十年の雌伏のときを経て、今、先代藩主の願いが再び表出しようとしているのだ。
「いずれにしろあと五日だな……。五日のうちに片付く、か……」
栗山が遠い目をして言う。今までの長い道のりを思い返しているのかもしれなかった。藩の将来を憂えた日々。三浦にしても加賀山にしても、旧大黒派の者たちはこの日のために今まで過ごしてきたのである。
(だが、俺は違う)
藩がどうなるかは二の次だった。復讐のためであれば、利用できるものはなんでも利用する。だから、栗山を頼りに思っても、仲間と思うことはない。自分を動かすのは、これまでも、これからも巴恵、ただひとりだ。
(待ってろ、巴恵)
胸の内で呼びかける。それきり巴恵のことは思い出さなくなった。意識を決行の日にだけ向ける。
再会
「こうしたいきさつで、先ほど田中林蔵の屋敷で柳沢作兵衛をとらえたのだ。お前たちの助力もあってな」
新之丞から話を聞いた惣介と文七は口を引き結んだ。柳沢をとらえるよりもさらに難しい問題があらわれたのだ。三人は今、城下北の荒寺を目指している。新之丞はそこに馬を用意していた。柳沢を倒したあと南へ急行するためだ。
「これから俺たちは、巴恵が連れていかれた場所に向かうのか……」
惣介がぼそりと言った。高田川沿いの土手には、秋特有の乾いた風が吹いている。惣介の声は小さかったが、感情がこもっているからか、風に包まれていてもよく聞こえた。
「巴恵だけではない。幾人もの女子が連れていかれた」
新之丞は屋敷の中で見た女たちを思い出す。武家の妻子に限らず、町人、百姓。強引に連れてこられ、そして、欲望のはけ口にされた。女の相手はひとりではない。柳沢たちも、おこぼれにあずかるように女体をもてあそんだ。それを眺めてさらに昂ぶりを感じるらしく、柳沢たちに交じって女を抱き、殴り、噛みと暴力を振るい、心と体が壊れてしまうまでむしゃぶりつくした男がいる。
「女子にとっては地獄そのものだ。飽きられれば捨てられた。あの方の欲望には底がない。気に入った娘を見つければ、必ずや手に入れる」
新之丞が表情を消すのを見て、惣介もまた黙った。そんな二人を見比べて、文七が口を開く。
「新之丞に巴恵のことを話したおるいという女。そして、平瀬忠吾。あの事件の二人だな」
新之丞は文七をちらりと見たあと唇を噛みしめた。発言した文七も暗い表情を浮かべている。
「知っていたか?」
新之丞が尋ねると、文七は、
「そりゃ、徒目付だからな。いろいろ耳にしている」
思い出したくないといった様子で眉をしかめた。
「平瀬は自らの主人に忠実な男だった」
新之丞は言い、平瀬のことを語った。
「つまり、柳沢作兵衛に対して忠実だったということだ」
平瀬の妻におるいが選ばれたのは、柳沢がおるいを手に入れるためだった。おるいは巴恵たちが連れて行かれた場所で二年間勤めさせられた挙句、捨てられたが、その間に関係を持っていた柳沢はおるいの体に溺れていた。外に出されたおるいを柳沢はすぐに拾った。柳沢には妻がいた。そのため家士の平瀬忠吾におるいを娶らせ、そして、自身はおるいを好きなときにむさぼれるようにしたのだ。
平瀬はそうした事情を受け入れた。柳沢の命令は平瀬にとって絶対なのだ。もちろんおるいも納得している。おるいとしては、外に出されても結局、戻る場所がないのだった。捨てられた女たちは、生家に戻っても腫れ物のように扱われ、嫁ぎ先や嫁ぐ予定だった相手からも、汚らわしい、と嫌われた。親しかった人の豹変ぶりを突きつけられた女たちは、行き場のないことを悟り、結局同じような仕事に戻っていく。色町であったり、女郎屋であったりだ。そして、心身をすり減らしながら渡り歩くことになるのである。特に友浦湊の料理茶屋にはそうした女が多く流れてきた。船乗りたちの激しい求めに応じるには、心が死んだ女でなければ勤まらないからだ。友浦の料理茶屋は柳沢たちにもてあそばれた女たちのたどり着く最果てだ。
おるいは同じ境遇にいる女たちからそのことを聞いていた。ほかの者と比べて、まだ柳沢の相手だけをすればいい自分は恵まれている、と考えた。こうして平瀬とおるいは形だけの夫婦となり、柳沢の欲望を満たす日々を過ごしたのである。
悲しむべきことは、おるいと過ごすうち、平瀬がおるいに好意を持ってしまったことだ。おるいもおるいで、不器用だが、思いやりのある平瀬に心を開くようになった。二人は、夫婦として当たり前のように慕い合うようになった。
ちょうどこのころ、おるいは子を生んだ。平瀬が娶って半年が過ぎたころだ。時期的にも、平瀬の子ではないことはすぐにわかった。柳沢か、もしくはおるいの中に精を放った幾人もの男のうちの誰かが父だろうと思われた。そのことは理解していたが、平瀬は生まれてきた男児を甚之助と名付けて大切に育てた。平瀬とおるいは、せめて三人でいるときだけは普通の家族として過ごそうと、そう決意していたのだ。
だが、おるいはあくまで柳沢の女だった。柳沢が求めれば、おるいは向かわなければならない。子が生まれてもそれは変わらず、五日に一度ほどの頻度で呼ばれた。そのことが平瀬を苦しめた。平瀬は人一倍忠誠心の強い男だ。部屋住みだった自分を取り立ててくれた柳沢を自らの主人としてあがめている。その柳沢のもとに妻が向かい、抱かれている。家に赤子と二人残された平瀬は苦しみの中で過ごした。
そして、平瀬はついにある答えに行き着く。
おるいを殺し、自分も死ぬということだった。
ひと月熟考した平瀬は自分の考えをおるいに打ち明けた。おるいも、
「ぜひ、そうしてください」
とすがりついた。おるいは平瀬の妻として一緒に死ぬことを、むしろ望んでいたようだ。
平瀬はおるいを斬り、自らも切腹して死んだ。腹を十文字に斬るという、武士として見事な最期だった。
息子の甚之助は残され、平瀬忠吾の兄に預けられた。こうして甚之助は近習組平瀬源一郎の三男として新之丞の家士になるまでの時を過ごしたのである。
平瀬が死んでから数日後、新之丞のもとに手紙が届いた。遺書である。そこに刻まれた平瀬の苦悩を読み、新之丞は慟哭した。平瀬を哀れだと思った。権力に翻弄され命を断たざるを得なかった人間がここにもいる。新之丞は、どんなことがあっても目的を達しなければならない、と思った。巴恵のことも、平瀬のことも、思い出すたび決意が強くなった。
「平瀬忠吾のことを俺はよく知らぬが……」
惣介がつぶやく。
「子の平瀬甚之助は親子二代で柳沢に仕えたというわけだな」
「因果なのかもしれぬな」
新之丞は言った。
「甚之助はよく働いた。父には似ず、軽薄なところがあったが、それでも勤めの上では申し分なかった。だが、それは俺のためではなく柳沢のためだったのだ。ひょっとすると、柳沢になにか言い含められていたのかもしれぬ。実の父は自分だと、そう聞かされていたのであれば、あいつも哀れだったとしか言いようがない」
「柳沢は悪だな。いや、柳沢だけではない。人間としての心を持たぬ者ばかりが藩の要職を占めている」
惣介が言うと、文七が、そんなことはないぞ、と新之丞の背中を押した。
「ここに人としての心を持った中老がおられる」
「いや、俺も人の心は失っている」
固い声で言い、力ない笑みを浮かべる。
「郡代に昇り、執政衆の末端に加わってしばらくのころだ。ある娘を連れてくるよう指示された。小納戸組に勤める藩士の娘で、歳は十六だった。俺はその娘の身になにが起こるかを知っていた。だが、逆らうことはできなかった。娘とその家族を説得し、柳沢に差し出した」
「藩のためだろう? 新之丞は、今日、あの方を倒すために仕方なく従ったまでだ」
文七が言う。
「藩のため? そうだ。藩のためだ、と娘たちに言い聞かせた。だが、実態は、己の復讐のためだった。俺は、自らの恨みを晴らすため、娘を渡した」
娘たちの顔がよみがえってくる。みな、最初は絶望にくれ、話を聞かせるうち諦めに似た表情を浮かべるようになった。別人のようにやつれた。花咲くはずだった娘たちを摘んだのは俺だ。
拳を握りしめていると、惣介が大きく息を洩らした。
「俺の息子も逆らおうとしたようだ。ある娘が目をつけられ、それを助けるために久保に近づいた。香芝金吾と一緒にな。だが、二人では力が足りなかった。結局、清次郎はつかまり、金吾も久保の指示に従う以外どうすることもできなくなった」
言葉を切ったあと、惣介は自らに言い聞かせるような声になった。
「やはり、なにかをするには力がいる。新之丞はそれを得るために励み続けたのだ」
「それでも、俺が連れて行ったことには変わりない」
新之丞が言い返す。
「人生を捨てるよう説いた。それが家族のためになる、とさとしたのだ」
「仕方がなかった、としか言いようがない」
惣介もしんみりと言う。
「巴恵のことも仕方なかった。起きてしまったことは、もう、戻れぬ」
「仕方ないで片づけられることではない」
「俺は、お前の思いをまったく考えてこなかった。すまぬ、新之丞」
惣介が頭を下げた。新之丞は思わず言葉を詰まらせる。惣介に謝られたことで、今まで抑え込んできた感情があふれ出そうになる。
「だがな、新之丞」
惣介が顔を上げた。
「巴恵のことを聞いて俺は痛みを感じたぞ。お前から聞き、痛みを感じた。……俺は思うのだが、痛みを感じたのであれば、そこには責任が生じるということではなかろうか」
「責任?」
「百姓と付き合ううち、俺は思った。貧に喘ぐ姿を見て、俺は痛みを感じた。救わなければならない、と思った。そう思った時点で俺には責任が生じているのだ。だからこそ励んだ。百姓に少しでも楽をさせてやりたい、その思いでいっぱいになった」
惣介は遠くを見ると、鼻から息を吐きだした。
「……今回も同じだ。清次郎がとらえられた。胸を切り刻まれるほど苦しんだ。代わってやりたい、どうにか無事であってくれ。親としての切実な願いだ。だからこそ責任を負わなければならなかったんだ。自分をなげうってでも、必ず助ける。俺は心に誓った」
惣介が肩に手を置いてくる。ずしりと重い手だ。
「俺にも背負わせてくれ、新之丞」
「俺も背負うぞ」
文七が頬を人差し指で掻きながら言う。
「惣介と新之丞だけに任せておくわけにはいかぬ。お前たちだけでは危なっかしすぎるからな」
新之丞は惣介と文七を見た。中年になった二人は、目じりに皺を刻み、頭には白いものが交じっている。それでも、あの時から変わらない部分が残っている。
(本当に頼りになるな)
新之丞はしみじみと思った。しみじみし過ぎて鼻の奥が詰まるほどだ。
「で、俺たちはなにをすればいい?」
惣介が腕を組み胸を張る。
「向かうのは友浦湊の東」
新之丞は素早く答えた。
「丘の上に立つ屋敷、通称、波御殿」
「加賀山さまは一緒じゃなくてよいのだな?」
文七が言う。新之丞は鋭い目を向ける。
「林蔵の屋敷でも言ったが、大目付を連れて行けば警戒される。あくまで中老である俺個人として柳沢をとらえたことを報告に行く」
「そして、油断しているところを斬る、というわけか……」
瞳を光らせる惣介に新之丞は小さくうなずいた。
「長きにわたり福備を陰からあやつってきた人物……」
大きく息を吸い込み、言い放つ。
「多部玄庵。今日、俺たちの手で討つ」
二人が声をそろえて、
「おう」
と応じる。
「行こう」
新之丞は走りだした。左右に惣介と文七が続く。青春時代、なにを求めているのかわからないまま、とにかく城下や田園地帯を三人でよく駆けた。理由などどこにもなく、三人で思いっきり走ることが楽しくて仕方なかったのだ。
(あぁ、そうか)
今こうして駆けているが、懐かしさなどどこにも感じない。むしろ、当たり前のように思っている自分がいる。
(俺は、ずっとこいつらと一緒だったのか)
ひとりで戦ってきたつもりだったが、そうではなかった。
惣介と文七はそばにいた。
会わなくても、二人が消えたことはなかった。そのことが知らず知らず己を励ましてくれていたのだ。
田園地帯を過ぎた。馬を隠した寺に着く。苔が壁を覆い、はがれかけた石畳があらわになっている。境内に進み、雑草だらけの地面を踏みしめる。
「乗れ」
奥から馬を連れてきて二人に言った。
「よし」
惣介が一頭の手綱を取り、鐙に足をかけて飛び乗った。
「しかし、あれだな。なんというか……」
文七は、その場で苦笑を浮かべながら、新之丞と惣介を交互に見つめている。
「俺たちで向かうことは最初から決まっていたのか? まさか、用意した馬が三頭とはな」
言われて、新之丞は、
「ん?」
と止まった。
「……それもそうだな」
自分でも不思議だった。なにも考えずに三頭を寺に隠していたのだ。当初は、惣介と文七と一緒に波御殿に向かうなど考えていなかった。ひとりで決着をつけに行くつもりでいたのだ。
「どうしてだろうな。俺にもわからぬ」
しきりに首をひねる。だが、答えはどこにも見当たらなかった。無意識のうちの行動だったのだ。最初から馬を用意するなら三頭だと信じ込んでていた。
頭上から、ハッハッハ、という声が降ってきた。惣介が腹をおさえて笑っている。
「最初から決まっていたのだ」
顔を赤らめながら言う。
「最初から、三人で倒すと決まっていたのだ。そういうことなのだろうな」
瞬間、新之丞は青い蝶の羽ばたきを見た気がした。そして、本当に惣介の言う通り、最初から決まっていたのではないか、という思いになった。
(巴恵……)
ここに俺たちは再び集ったぞ。
一緒に蝶を見た三人が、今、ここに集ったのだ。
新之丞の中でなにかが弾けた。全身に力がみなぎる。
「惣介、文七。感謝いたす」
馬にまたがった。惣介が笑い、文七が遅れまいとして慌てて鐙に足をかける。
騎乗した三人は手綱をひき、寺の出口に馬を向けた。そして一斉に風の中へと駆けだした。