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「い、今、なんと仰せになられました?」

 新之丞は目を開いて上座の男を見つめた。部屋を行ったり来たりしていた柳沢は、急に立ち止まると興奮した顔を新之丞に向けた。

「赤木辰之進が逃げた。市原、お前に討手を申し付ける」

「なにとぞ、ご容赦願います」

 すかさず畳に額を打ち付ける。

「ならぬ。赤木は夕雲流の名手だ。対抗しうる人物はお前しかおらぬ」

「それがしの兄弟子です」

「えぇい。情けをかけてやろうというのだ」

 柳沢は苛立たし気に腕を振った。

「平瀬たちを向かわせてもよい。大目付を動かすこともできる。だが、そうなれば、赤木はなぶり殺しに遭うぞ」

「それは……」

「討手がお前であれば、赤木も納得するだろう。少なくともとらえられるよりはいい。とらえられれば、赤木は罪人として扱われる」

 新之丞は柳沢をじっと見つめた。気持ちが昂ぶっていたはずの柳沢は、話している間に落ち着きを取り戻したようで、今度は慈悲深いまなざしを向けてくる。新之丞は、ふと、森山文七のことを思った。大目付が動くのであれば、同心の文七も同行するかもしれない。そうなれば文七が辰之進をとらえる可能性もあるのだ。

(それはむごい)

 文七も辰之進のことを兄のように慕っていた。陽気な文七が辰之進の捕縛にかかわるようなことがあれば、文七の明るさに陰が落ちるかもしれない。それだけは避けたい。

「ご家老」

 新之丞は顔を上げた。拳を握り締め、決意を固める。

「どうか、それがしにお命じくだされ」

「おう、わかってくれたか」

 柳沢は、ほっとした様子で胸をおさえた。だが、すぐに瞳に光を宿すと声を高めて言った。

「しくじるなよ、市原。これを成し遂げれば、正式に我が派に加えてやる。次は勘定組だ」

「えっ」

 新之丞は思わず聞き返した。柳沢を見返しながら、汗が首筋から流れ落ちるのを感じる。

 新之丞はこれまでも、柳沢派に入るよう事あるごとに勧められてきた。だが新之丞は、柳沢に従うのはあくまで勤めのためであって柳沢派として活動する気はない、と断っていた。大黒と柳沢が対立する今、どちらに形勢が傾くかわからなかった。負けた方に加わっていればすべてが崩れてしまう。ここは静観した方がいい、と判断していた。

(それに……)

 と新之丞は思う。内心では、民も含めて福備藩全体を豊かにしようとする大黒の政策の方が好みだった。赤木辰之進も大黒派に属している。近習組で実績を残し、せめて奉行級になる程度まで出世したら大黒派に入ろう、と新之丞は心に決めていた。そこで、辰之進とときに手を組み、ときに争いながら、執政まで駆け昇る。そんな未来を描いていた。

 そのためには勘定組に役替えしてもらうのが早かった。算用を用いる勘定組は完全な能力主義で、有能だと認められれば、出自・年齢に関係なく上に昇ることができる。

(柳沢に読まれていたか……)

 さすが人心掌握が得意だと評判なだけはある。柳沢は、もう断れない状況に追いつめたうえで、派閥に入るよう伝えてきた。脱藩の恐れがある辰之進を追うことは、藩として当然の措置であり、柳沢は、その辰之進を斬ることを自らの派閥の問題と置き換えて命じたのだ。それが、先ほどの、

「我が派に加えてやる」

 という言葉である。このような話の持って行き方には戦慄さえ覚える。新之丞は柳沢に近づくたび、見えない糸のようなものが巻き付いてくるのを感じたが、それでもひとつひとつ慎重にほどいていたつもりだった。だが、甘かった。いつの間にか完全にからめとられ、身動きを封じられていたのだ。

「ただいまの仰せ……」

 下を向いた。頭に血がのぼるのを抑えようと、きつく目を閉じる。

「まことに恐悦至極にござります」

 言った瞬間、なにかが自分の中から抜け落ちた気がした。士道だとか、正義だとか、そうした自分が大切にしてきたものだった。

「期待しておるぞ、市原新之丞」

「必ずや町奉行を討ち果たして参ります」

「頼む」

 柳沢の声は柔らかかった。だが、新之丞は柳沢がどのような顔をして、こんな柔らかい声を発したのかわからない。悔しさで顔を上げることができなかったからだ。

 

 

 街道を進みながら、新之丞は自分の運命を呪った。まさか、辰之進をこの手で斬らなければならなくなるなんて。今まで一度も考えたことがなかった。

 本当の兄のように思っていた。

 いや、幼いころは、いつか巴恵と夫婦になって実際に義兄になってもらうのだ、と信じていた。

 剣も学問も優秀な辰之進は、いついかなるときも目標だった。

 辰之進の背中を追いかける日々が楽しくて仕方なかった。

(だが、やらねばなるまい)

 新之丞は後ろを振り返る。足早に駆ける新之丞を、つかず離れずの距離で追いかけてくる男たちがいる。五人だ。その中のひとりを新之丞はよく知っている。

 平瀬忠吾である。

 柳沢の家士である平瀬は、新之丞の監視を命じられているようで、新之丞が辰之進を逃がそうとすれば、問答無用で斬りかかってくるに違いなかった。

 相手が五人でも負ける気はしなかった。辰之進と力を合わせれば、返り討ちにすることもできる。二人の剣は藩内でも屈指だ。

 だが、平瀬たち監視を討てば、藩を敵に回すことになる。追われる立場になったとして、どこに向かえばいいのだろう。身一つで逃げるには、この藩には自分のかたわれのようなものが残りすぎている。惣介や文七もそうだし、なにより巴恵がいる。未練なくというわけにはいかない。

(逃げたところで、結局は藩から追っ手が放たれる)

 それは、惣介が申し付けられるかもしれなかった。そのことを思うとぞっとする。惣介に追われ、斬り合いをしなければならないなんて。自分たちの友情の行き着く先がそんな結末になるなど悲惨すぎる。

 新之丞は覚悟を決めた。だからこそ先ほど平瀬に近づき、頼んだのである。

「俺と赤木の決着がつくまで、なにがあっても手出ししないでくれ」

 平瀬は新之丞の言葉の意味をしばし考えると、

「わかった」

 とつぶやいた。平瀬は、柳沢の家士をしている割に、主人には似ず義理堅い男だった。一度約束した以上、果たしてくれることを新之丞は知っている。

 こうして新之丞は辰之進だけを追うことができているのだ。辰之進が向かったのは南西だった。どうやら、西隣の広次領に逃げ込むつもりらしい。話を聞いたとき、新之丞は、おや、と思った。逃げるなら東のはずである。上方や江戸の方が、潜むにも目立たなくて済むはずだった。

 だが、辰之進は南西を目指した。

 そこになにかしらの意味がある、と新之丞は考える。

(逃げるつもりはない、か)

 辰之進は逃げていることを装って、別のなにかを狙っているらしかった。それを為し遂げるため、あえて罪の重くなる逃亡をはかったのだろう。

 では、辰之進の狙いとはなんだろう。

 しばし頭を巡らせた新之丞は突如刮目する。

(なにかを残そうとしているのか?)

 辰之進の剣にかなう人物は限られる。討手に選ばれるのは、仁田道場師範代の仁田馬之助か、もしくは惣介か自分。それか、西澤道場の山口又八といったところだ。辰之進はそのことを見越して逃げたのである。そして、追ってくる人間は、柳沢の性格からして、十中八九、仁田道場の関係者が選ばれるに違いない。柳沢は、敵が一番苦しむだろう手段をとるのが好きな男だ。辰之進はそのことを知っている。

 新之丞は奥歯を噛み締めた。自分の考えが正しければ辰之進が領外に出ることはまずない。道のどこかで待ち伏せ、自分のよく知る人物に、なにかを残すつもりでいるのだ。

 それは何だろう、と新之丞は思う。すぐに思い至る。

 辰之進は大黒を救い出すための証拠を握っているのではないか。自分が死んでも大黒だけは助ける。大黒であれば藩を正しい方向に進めていくことができる。辰之進はそう考えているのだ。

 辰之進が心酔した大黒典膳は、今、柳沢との派閥抗争に敗れて閉門を言い渡されている。大黒派の主だった連中も同じだ。この数日で、一気に形勢が変わった。柳沢が放った策に大黒がまんまと引っかかったのだ。

 大黒の政策は、産業を興し、福備全体を豊かにしようというものだった。特に特産品である木綿の江戸販売に力を入れ、綿花の植え付け奨励、高機織機の導入などを積極的に推し進めた。だが、金がいった。大黒は領内の商人から集めようとしたのだったが、その中に柳沢の息のかかった者が紛れ込んでいたのである。彼らは、利子を抑える代わりに、江戸での販売網の構築を任せてもらいたい、と申し込んだ。

 元より、福備商人の力を借りて江戸での販売を行うつもりでいた大黒は話に乗った。が、このとき、商人は大黒派の何人かに金を配っていたのである。大黒自身は受け取っていなかったが、下の連中がもらっていたことで大黒も責任を負った。事実を柳沢から突き付けられた大黒は反論の余地すら与えられずに、即刻、自宅での謹慎を言い渡されたのだ。それは、のちに閉門へと切り替わった。

 強引だ。だが、柳沢にはそれを押し通す手腕がある。なにより権力者のあいだでは、正論よりも柳沢が使うような手管が好まれることがある。柳沢は、そこら辺を頭に入れながら罠を仕掛けたのだ。

 新之丞は柳沢が藩政を握ることに危惧を感じていた。政治が苦手な柳沢は失敗を犯しながら、それを誰かに押し付け今の地位を得たのだ。それが日常的に行われるようになれば、福備には疑心暗鬼が蔓延する。そして柳沢の性格からして、自分に近い人間だけに地位を与え、政治と称して好き勝手するに違いないのだ。

(もし、辰さんが証拠を握っているなら……)

 それを預かり、しかるべき場所に提出するのは俺の役目だ。

 大黒が無事であれば、たとえ執政が柳沢派で占められたとしても、対抗する手段が絶たれはしない。大黒は良識ある人間だ。そして大黒に傾倒する者は赤木辰之進の他にも多くいる。それらを擁して柳沢に歯止めをかける役割を担うことは可能なはずだ。

 そして、ひそかに力を蓄え、再び藩政の実権を取り戻す。

(辰さんは命を賭して大黒を助けようとしているのではないか)

 考えを巡らせる新之丞の頭に突如ある人物の名が浮かんだ。

 多部玄庵。

 藩主の叔父である玄庵は友浦湊の東、波御殿で暮らしている。温厚な人物だったが、それでも藩主一門であることに変わりはない。執政たちが間違ったことをしていれば、それをいさめるだけの権力は持っている。そんな玄庵であれば、大黒の処分を先延ばしにし、その間に藩主に顛末を聞かせ、柳沢が筆頭家老になるのを阻止することができるはずだった。そのためには、大黒に罪がないことを示す証拠を見せる必要がある。

 新之丞はいくつかの漁村を過ぎ、いくつかの丘を越えた。左手にはいつも海のきらめきがある。

 進んでいると、前方に人影があらわれた。

 松林から出てきたのはけっして見間違えようはずがない。

 幼いころからずっと自分の先を歩いてきてくれた男、赤木辰之進だ。

 

 

「来たか」

 辰之進は新之丞に笑みを向けた。なぜか少しだけはにかんでいるように見えた。

「赤木辰之進、脱藩は重罪ですぞ」

 新之丞は、後ろに控える平瀬たちに聞こえるよう声を張り上げた。

「だから、こうして待っていた」

「そなたは謹慎を言い渡されております。それを破って、こうして逃げたこと自体が罪」

「お前と会うにはこうするしかなかった」

「俺に?」

 新之丞は眉をしかめた。やはり辰之進は自分に会うつもりでいたのだ、そう思った。

「柳沢も俺の願いを入れてくれた。そうしたところは憎めぬよな。人の心をつかんでしまうのは、そうした憎めなさにあるのかもしれぬ」

「どういうことですか?」

 心の臓が激しく打つ。辰之進の言っていることと今の状況に、なにか重大な齟齬のようなものがある気がする。

「柳沢から命令されて来たのだろう?」

 辰之進が目を上げて言う。

「それはそうですが……」

「俺が柳沢にしたためたのだ。広次領との国境沿いで待つ。討手は、市原新之丞を指名する」

「あっ」

 新之丞は口を開けた。柳沢とのやり取りを思い出した。あのとき柳沢は、辰之進を罪人としてとらえないためには新之丞が追うしかない、と言ったのだ。見事果たせば派閥に加えてやるとも言った。だがそれらはすべて芝居で、むしろ新之丞は辰之進本人から指名されていたのである。それを利用して新之丞に恩を売り、自分の配下に引き入れるよう導いたのだ。

「どうした。なんだか腑に落ちぬという顔をしておるな」

 辰之進が首をかしげながら言う。

「辰さん、今回はやめましょう。なにか決定的な間違いを犯している気がします」

 新之丞は必死に訴えた。柳沢の手の上で転がされていたという事実に寒気を覚えている。

「もう遅い。大黒さまが敗れた時点で終わりだ」

「ですが辰さんには残っているものもあります。たとえば巴恵。それから俺たち……」

「新之丞。やはり、終わってしまったのだよ、俺は」

 辰之進は力ない笑みを浮かべながら、静かに刀を抜いた。

「だが、託すものはある。お前を指名したのは、そのためだ」

「証拠ですか? 大黒家老を救うための」

 新之丞が聞くと、辰之進は一瞬眉を持ち上げたあと、くくく、と笑った。

「そのようなものがあれば、どれだけ救われるだろうな」

「え?」

「ない。たとえあったとしても、大黒さまはもはや再起できぬ。見限られてしまったからな」

「見限られる? 見限られるって、いったい誰に?」

「神、とでも言っておこうか」

「ふざけないでください、辰さん!」

 新之丞の怒声に、辰之進は刀を構えることで答えた。

「抜け、新之丞。俺は立ち合うことで、お前に託す。かつて竹刀を交えながら多くを語ったようにな」

「なにを言っているのです!」

「お前を弟のように思っていた。だから最期の相手はお前であってほしい」

「辰さん……」

 辰之進の笑みを見て、新之丞は心を決めた。もう、どうあっても引き返すことはできないのだ。であれば、武士としての散り際に花を添えてやるべきだ。そう決意させるほど、辰之進の笑みは優しかった。そのことが、虚しい。

「参るぞ」

 辰之進が告げる。新之丞は刀を抜き、正眼に構えた。

 途端に目の前がふさがった。辰之進が上段に刀を振り上げて迫っている。

 新之丞は、足をひきながら受けた。跳ね返ってくる二の太刀も防ぐ。手に重たい衝撃が走った。

 辰之進らしい剣だった。潔く、正確だ。守る新之丞は、

(こんな辰さんに憧れた)

 込み上げてくるものを抑える。間違うことはけっしてなかった。そばにいて安心感を覚えていた。

 辰之進のような人間になりたい、と日々思っていた。竹刀を握るときも、書物に向かうときも辰之進の背中が目の前に浮かばないことはない。この背中を追いかけていれば大丈夫、そう思っていた。

「どうした、新之丞。遠慮はいらぬぞ」

 幼少時、拾った木の枝で剣術の真似事をしたことがある。あのときと同じ表情を浮かべながら辰之進は刀を振っている。

「遠慮などしておりませぬ」

 新之丞は胴に走る一撃を弾いた。弾きながら前に踏み出して相手に圧力をかける。が、辰之進はそれには乗らず、今度は八双から打ってきた。

「むっ。防ぐか」

 顔の前で受ける。辰之進が力を込めて押し、新之丞は足を前後に開いて耐える。つばぜり合いだ。

「新之丞、さすがに強いな」

 辰之進が白い歯を見せる。

「惣介は、もっと強くなっています。あいつは化け物です」

 新之丞も笑う。兄とも慕う男を斬らなければならないことが、いつの間にか頭から消えている。辰之進の嬉々とした表情が、子どもの頃に遊んでいた感覚を思い出させる。

「惣介か。あいつは確かに強いな。迷いがない」

「正しいことを正しく行います」

「だが、じき、そうもいかなくなる。組織に勤めるとはそういうことだ」

「そんなことはありませぬ。あいつは、ずっと……」

「お前がついていてやればな」

 辰之進が言葉をかぶせて言った。

「惣介だけではない。この福備で暮らすすべての人たちに言える。理不尽さから守ってくれる者がいれば、正しい行いを選ぶことができる。人とはそういうものだ」

「俺に、なにをしろと?」

「戦ってやれ。人々のために戦うのだ。それができる人間は、そう多くない」

「柳沢ですね。柳沢を仕留めるために俺はこれから生きればよいのですね」

「ふむ……」

 辰之進が一歩離れ、刀を振り下ろそうとした。新之丞は間合いを詰めて、刀を合わせる。力比べをしながら、辰之進が顔を近づけてくる。奥歯を噛みしめながら、激しい呼吸の合間で言う。

「お前には酷なことを申し付ける。長く苦しい道のりだ。だが、お前しかおらぬ」

「いったいなんだというのです……」

「敵は柳沢だけではない。俺も最近になってそのことを知った」

 言うと、辰之進は新之丞の耳元であることをささやいた。聞いた瞬間、新之丞は全身が冷たくなるのを感じた。

(まさか……)

 茫然とする新之丞を辰之進が見返す。目が合うと、真顔でうなずいた。

「新之丞」

「はい」

「一つだけ謝る。巴恵のことだ。俺はあのとき、ああする以外に方法はない、と思っていた。だが、今思えば、ただ出世に目がくらんでいただけなのかもしれぬな」

「それは……」

 新之丞は口ごもった。辰之進が後方に飛びのき、着地と同時に迫ってきた。刀は下段に据えられている。その剣が、見えない位置から新之丞めがけて飛んできた。

 新之丞は筋肉を引きちぎるようにして剣を振り上げた。

 刀と刀がぶつかる。

 かろうじて防ぐことができた。辰之進の剣は乾坤一擲の一撃だったのである。

 下段からの攻撃を跳ね上げられた辰之進は右によろけた。

 それを新之丞は見逃さない。

 円を描くようにして上段で止まった刀が、辰之進のがら空きの胴に走る。

「うぁあああ!」

 腹の底から叫ぶ。刀を止めようとしたのか、辰之進との別れを振り切ろうとしたのか、自分でもわからない。ただ、魂が灰燼に帰すことを願って叫んだ。

「うっ……」

 辰之進の体が海老のように反った。新之丞の刀は、胸から腹にかけて深々と斬り裂いていた。

「あとを、頼む、ぞ……」

 辰之進が倒れる。その顔は苦痛にゆがんでいるように見えた。人生を振り返って後悔に苛まれている、そんな表情だ。

 それでも辰之進は格好よかった。

 死に際にこのような表情を浮かべられる人生もまたひとつだろう、と新之丞は思う。命を燃やして生き抜いた果ての後悔だ。

 仰向けに倒れた辰之進を新之丞は見下ろす。かすかに肩が上下しているのを見て、はっ、と気づきしゃがみこむ。

「辰さん!」

 仰向けになった辰之進の目は白濁していた。もうなにも見えていないようだ。新之丞は歯を噛みしめると、刀を辰之進の首に当て、横に引いた。血が噴き出し、辰之進の頭がぐったりと折れる。辰之進を抱きしめ、全身で震えた。

「見事だ」

 声をかけられる。振り返らなくても監視役の平瀬だとわかる。

「赤木辰之進、ただいま、討ち果たし申した」

 新之丞は辰之進を地面に横たえさせると、自らの刀を拾い上げ、鞘にしまった。

「しかと、見届けた」

 平瀬が答える。新之丞は平瀬の横を通り過ぎながら耳元でささやいた。

「なにか聞いたか?」

「なにも」

 顔を向けると、平瀬は生真面目な表情で見返してきた。新之丞は視線を外し、

「なら、よい」

 再び歩き始めた。

 街道を進む。どれほど歩く間もなく、海風が全身を包み込んできた。空は高く、地面は真っ白な陽光を跳ね返している。

 歩きながら新之丞は目を細めた。道の果てに友浦湊と、丘の上にそびえる波御殿が見えた。今からあそこに向かって歩くのだ、と新之丞は思った。見上げる空は雲一つない晴天で、その穏やかさは底がないほど静かだった。

 

(つづく)