第一幕 ~加瀬惣介~
「藩を転覆!」
惣介は絶句した。息子がそのような無謀なことを考えていたとは想像もつかない。藩政を変えたいという気持ちはわかる。今の藩の仕組みがうまく行っていないことは惣介も百も承知だ。特に百姓に対する苛政は目に余るものがある。
(だが転覆とは……。まだ出仕もしておらぬのだぞ)
そう考える惣介の額に脂汗がにじむ。藩を転覆しようとしてつかまったのなら、まず、打ち首は免れない。そして、確実に自分たち家族、それから親戚にまで累が及ぶ。
「だが、証拠は見つかっておらぬ」
文七が、とりなすように付け加えた。惣介は、はっとなって顔を上げる。
「疑いをかけられているだけだ。だから大目付の加賀山さまは、清次郎たちを友浦牢に送ったのだ」
「友浦牢の方が扱いはひどい。そう噂で聞いている」
「いや、むしろ逆だ。あそこはなかなかしっかり規律が行き届いている。そして、清次郎たちを守るには友浦牢に入れるしかなかったのだ」
文七は首の後ろを掻いたあと身をかがめた。あたりをうかがうように視線を走らせたあと、小声になって言う。
「柳沢家老が動いた」
「ご家老が?」
「しっ……。声を落とせ」
文七は人差し指を口に当てると、真顔でうなずく。
「清次郎たちが集まっているところをとらえるよう指示があったのだ。大目付配下にも柳沢派の人間がいてな、そいつらが集団で駆け付けた。だが、それが加賀山さまに知られてな。大目付である自分の指示なくして動くなど言語道断、と激怒されたのだ。それで、清次郎たちをとらえた柳沢派の連中から六人を奪い返した」
「大目付がご家老にたてついたのか?」
「そうだ、加賀山さまは柳沢を嫌っておる」
「ふむ……」
聞きたいことは山ほどあった。だが、清次郎のことを聞く方が先だ。
「それで清次郎は?」
「加賀山さまが調べたところ、六人が藩を転覆させるなどということはまずありえない。今の執政に不満こそ持っているものの、清次郎たちに、実際に行動を起こすまでの考えはなかったようだ。ただ、尋問で証拠が出なかったからといってすぐに解き放つわけにもいかぬ。とらえた以上、無実だという証拠もまた必要だからな。そこでとりあえず友浦の牢に入れ、改めて調べようということになったのだ」
「ということは清次郎は罪を犯したわけではないのだな!」
惣介の声が大きくなる。雪乃が言ったように、やはり清次郎は無実だったのだ。であれば、清次郎を救い出す方法はある。
「今から、俺たちも調べる」
文七が座り直してから言った。
「友浦牢に送ったのは、城下の牢屋敷であれば、比較的柳沢は自由に出入りすることができるからだ。あそこの牢奉行は柳沢派の柏木だ。もし、清次郎たちを城下の牢に入れれば、柳沢は必ずや厳しい取り調べを行い自白を強要する。とらえられているのは六人。一人でも拷問に音を上げれば、全員同罪になる。たとえそれが、苦痛から逃れるための、うその自白であってもだ」
「そういうことが実際に起こりうるのか?」
「悲しいかな、今まで、そうして罪を得た者が何人もいる。大目付配下として勤めていると、藩の裏側を見ることが、それなりにあるのだ。柳沢は、そうやって目障りな人間をつぶし、自分の権力を強固なものにしてきた」
惣介にも心当たりがあった。頭角を現し始めた者。藩政に反対した者。それらの中の何人かが突然罪を得たことがある。理由は失政であったり、商人との癒着であったりと一見納得しやすいものだったが、それすらも柳沢が操作していたのだとしたら恐怖以外のなにものでもない。柳沢作兵衛が二十年もの長きにわたって藩の頂点に座り続けている理由が垣間見えた気がする。
(かくいう俺も……)
拷問こそされてはいないが、理不尽な理由で更迭させられたひとりだ。そう思って胸の内に暗いものを感じた惣介だったが、文七に話しかけられてうつつに引き戻された。
「加賀山さまのおかげで、今回は柳沢の思惑通りにことを運ばせなかった」
文七の幾分紅潮した顔からは、年始に大目付に就任したばかりの加賀山に対する信頼が表れている。
「加賀山どののおかげとは?」
惣介が聞く。文七は、待ってましたとばかりに飯台に手をついた。
「加賀山さまは、柳沢の魂胆を見抜いていたのだ。友浦の牢屋敷に清次郎たちを送ったのは、先ほども述べたが、あくまで守るため。友浦牢の牢奉行は派閥とは無関係の中立の者だ」
「沢田だな」
「そうか、惣介は湊組だったな。であれば、沢田さんの人となりも理解しているわけだ」
「いや、そうでもない。沢田とは深く付き合ってはおらぬ」
「ふむ、そうか」
文七は箸を頬に当てて考えたあと、
「謹厳実直なお方だと加賀山さまから聞いている。道理の通らぬことであれば、相手が誰であろうと屈することはない気骨者だそうだ」
納得するように数回うなずいた。
「つまり、柳沢家老から要望があっても従わぬと?」
惣介が話をまとめる。
「友浦湊の牢役人だとあなどり手なずけてこなかったのがあだとなったな。もっとも、手なずけようとしたところで、沢田さんなら突っぱねただろうがな。加賀山さまはそうした沢田さんの人柄を見込んで、調べが終わるまで清次郎たちをかくまってもらうよう頼んだのだ」
文七の言葉が本当なら、ひとまず安心できそうだった。さらに、これから調べが進められ、無実が判明すれば、清次郎はすぐにでも解き放たれることになるだろう。調べは丁寧に行われるだろうし、そもそも罪がないのであれば、すぐにそれが証明されるに違いない。大目付の加賀山は、文七の話ぶりからして、信じてよい男のようだった。
「ところで、その大目付の加賀山どのだが……」
惣介は、先ほどからしきりに文七が褒めそやしている大目付のことを聞いた。
「どのようなご仁なのだ?」
元は江戸詰めだと聞いていたが、見たこともなければ、関心を抱いたことさえない。友浦湊で暮らす惣介からしたら、城下在住の大目付は近くて遠い存在なのだ。
「加賀山さまは、江戸家老の三浦さまが派遣されたお方だ」
文七がぜんざいをかき込みながら言う。
「どうも、江戸方が国元の政治に対して不信を持っているらしくてな。特に二年ほど前に江戸家老に就かれた三浦さまは、その思いを強く抱かれているようだ。それも当然だな。二十年もの長きにわたって、ひとりの男が権力を握り続けてきたのだ。誰でも怪しむ」
「柳沢家老をおさえるために加賀山どのが遣わされたというのか」
「ま、楔を打つため、といったところだな。だが、加賀山さまは楔にはもったいないほど優秀なお方だ。柳沢の自由は今、加賀山さまのおかげで、少しずつせばまっている。今回の一件でも、そのことが証明された」
「それなら、清次郎は大丈夫そうだな」
惣介は吐息をついた。自分の内面が空っぽになってしまうような深い吐息だった。それほど気が張り詰めていたのだ。
「いや、一概にはそうともいえぬぞ」
文七が表情を険しくする。
「柳沢にも面子がある。自分が指示を出してとらえさせた六人が無罪放免となれば、顔に泥を塗られたも同じこと。柳沢としては、絶対に罪を着せたいはずだ」
惣介は再び肩に力を入れた。
「文七の言う通り、六人が何事もなく放たれれば、柳沢の権力にかげりが見え始めたと噂する者が出る。柳沢に反対する勢力が、ここぞとばかりに動き出すかもしれぬ。そういうことだな?」
「柳沢は、清次郎たちを罪人に仕立て上げなければならない状況に自らを追い込んでしまった。あるはずもない証拠を作り上げてでも、六人を処刑しなければ立つ瀬がないのだ。柳沢は今、加賀山さまのおかげで、この上なく焦っているはずだ」
「柳沢が動く、か……」
「徒目付として長らく勤めてきた俺の勘だが……。確実に動くぞ」
惣介と文七は黙り込んだ。黒雲がみるみる頭上に広がり、深く垂れこめてくるのを感じる。大目付の加賀山が頼りになる男だということは理解できたが、柳沢は二十年も権力を握り続けた筆頭家老だ。動かせる人員も、費やせる金も桁違いのはずである。そのことを思うと、いまさらながら、清次郎が追いやられた立場、そして自分が直面している状況がどうしようもないほど困難なことだと気づかされた。
「失礼つかまつる」
惣介が喉の唾を飲み込もうとしたときである。襖の向こうから声がして、二人は同時に顔を上げ、ばっと飯台から離れて身構えた。
「藤田にございます。森山どの、少々よろしいでしょうか」
文七が緊張を解いた。
「俺の下で働いている同心だ。なにかあれば、この店に来るよう言いつけておいた」
言いながら立ち上がり、文七は襖の向こうへ消えていく。
「なに!」
文七が襖を閉めてすぐのことだった。鋭い声が店中に響き渡る。
それから少しの間、文七と藤田という同心はやり取りを続けていたが、やがて文七は部屋に戻ってくるなり荒々しく惣介の前に座った。
「ただならぬことになったぞ」
早口に言う。
「清次郎たちの裁きが五日後に決まった」
「五日後……」
「あまりに早い。確実に柳沢が手をまわしている」
「つまり、清次郎は……?」
「おそらく処刑が言い渡される。柳沢は罪となる証拠を作り上げることによほど自信があるようだ。あるいは、すでに証拠をそろえているか」
「バカな。清次郎たちは無実なのだろう?」
「先ほども言ったが無実を証明するにも証拠がいるのだ。それをこちらが見つけるより先に、罪人に仕立て上げてしまおうという魂胆だ」
「そんな……」
「一度裁きがくだされれば加賀山さまも口出しはできぬ。柳沢はこうなることを見越したうえで、多少強引にでも清次郎たちをとらえさせたのかもしれぬ。クソ、裁きのほうも想定済みだったとは考えもしなかった」
「五日……」
惣介はつぶやいた。それから凝然と飯台の上に視線を注ぐ。椀の中で白玉が黒いあずきに飲み込まれて沈みかけていた。惣介はなにか怖ろしいものを見るような目で、それを見つめた。
六
家に帰ると、妻の美津は倒れたときのまま床についているということだった。迎えに出てきた雪乃がそう告げた。
「それで、お兄さまのことはなにかわかりましたか?」
着替えを手伝ってくれる娘に、惣介は、うむ、とうなずいただけだ。美津の代わりを務めているつもりだろうが、娘に着替えを手伝ってもらうのは、小さいころにそういった遊びをしたぐらいで、実質初めてのことだった。
「なに、心配いらん。清次郎は無事だ。罪も犯しておらぬ」
惣介は大人にするような口調で言った。
「では、戻られるのですね?」
「それは、まあ……」
ふたたび口ごもる。ここで清次郎の立場を伝えていいものだろうか。藩内部の権力闘争が絡んだ話である。年端も行かぬ娘に聞かせる必要はない。惣介は、一度咳払いして、
「清次郎のことは父に任せろ。必ずやなんとかする」
昼と同じことを言った。雪乃は父の瞳を覗きながら、
「はい。わかりました」
と小さく返事をした。
着替え終わって妻の部屋に向かった惣介は、盛り上がった布団の脇に腰を下ろした。静かな寝息を立てる美津を見下ろし、
(痩せているな)
そう思う。顎先がとがり、頬骨の浮き出た顔は、ただでさえ気の強い女をさらに険があるように見せていた。だが、それは自分のせいかもしれない、と惣介は思う。長年、城下を離れて郷村で暮らしてきた。そして、今も友浦の湊町で一人暮らしている。家に帰るのは年に数回で、その間、すべてを美津に任せっきりだった。夫のいない家を守るために、美津は必要以上に心を砕いてきたのだろう。
「清次郎はおそらく大丈夫だ。心配せずともよい」
美津に対して、久しぶりにいたわる気持ちを抱くことができた。眠っている美津が、あまりに無防備な表情をしていたからかもしれない。惣介は、ふっと息を吐きながら語りかけた。
「ただ、五日だ。五日以内に、清次郎を救い出さねばならぬ」
とらえられてから五日という期間の短さが不気味だった。柳沢は、よほど証拠を作り上げることに自信があるらしい。
(あと五日で証拠を作り上げることができるというのか)
それが可能だと信じている。なにを根拠にそう思うことができるのか? 考える惣介の頭に一人の男が浮かび上がってきた。
細面に切れ長の目。冷たさをたたえるととのった容貌。
中老の市原新之丞である。
幼少期を一緒に過ごした新之丞は権謀術数に長けており、今、柳沢派の知恵袋として辣腕を振るっている。柳沢にとって邪魔な者を追い落とすために、新之丞は幾度となく助言を与えてきたはずだ。そんな新之丞こそ、今、柳沢がもっとも頼りにしているはずである。
「新之丞めっ……」
無意識のうちに吐き捨てていた。袂を分かつことになったかつての友を憎々しく思う気持ちがあふれ出る。
「俺をおとしいれやがった、あの新之丞が今回も……」
惣介は部屋の隅に視線を向けた。新之丞を恨みながら、無邪気に寝ている美津を眺めることは、なんとなくそぐわない気がした。部屋の隅は行燈の光が届かず黒々としている。ぼんやりと漂う闇を見つめながら、惣介は奥歯を噛みしめる。
惣介が郡奉行からはずされる原因になったあの事件。
二年前、芦田村を中心として起こった百姓一揆に新之丞はかかわっていた。
城下に迫った百姓たちの前に交渉役として現れたのが、当時、勘定奉行を勤めていた市原新之丞だったのだ。しかも新之丞は藩主多部政通の叔父である多部玄庵もその場に連れ出していた。普段めったに人前に姿を現さない玄庵は、藩主政通が江戸から離れられないということもあって、国元では藩主の名代といえる存在である。性格は温厚で、政治に関しては一切口出ししないそうだが、藩に危機が訪れたときは、自ら矢面に立ってでも解決にあたるということがあった。そうした姿が藩士たち、また福備の民からも慕われていた。
あのとき新之丞は単身一揆勢の中に乗り込み三日三晩説得にあたっていた。それがうまくまとめられないとみるや、玄庵を引き連れて百姓のもとに再び向かったのである。藩主一門の玄庵の登場は大きかった。玄庵を目にした百姓たちは感激し、交渉もすんなり進んだと聞く。その後、玄庵は去り、新之丞だけが残って細かいところを詰めたのだったが、それも終わって新之丞が城下に帰ってきたときには一揆勢は村に引き返していた。
その後、すみやかに賞罰が行われた。そこで、勢いを得ていた中沢家老の切腹が決まる。そして、その処罰が惣介にも及んだのだった。説得できなかったことを理由に、郡奉行の任を解かれ、湊奉行配下湊組勤めに降格させられた。家禄は元のまま百五十石を許されたが、それは、今後、けっして増えることなど望めなかった。農政部門では、惣介をはじめ、ほとんど無関係の者まで処罰を受けたが、その一方で、当時、芦田村などを担当していた郡奉行の宮下源九郎は叱責を受けただけで役職はそのまま、郡代の任にあった影沢彦右衛門は近習組頭へ役替えとなるなど、柳沢に近かった者への処罰は甘かった。そして、その空いた郡代の席に座らされたのは、百姓を説得することに成功した市原新之丞だったのである。新之丞は郡代に昇進したことで、執政入りを果たすことができたのだった。
新之丞が郡代になったと聞いた惣介は怒りを爆発させた。自身の更迭など忘れてしまうほどの、激しい怒りだ。
まるで新之丞が郡代になることが決まっていたかのような人事である。そのことを考えれば、新之丞が林蔵たちの説得に当たったことも納得がいく。百姓との交渉で功績をあげることで、農政をまったく知らない新之丞が郡代になることを後押ししたのだ。
「そして、俺を郡奉行からはずしたのも……」
惣介は妻の前でぶつぶつとつぶやく。二年前のことを考えると、頭が熱くなり、目の前が真っ白に塗りつぶされていく。
新之丞が郡代を勤めやすくするため惣介を外すようあらかじめ決められていた、そう考えるとすべてに合点がいく。そもそも執政に辛辣な意見を述べる惣介は柳沢たちから目障りだと思われていたのだ。そのくせ誰よりも農業に明るいため、放っておけば郡代に推す声も出てきそうなほどだったのである。新之丞が郡代になっても、現場から信頼されている惣介がいては、自由に振舞えない恐れがある。なにより、新之丞と惣介は犬猿の仲なのだ。一度激しくやり合って以来、口も聞かなくなっていることは藩内では周知の事実である。
「おのれ、市原新之丞!」
惣介は拳を握りしめた。思い出しただけで、はらわたが煮えくり返りそうだ。なにがあっても許せない。俺から人生を取り上げた男だ。
「お前さま」
突然、膝元から声がして、惣介は我に返った。眠っているはずの美津が目を開いて惣介を見つめている。
「今、なにを考えておられたのです?」
「それより、お前、気づいたのか?」
「新之丞め、と言われたときから起きていました。新之丞というのは、市原さまのことですよね?」
「うむ、そうだが……」
惣介が口ごもると、美津はゆっくりと床の上に起き上がった。
「お前さま、なぜ今、市原さまのことが出てくるのです。清次郎がとらえられたのですよ。そんなときに、どうして?」
顔を真っ赤にして美津が言う。惣介は答えることができなかった。美津は惣介と新之丞の関係を知っている。郡奉行からはずされたのは新之丞のせいだ、と怒りをぶつけたことがかつてあった。そして、そのことを美津は思い出し、不愉快になっているようだ。
「息子のことより、ご自身のことですか。あなた、それでも父親ですか!」
美津にののしられ、さすがに惣介もかっとなる。
「俺が、今日一日、なにをしていたかも知らず、よくそんなことが言える。お前は、ただ床の中で寝ていただけではないか」
「それが、意識を取り戻したばかりの妻にかける言葉ですか」
「お前のことなど知らぬ。勝手にせい!」
惣介は立ち上がると、足音を響かせて部屋を出た。襖を閉めたあと、後ろでなにかがぶつかった。美津が枕を投げつけたのだ。惣介は襖をにらみつけたが、聞こえよがしに舌打ちして、大股に廊下を進んだ。